Ⅱ 貴人


 海をめがけて直下降した鳥が魚を嘴に咥えるや否やふたたび空に戻るようにして、俺を乗せた青年魔法使いの箒はシジッタ地区の違法建築の壁を駈け上がり、下からは糸のように見えた僅かな隙間を巧みに縫って上空に飛び出した。斜め下には大河が流れ、新鮮な風が頬を打つ。

「追っては来ないようだ」

 悪党たちは下界の街の底で拳を振り上げていた。彼らは外に出た者を追うことまではしないようだ。天空から眺め降ろす灰色のシジッタ地区はまるで蟲が孔だらけにした朽ちた切り株で、あんな処に居たのだと想うと俺はぞっとなった。

 青空が眼に眩しい。箒の前に乗せられた俺が明るさに眼を慣らしていると、

「泣くことはない」

 魔法使いが俺の顔をのぞき込んだ。それなりに緊張していたのだろう。俺の顔は強張っていたし、いきなり眼球に光と風を受けたことで涙まで滲んでいたのだ。それに加えて、俺は魔法使いに片腕で支えられて箒の前に横座りをしている。女の子みたいでそれも情けなかった。

「そんな可愛い顔をしていたら連れ去られてしまうぞ」

 青年は俺の顔を見つめて微笑んだ。俺はそんな彼に向かって吼えた。

「ばかやろう」

 飛んでいる箒の上で俺は脚をじたばたさせた。

「スタニ、スタスニ」

 噛んだ。

「スタニスラフ・フォン・オーラミュンデ。あんたが誰でもいい。あんな目立つことをしたら、もう二度とシジッタ地区には入れないじゃないか」

「君、名は」

「俺の話をきいているのかよ」

 貴人への礼儀もかなぐり捨てて俺はやけくそで名乗った。

「セルヴィン。セルヴィン・ヤッシュ」

 ヤッシュとは、魔法界においては「素性不明」に等しい姓だ。が、そこまで悪い意味にはとられない。勤務先のグレゴリオ筆記具店の常連客たちも、

「そうか。では、セルヴィン・ヤッシュくん。この名刺を百枚用意しておいてくれたまえ」

 そう云ったきり別に態度も変えないし、ご婦人方もいつも俺に対しては笑顔を向ける。

 しかしその時、箒を操るスタニスラフ・フォン・オーラミュンデは、意外な反応をみせた。口許を引き締め、笑みを引っ込めたのだ。

 ようやく、スタニスラフが口を開いたのは、魔都中心部の水晶塔が大きく視界に迫ってくる頃だった。

「なるほど。それでこその、君のあの魔力だ」

 シジッタの悪党たちを俺が魔法で跳ね飛ばしたところを、彼は箒に乗って上空から見ていたのだ。

「セルヴィン。君はどうしてあんな処に独りでいたのだ」

 片手で俺を抱え、片手で箒を巧みに操りながら、青年魔法使いの箒は風に乗り、危なげなく空を飛んでいた。

「捜していたんです」俺は少し落ち着きを取り戻した。

「誰を」

「魔女です。生き別れの俺の母です。シジッタ地区に居るときいたのです」

「ママンが」

 魔法使いは大切なもののように唇を動かした。声音も仕草もいちいちが美しい。

「そうです。ママン、俺の母さん、母が」

 俺は無理やり口を動かした。その言葉は俺にとっては云い慣れない。幼い頃の俺はその魔女を何と呼んでいたのだろう。

「俺、棄児院きじいん育ちなんです。だから母のことをよく知らない」

 スタニスラフの箒は魔都郊外の自然公園に降り立った。傾きかけた陽ざしが銀色の野原のように湖面を耀かせている。

 乗った時のように今度も抱え降ろされては敵わない。俺は跳び下りるようにして先に箒から降りた。

「ここでいいです。ありがとうございました」

「詳しくその話をきかせてくれないか、セルヴィン」

