青い花と眠るなら

朝吹

第一章◆下町の若君

Ⅰ 魔窟


 そんな可愛い顔をしていたら連れ去られてしまうぞ。

 箒に乗って空を飛びながら彼はそう云った。

 それに対する俺の返答はあまり感心できたものではなかっただろう。俺は涙の滲んだ眼をして力いっぱい彼に向かって吼えたのだ。

 ばかやろう。



 魔都の中でも最も治安が悪い大河沿いのシジッタ地区。俺はそこを歩いていた。

 迷って入り込んだのではない。でも実質迷っている。蜘蛛の巣のようなと比喩されるごちゃついた下街。でたらめな構造の街の上に新しい時代の街が重なって、地層のようになっている。路もひどい。外敵の侵入を防ぐ目的とやらで折れ曲がり、誰かとすれ違う時には、どちらかが壁に張り付かないと肩がぶつかる。黒光りしてすり減った石畳は上がったり下がったり、突然階段が現れたり不意に十方向に分岐したりと、数歩ごとに方角を変えて何処までも続き、歩いているとすぐに何処にいるのか分からなくなってしまう。

 さらには、晴天の昼のはずなのに薄暗い。上を見れば建て増しを重ねた違法建築が倒れ掛かるようにして空を塞ぎ、どの窓からも向かいの窓枠へと伸ばした細綱に大量の洗濯ものを干している。今もそこから垂れてきた水滴が俺の頭にぺしゃっと跳ねたところだ。日光どころか風もろくに通らないだろうに、これで乾くのだろうか。

 魔法で乾かせばいい。

 誰もがそう想うだろう。だが魔法界というのは頑迷なほどに不自由を愉しむところがあって、魔法を使えば一発で叶うことであっても、「なかなか乾かないわねえ」と嘆息するのが慣例化しているのだ。大昔にあれもこれも安易に魔法で処理していたところ、魔法使いたちの生命力がどんどん目減りしていき、生殖活動すら衰え、生きること自体を放棄した魔法使いと魔女が幽鬼のように廃墟と化した王国を彷徨うだけとなった忌々しき先例を回避するのが、こうした不便さを尊ぶ理由の一つとなっている。

 昼なお暗い湿った狭路。二十年前、このシジッタ地区は大河の氾濫により浸水被害に遭っている。石壁に今も遺っているその時の痕跡を見るに、街全体が腰のあたりまで水没したようだ。

 顔の前に垂れている濡れた洗濯物をかき分けて、俺は出来るだけ真っ直ぐ前を向き、いかにも通い慣れた風を装いながらやや速足で歩いていた。大切なことは外から来た魔法使いだとばれないようにすることだ。

「何だって。セルヴィン、お前独りでシジッタ地区に行くだって」

「絶対にやめておけ。あそこは魔窟だぞ」

 友だちの誰もが俺を引き止めた。棄児院育ちの俺たちは、十五歳で世の中に放り出されてからも実の兄弟のように仲が良い。


 何処にいても、たとえ人間界に行ったとしても。

 誰かが窮地に陥ることあらば必ず互いに力を貸す。


 あやしい闇組織の宣誓のようだが、そうじゃない。みんな棄子で親兄弟がいないのだ。同じ施設で育った俺たちは生涯、互いを気にして頼り合う。

 その連中が口を揃えて俺を止めた。

「あそこに踏み込んだら無事ではすまないぞ。シジッタ地区は黒魔術の巣窟だ」

「セルヴィンなら大丈夫じゃないか」躊躇いがちに口を挟んだ者もいたが、たちまちのうちに小突かれて後ろに消えた。

「とにかくやめておけ、セルヴィン」

 でも、行くしかないんだ。

 棄児院で育った俺は、二年前に院を出た後、魔都の筆記具店に勤めている。筆記具店といっても、富裕層相手の上等な店だ。立派な石柱のある門構え、階段を上って金の取っ手を掴み、鐘の鳴る扉を開ければ、壁一面の抽斗ひきだしが出迎える。

