20. 人生よ、喜劇であれ


 

 

 朝。夜と昼の狭間ハザマ。モーニング。グッドモーニング。朝にグッドもクソもないわ。普通に眠いので全部バッドだろって話。

 昨晩、セシルさんと話した影響でシェイクスピアの詩集を読んでいたら、お風呂に入り忘れたまま寝落ちしてしまった。そういうわけで朝風呂へゴー。



 眠い目を擦りながらお風呂場へとやってきた僕の目に飛び込んできたのは、バスタオルで身体を拭いている最中の妹、鳳澪おおとりみおの全裸姿だった。

 青みがかったツヤを放つ黒い髪。粉雪を纏ったかのような淡く白い肌。その上を、弾かれた水滴が起伏の激しい肢体をそって玉のように流れている。


 迂闊だった。

 妹とは言っても年頃の女の子。故に反応に困ってしまう。

 とりあえずセソストリスみたいな虚無顔を貼り付けていると、僕の侵入に気付いた澪がこちらを振り向いた。幼さの残る端正な顔立ちは、生前の母さんによく似ている。

 怪しく光る琥珀色の瞳が僕を捉えた瞬間、僅かに見開かれる。変わらず僕はセソストリス。

 

「キャーーーーーー(棒)」


 澪は全くというほど抑揚のない悲鳴をあげると、口元に三日月を描いた。母親譲りのジト目と相まって非常に蠱惑的である。


「ごめん、風呂入ろうと思って。昨日入り忘れちゃったからさ」


 そう言うと、今度はムスッとした表情を浮かべる澪。


「女の子の裸を見といてその反応は何?もう少し喜んだらどうなの?」

「いや妹の裸見て喜んだら兄として終わりだよ。澪こそもう少しは恥じらい持ちなよ」

「兄さんのバカっ! えっちっ! 変態っ!」

「今更おそいよ」


 両腕で胸を隠しながらうずくまる澪だったが、すぐにまた立ち上がった。

 すっぽんぽんであるにも関わらず恬として恥いることのない堂々たる振る舞いに、僕は呆れてため息をつく。


「どうだった? 萌えた?」

「別にどうともないよ! はやく身体拭いて服きて服っ」

「もう、分かったわよ。だからそんな怒らないでちょうだ……ん?」


 澪は言葉を途切ると、疑るような視線で僕の顔を覗き込んできた。


「(ジーーーー)」

「なんだよ?」

「兄さん、なんでそんなセソストリスの彫刻みたいな目をしているの?」

「な、なんのこと?」


 僕は内心焦り散らかしながらも平静を装う。

 しかし、妹の目は誤魔化せなかった。

 

「もしかして兄さん……私の裸を直視できないの? ふふっ。なぁんだそういうことか〜。安心しました!」

「なにがだよ!」

「いやだって、ぜんぜん興味ないみたいだったから。ちゃんと意識してくれてたのね」


 澪が嬉しそうに笑う。

 少しだけ可愛いと思ってしまった。いや、容姿はだいぶ可愛いんだけど。よこしまな感情が芽生えぬよう、必死に心を無にする。


「いいから服きて服っ。つかでてけ!」


 澪の言う通り、僕は目のやり場に困っていた。極力裸を見ないようにしながら、自分の服を脱ぎ始める。


「僕もシャワー浴びるから」

「そう」


 ………………。 


「いや、出ていって欲しいって意味なんだけど」


 澪は全裸のままその場を動かず、僕が服を脱いでいくのをただ眺めていた。

 

「私のことは気にしないでちょうだい。裸をみられた分、兄さんの裸も見ておこうと思っただけだから」

「気にするって! 僕は澪と違って恥じらいがあるんだから。シャイガイなんだよ。はよ出てけ」

「そんな! 私だけ見られ損じゃないっ!」


 現在進行形でな。って腕広げるなっ、隠せ隠せっ。澪はぐぬぬと顔をしかめると、フェアじゃないわ……と不満そうに呟いた。

 ところが何か閃いたように手を叩くと、余裕そうに微笑んだ。


「兄さん、一つ質問があるのだけど、いいかしら?」

「……どうぞ」

「どうして片目は隻眼、片腕は隻腕と呼ぶのに、片玉は隻玉って呼ばないのかしら?」


 いきなりなんの話!?

 よく分からんが、とりあえずテキトーに答えておく。


「知らないよ……カッコつける必要がないからじゃないの?」

「あら、片玉の人にカッコつけはいないとでも? 偏見ね。それは片玉族には格好をつける資格すらないと主張しているも同然の発言よ。非常に差別的で危険な思想だわ」


 片玉族ってなんだよ。はじめて聞いたぞ。


「いや、睾丸ってのは普段見えない部位だから、そもそもかっこつける必要がないんだよ。あとはシンプルにカッコ悪い。ダサいんだ。片玉は。残念なことに」

「兄さんはいま、世界中の隻玉達を敵に回したわ」

「いいよ別に。てかなんの話だよ。早くシャワー浴びたいんだけど」

「つまり、妹には兄が隻玉かどうか確かめる権利があるってことよ」

「なにがどうしてそうなんだよ! 意味わかんないよ! あとちゃんと二つあるわ!」

「あいにく、私はこの目で見たことしか信じないようにしているの。さぁ、脱ぎなさい」

「勘弁してくれ」

「そう。なら私が脱がしてあげるわ」


 澪は前傾姿勢で腰を落とした。タックルの構え。ジリジリと後退り、廊下へ。

 胸部で揺らめく二つの果実に目を奪われた瞬間、僕の腰目掛けて突っ込んでくる。くっ、油断した! なにあれ催眠術? ずるくね?