「もう帰らなきゃ。俺」

「では、これだけを教えてくれ」

 生まれながらにして命令し慣れている貴族の若君は俺を引き止めもしないが、そのまま往かせもしなかった。

「君は誰からその話をきいたのだ」

 スタニスラフの眸は青灰色だ。湖の照り返しが外套をまとった彼の半身を神獣のように縁取っている。

「生き別れの君の母君がシジッタ地区にいると、誰からそれをきいたのだ」

 俺がそれを応えると、スタニスラフは頷いた。莫迦正直に答えることはなかったのかもしれない。でも何故かその時、俺は彼にそれを教えてしまった。彼の存在が俺を圧倒してしまっていたからだ。

「気をつけて帰りなさい」

 そう云うと、値の張りそうな箒に跨ったオーラミュンデ家の若君は軽く地を蹴るなり、白鳥のようにして夕暮れ間近の空に飛び去っていった。

 放心してそれを見送っていた俺は、ようやく我に返った。強がって「ここでいい」と云ってしまったが、ここが何処だか分からない。

 さらに愕然となった。財布がない。

 さすがはシジッタ地区なのだ。一体いつ財布を掏られたのか全く覚えていない。あちらは魔法を使うことなく、人間たちがやるような手わざで俺の衣嚢から財布を掏り盗ったに違いない。

 金を失くしたことも辛いが、財布を失ったことが俺には堪えた。あの財布は棄児院を出る際に、イスドナウ棄児院の男子寮舎監であり、棄子たちの母であるウィスタ・ラヴィニアが全員に手渡しでくれた手縫いのものなのだ。

 さいわい就労証明書は盗まれていなかった。それを公園の管理事務所に見せて乗合馬車の運賃を借りよう。

 消沈して公園の外周を歩いていると、

「セルヴィン」

 老いた声がした。沢山の箒が曳く空中馬車の窓から、老魔法使いが顔を出している。

「セルヴィン・ヤッシュではないか。どうしたのだ、こんな処で」

「コンラート卿」

 狂喜して俺は停車した馬車に駈け寄った。コンラート卿は多額の寄与をイスドナウ棄児院にしてくれるだけでなく、月に何度も顔を出し、何くれとなく棄子たちの面倒をみてくれる篤志家だ。俺が伝統あるグレゴリオ筆記具店に就職できたのもコンラート卿のお蔭が大きい。卿は折に触れて彼の大邸宅に棄子たちを招いては、紳士の礼儀作法を教えてくれた。お蔭で、おそらく俺たちはそのへんの街の子よりも行儀よく出来るし、どんな豪邸に招かれたとしても物怖じしない。もとより巷では、

「多くの棄子保護施設のうち、魔都のイスドナウ棄児院の子らは特別だ」

 そう評価されているくらいなのだ。棄子には変わりないのに格上扱いなんて莫迦ばかしいと想っていたが、世の中に出てみるとその意味を痛感することが多々あった。俺がもしシジッタ地区の中で育っていたら、コンラート卿の恩恵にも授かれず、きっとグレゴリオ筆記具店に勤めることも叶わなかっただろう。

 コンラート卿は内側から馬車の扉を開いた。

「街に帰るのなら乗っていきなさい。送ろう」

「ありがとうございます、卿」

 助かった。コンラート卿の空中馬車に乗り込んだ俺は、ぎょっとなった。向かいの座席に苦手な魔法使いがいる。ドクトル・サリエリ。イスドナウ棄児院の通いの嘱託医だ。ドクトル・サリエリは、以前いたドクトル・エッケハルルの後任として俺が十歳くらいの時にやって来た。俳優のような渋い男前だ。でもいつもむすっとしていて、子どもたちにはすこぶる受けが悪く、中でも俺はけっこうな頻度で怪我をしていたものだから、「セルヴィン、またお前か」と実に雑に扱われていたものだ。