 遮光性の硝子瓶に詰められた量り売りのインキ。魔鳥の羽根つきペンと印璽いんじ。店内に整然と並んでいる装飾性の高い文具を初めて見た時は、美術工芸品を扱う店に来たのかと想ったほどだ。

 店に採用された理由。それは俺の容姿と佇まい。

「いらっしゃいませ子爵夫人。お荷物をお預かりいたしましょう」

 たとえば紙が欲しい時、客は束になった見本紙をめくりながら、「これを」と頼む。手袋をはめた店員はその棚の列に梯子を持っていき、紙が納められた抽斗をそっと抜き取って、底の浅い抽斗を両手で掲げて客の前に戻ってくる。

「こちらで」

「そう。二枚いただけるかしら」

「かしこまりました」

 俺は育ちこそ棄児院だが、「新しく入った彼はなかなかよい」と行儀にうるさい老紳士方からの厳しい査定にもご満足いただいているのだ。

「この店は歴史の古さと格調の高さが誇りなのだ、セルヴィン」

 創始者から数えて百何代目かの現在の店主フーゴーさんは自慢する。実際、グレゴリオ筆記具店は皇家の御用達だし、新しい筆記具店が幾ら増えても、最も格式が高く最も古いのはグレゴリオ筆記具店だと、別格扱いになっている。

 雇い主のフーゴーさんには、シジッタ地区に行くことはもちろん云えない。休暇の今日、緊張感をもって俺は明け方に眼を覚ました。



 もう随分と長いあいだ、俺は暗く細い路地を彷徨っている。やっぱり無謀だったかもしれない。古地図を頼りに暗記してきた目的地もこんな超過密状態の違法建築の森の中ではまるで役に立たないし、おそらくまだ外郭すら抜け出ていない。

 シジッタ地区にはもともと地図らしいものはない。たとえ作図したとしても、街全体を覆う魔術の力によって、明日の朝にはまた新しい蜘蛛の巣が出来上がっているからだ。

「セルヴィン、それは無茶だ。シジッタ地区に詳しい案内人を見つける方が先だ」

 悪友レニオンの云ったとおりだった。きっとそういう生業なりわいの者もいるはずだったのだ。ここは司法の介入すら拒む無法地帯。

 悪の根城となっているこんな貧民窟をなぜ歴代の帝国皇帝が燃やして一掃しないのかというと、掃き溜めの悪所は眼下の一ヶ所にある方が監視がしやすいからということらしい。もちろんそれだけではない。

 シジッタ地区の歴史は古い。古名はシジタルフィア。この魔都がまだ原野に過ぎなかった頃から原生林の中で集落を形成し、時の流れの中で幾つもの魔法使いの小部族が併合されて淘汰されていく中でも生き残り、皇帝が統治する帝国となった後も、何千年とほぼ同じ座標でその特異な歴史を刻んでいる。

 大河の向こうのシジッタ地区を遠望して、魔法使いたちは軽蔑と畏怖をこめてこう囁く。

「強大な力を持つ本物の魔法使いはあそこにこそいる」

 その他この街の中には、皇帝の隠密となって働いている組織もあるという。しかし皇帝の懐刀といっては云いすぎになるだろう。せいぜいが使い勝手のある必要悪だ。まともな魔法使いは決して寄り付かない、有象無象が集まった暗い街なのだ。

 そして俺は今、そのシジッタリアンたちに囲まれていた。

「おい、そこの」

 迷路をうろつくこと数時間。階段を降りて裏手に入ったあたりで前方に男たちが立ち塞がった。後ろもだ。

「よそ者だろ。何の用だ」

 俺は魔法杖を取り出した。この場合、躊躇する方が結果はきっと悪いのだ。先頭にいる男が仲間の魔法使いに合図した。

「魔薬を煮るばばあが最近、活きがいい若造のきもを欲しがっててよ。こいつなら丁度いい」

 俺は片脚を大きく引いて頭を低くした。

「謝ったって遅いぜ」

 男は最後まで云えなかった。俺の魔法杖から飛び出した光の半円は大鎌のように前方の男たちをなぎ倒し、弧を描いて戻ると姿勢を下げた俺の頭上を越えて背後にいる魔法使いたちも殴りつけていたのだ。