 だが、小柄な女の子のタックルで崩れるほど、僕の体幹はやわじゃない。そのまま押し合いへし合いしていると、家のインターホンが鳴った。

 こんな朝っぱらに誰だ? まさかセシルさん?


「智くーん。可愛い幼馴染が迎えに来たぞー。はやくでろー」

「彩奈!?」


 なんでアイツが……いや、そういえば彩奈も僕のこと好きなんだった……まずい……こんなとこ見られたら絶対面倒なことになる……。

 申し訳ないが、ここは嘘でもやり過ごすしかない。


「やっ……っ、兄さんっ……そこっ、だめっ……!」


 澪が変な声を出した。

 

「おい、なんかいやらしい声したぞ。なにしてんの?」


 ガタガタガタガタガタガガタガタッ。

 ドアノブが更に激しく上下しはじめる。怖ぇーよ! 


「あれ、鍵開いてんじゃん。不用心なやつめ」


 しまった! 昨日セシルさんが帰った後戸締りするの忘れてた! くそ! 万事急ス!

 俺は無理やり澪を引きはがそうとしたが、足がもつれて玄関の前に倒れこんでしまった。


「いってててて」


 目を開けると、僕は澪に覆いかぶさるように倒れていた。澪が瞳をうるませながら言った。


「ん……きて♡」

「いかないよ!」

 

 冷静にツッコんでいる場合ではない。

 状況悪化! 状況悪化! メーデー! 至急応援求ム! 

 神様に心の中で助けを乞うが、実らず。

 無情にもドアが開いていくの向こうに、彩奈の姿が現れる。キューティクル豊かなブラウンの髪が朝日を照らしながらふわりと揺れる。ぱっちりとした目元は前髪に陰り、床に横たわる全裸の澪と、そこにまたがる僕を見下ろしていた。


「や、やぁ! 今日もいい天気だね。学校サボってピクニックでも行こうかな、なんて……はは」

「…………」


 ぼとっ。


 彩奈は張り付けたような笑顔のまま、持っていたカバンを地面に落とし、時が止まったかのように呆然と立ち尽くした。その瞳からは光が消え失せていた。朝日と生足はこんなにも眩しいのに。目薬と間違えて泥水さしちゃったのかな?

 濁り切った瞳をした彩奈が放った言葉は、「へ、変態!」とか「最低! 信じらんない!」みたいな可愛い代物では無かった。


「殺す」


 やべー、めっちゃキレてらっしゃるー。


「おっ、おちつけ彩奈! これには訳がっ……!」


「あら、彩奈さん。なにしに来たのかしら? 今いい所だから邪魔しないでもらえるかしら?」


 その瞬間、彩奈の体がピキって音とともにピクっと震えた。


「澪ちゃんこそ実の兄相手に何をしているの? 実の兄相手に」

「見ての通り、愛の営みよ」

「違うよっ!?」


 それはもう全力で否定する僕。


「しね」


 しかし彩奈はヤケクソになったのか僕のことをボコスカと殴りはじめた。痛っ、痛って! フェイント入れてくるのやめて! 縦拳でガードすり抜けてこないで! 暴力系ヒロインは人気出ないのを知らないのか! いってぇ!

 僕はなんとか立ち上がり、その場を脱出。階段を駆け上がり自室へと避難する。


「はぁ。散々な目にあった……」


 部屋の扉を閉め、背中を預ける。一息ついたその時、窓の方から声がした。


「なるほど、これがいわゆるドタバタラブコメってやつかのぉ。愉快なものじゃな」


 そこにいたのは陽光を背に浴びながら笑う着物の少女。神様だった。

 

「もう、他人事なんだから……大変なんだからね?」


 ラブコメ主人公達の苦労を実感する。

 悲劇と喜劇。主観と客観。

 この世界が神様の観る演劇であったとして、みながそれぞれ自分の役を演じているのだとして、果たして僕はどんな役を担っているのだろうか。神様にとってこの世界は、どんな風に見えているのだろうか。それを知るすべは、きっと人間ぼくらにはないのだろう。


「よいではないか。これもおぬしが求めていた世界であろうに」

「それはそうだけどさ」


 ドアの外から、澪と彩奈の声が聞こえてくる。


「ほれ、ヒロインたちがお呼びじゃぞ? せいぜい楽しむんじゃな」

「神様はさ、どこまで知っているの?」

「どこまでというと?」

「いや、この先僕がたどる未来が見えてるのかなって」

「その質問には答えられんな。ただ一つ言えるのは、結末が分かっている物語など、面白くないということじゃ」


 心がある以上、神様にも好奇心はある。

 仮によくイメージされるような全知全能の神がいたとして、そんな存在に楽しみなどあるのだろうか。心を満たすものは未知によってのみ生み出される。だからこそ、神様は僕とをしたのではないだろうか。

 なるほど。ならば見せてあげようじゃないか。鑑賞に値する物語ってやつを。これは、神様キミに捧ぐラブコメディでもあるのだから。


「じゃあの~」

「うん、ばいばい」


 そうして神様は、空気に溶けるようにして消えていった。


「とはいってもねぇ……」


 ドアの向こうから聞こえてくる騒がしい二人の声。

 朝っぱらから繰り広げられた凄絶せいぜつな一幕に、先が思いやられずにはいられない。

 僕はため息をつきながら祈るのだった。


 人生よ、喜劇であれ――と。






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