「ドクトル・サリエリ」

 仕方なく俺が挨拶すると、ドクトル・サリエリは「ふん」と顎を反らした。

 箒の曳く空中馬車はしずしずと舞い上がり、老人を乗せている速度にふさわしくゆったりと向きを変えた。

「背がまた伸びたのではないか、セルヴィン。すっかりいい子になったな」

 くっくっとコンラート卿は肩を揺すって笑い出した。無理もない。幼児の頃、棄子の俺たちはコンラート卿の空中馬車に乗せてもらうたびに大興奮して暴れまわり跳ねまわり、果ては空の上で卿の膝に嘔吐する奴もいて、迷惑ばかりかけていた。棄児院で育った俺たちにとってコンラート卿は祖父のような方なのだ。

「半世紀前はお兄さん、数十年前はお父さん。今は棄児院に行っても誰もがコンラートおじいさんとわたしのことを呼ぶ。歳をとった」

「コンラート卿。わたしはここで」

 医療器具を納めた黒鞄を手にドクトル・サリエリが先に馬車を降りた。最後までろくに俺の方を見なかった。

 馬車の中に二人きりになると、俺はコンラート卿に訊いた。

「コンラート卿。創立記念祭にはイスドナウ棄児院に顔を出されますか」

「もちろん」コンラート卿は首肯した。

「俺、その週は仕事が立て込んでいて。行けないかもしれません」

「ああ、その時には伝えておくよ」

 慣れた様子でコンラート卿は頷いた。

「その代わり近々ウィスタ・ラヴィニアに顔を見せに行くこと。わたしの名刺は持っているね。困ったことがあればいつでも頼っておいで」

 黒蝶貝橋のたもとで俺を馬車から降ろすと、コンラート卿の空中馬車はゆっくりと過ぎていった。

 きっと財布を失くしたと打ち明ければ、卿は当座のお金を俺にくれるだろう。だからこそ、そんなことはしたくない。

 運河は青磁色に澄んで海まで続いている。俺は運河沿いの遊歩道を歩いた。黒蝶貝橋の近くには悪友レニオンの勤め先がある。

 棄子仲間のレニオンは総菜屋に勤めていて、そこの総菜はどれでも美味い。そのレニオンが、俺の姓のヤッシュについて疑問を抱いたことがある。

「ヤッシュ、バーシェス、バニラ。この三つの姓がつく子とつかない子の違いは何なんだろう」

 イスドナウ棄児院はそう大きな施設ではないが、ヤッシュの俺の他にもバーシェスとバニラがいて、この三つの姓だけは選ばれた子にしかつけられず、どうやらそれは特別な姓らしいのだ。その他の子どもたちは、五百くらいある候補の中から職員と相談の上で本人に選ばせる適当な付け方なのだから不思議といえば不思議だった。

「バニラとバーシェスは寮が別棟だから何となく違うと分かる。でもお前については分からない」

 怖いもの知らずのレニオンはドクトル・サリエリにその質問を直撃した。

「なぜ知りたいのだね」

 医療室で赤子を煮て喰っているという噂のあるドクトルはじろりと俺たちを睨みつけた。

「レニオン・ベンダラン。お前にも立派な姓が与えられているではないか。べンダランでは不満なのか」

「いえ、そういうわけでは」

 這う這うの体で俺とレニオンはドクトル・サリエリの前から逃げ出した。

 俺の仲間は口々に云った。

「きっと何かの目印だよ。未婚で生んだ子とか。貴族のご落胤とか」

「極端に健康か、極端に虚弱か。他に考えられる違いといえば、記憶の有無だな。魔法界の棄子は記憶を全て消去した上で棄てられるものなのに、お前には母親の記憶があるんだろ」

 記憶の有無。しかし俺と同時期にイスドナウ棄児院にいたバーシェスとバニラに訊いてみても、棄子になる前の記憶はまったくないという。

 貴族のご落胤。

 スタニスラフ・フォン・オーラミュンデ。

 彼こそ、最も縁のなさそうなシジッタ地区なんかで何をしていたのだろう。



》1-Ⅲ

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