 俺だって勝算がまるでないのに独りでシジッタの迷路に入ってきやしない。一つだけ残念なのは移動手段の箒を持ち込めなかったことだ。

「箒は持って行くなよ、セルヴィン」

 棄子仲間の悪友レニオンは念を押した。

「あそこの住人は外敵を防ぐためにも、わざと建物を密集させて空を閉ざしている。それでなくとも折れ曲がったあの狭い路で箒を使うのは無理だからな」

 先頭の集団はそれで倒れたが、男たちはまだぎっしりと前後を固めていた。不意打ちを喰らった連中が血相を変えて一斉に魔法杖を取り出す。やっぱり今ので逃げ出してくれるというわけにはいかないようだ。

「このガキ、生きて帰れるとおもうな」

「見逃してやる。去るがいい」

 石畳に目線を落としていた俺はしばし固まった。今のは俺の声じゃない。

「お前たちに勝ち目はない」

 誰かが俺の代弁をしている。暗い路地は不気味に静まり返った。一帯に漂う怪しげな薬臭さを一掃する張りのある美声だ。俺は顔を上げた。

 白金の髪を後ろで一つに束ねた青年魔法使いが俺の前に立っていた。俺は愕いた。いつ現れたのだろう。俺の魔法が風を切り裂いて走っている最中の一瞬を捉えて割り込んできたとしか想えない。

 何処から。

 俺は、漆喰の剥げた両脇の建物や石畳に視線を走らせた。一日中陽の差さない裏道には洗濯物は干されておらず、窓の数も少ないが、それでも上階の幾つかの窓は通気の為にか開けてある。あそこから。それとも。

「君。立ちなさい」

 すらりとした後ろ姿の若い魔法使いは振り返りもせずに俺を呼んだ。

「……はい」

 呆けたまま俺は姿勢を立てた。

「ガキは捌いて魔薬の材料としてばばあに売る。そして、こっちのお貴族さまは身代金が取れそうだ。捕まえろ」

 悪党がじりっと詰めてくる。魔法使いは両手を下げたままだった。魔法杖すら持っていない。だんだん俺は心配になってきた。上流階級相手の筆記具店に勤めている俺だ。すぐにこの魔法使いの身なりがひじょうに良く、立ち姿も声音も生まれながらの貴族のそれだと見抜いていたが、この場においては身分の高さなど何の役にも立たない。

 俺の不安も知らぬげに、外套を羽織った若い魔法使いは吹き抜ける風に髪をなびかせている。

「分かった。こちらが去ろう」

「今更なに云ってんだこの野郎」

 シジッタリアンたちは嘲り笑った。毒蜘蛛のように男たちはじりじりと近寄ってくる。

「身代金はどちらにご請求すればよろしいですか、若旦那さま」

「そちらはご従者でしょうか。お上品なそのお顔に傷をつけてしまうと、さぞかしご婦人方がお嘆きになるでしょうね」

「わたしはそれでも一向に構わないが」

「本当になに云ってんだお前。何者だ」

 悪党に同意だ。俺も知りたい。

「君」

 そこで初めて青年は俺を振り返った。男でも見惚れるような顔だった。汚濁の中に氷の華が咲いたようだ。

「あなたは」

「スタニスラフ・フォン・オーラミュンデ」

 オーラミュンデ家の若君は俺に向かってそう云うと、いきなり俺を抱え上げ、悪党どもの攻撃魔法を避けて壁を蹴るなり、そこに鳥の如く滑り込んできた彼の箒を掴まえて俺ごと空に舞い上がった。



》1-Ⅱ

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