19. 心と言葉

「おお! 思ったよりいっぱいあるね」


 部屋に入るなり、セシルさんは壁際の本棚を眺めた。まるで水族館で珍しい海洋生物を見つけた時のように張り付いている。瞼は見開かれ、瞳が好奇心に光り輝き、指先が背表紙を巡って宙を泳ぐ。

 僕は椅子に座りながら言った。

 

「まぁね。セシルさんは普段どんな本読むの?」

「色々かな。一番好きなのはホームズだけれども」

「はは、そうだと思ったよ。あ、ベッド座っていいからね」

「では遠慮なく」


 セシルさんは躊躇なく僕のベッドにダイブした。絶対最初からやる気だったろ。

 

「スゥゥゥウウウウウッハアアァァァァ、あー智くんの匂い……これはいかん。なんかこう、あれ、あれだ、むらむらしてくる……」


 枕に顔をうずめて悶えるセシルさん。何このエロい生き物……明らかに誘ってるよね? 誘ってないわけないよね? 

 ベッドに横たわったまま、セシルさんが僕に向かって両手を広げ、言った。


「智くん……きて」

「いきます(即答)」


 きての"き"の時点で僕は既に腰を上げていた。こういう時だけ反射神経が陸上選手のクラウチングスタート並に早くなるのは何故なのか。まぁ今のはフライング気味だったけど。

 

 待ち受けるワガママボディに近づくと絡めとられるようにしてベッドに引き込まれた。そしてあっと言う間にマウントポジションを取られ、僕は腰に跨るセシルさんのニヤケ顔を下乳越しに見上げる。


「セシルさん?」


 僕は「え?どうしたの?」みたいなニュアンスを秘めた白々しくも何も期待してなかったやつみたいなキョトン顔を作りあげて言った。

 するとセシルさんは体を倒し耳元で囁いた。


「吸ってもいい?」


 知ってた。もう慣れましたこのパターン。

 僕はため息をついて頷く。するとセシルさんはすぐに首元に噛みついた。いてっ。

 いいのです。別にいいのです。むしろそうあるべきなのです。こういうのはお互いの愛を確かめ合ってからじゃないとね。そのために恋人になったのだから。ああ、流されたい気持ちと流されてはいけない気持ちがせめぎ合う。いや血吸われてるだけなんだけどさ。でもこのムチムチの肉感を味わえるだけでも役得だよね。勝ち組。間違いなく僕は勝ち組なのだ。それにいつか僕だって吸ってやるからな! 何をとは言わんけど!


「ごちそうさま」


 唇の端をペロリと舐めて満足したような様子のセシルさん。そして思い出したかのように僕から降りると、再び本棚を見渡した。


「本来の目的を忘れてはいけないよ。君のおすすめを聞きに来たんだ」

「あはは、そうだったね」


 忘れてたのキミじゃね? と言いたい気持ちをぐっと堪える。マイペースな彼女に振り回されるのも男の喜びってね!(※諸説あり)


 その後は、僕のラブコメ語りとともにセシルさんにおすすめしたい作品をピックアップ。その中でセシルさんが気になった作品の一巻を纏めて貸すことにした。ラブコメ以外の作品も含まれているが問題ない。だいたいのラノベにはラブコメ要素は含まれているのだから(※諸説あり)


「ほう、智くんは詩も読むのかい?」


 一通り貸し出すラノベを決め終わったところで、セシルさんが本棚の一角を見つめながら言った。そして一冊の本を手に取った。


「あんまりかな。それは前に澪から借りたやつ。あいつ演劇部だから」


 セシルさんが手にしているのは、劇作家ウィリアム・シェイクスピアの詩集だった。読みかけで放置したままなうえ、あまり内容も覚えていない。


「もったいないな。詩はいいものだよ」

「すきなの?」

「まぁね。詩は色々なことを教えてくれる」


 詩集を開き、目を落とす。憂いを浴びるように伏せられた睫毛が真紅の瞳を煙らせた。


「詩はね、過去から未来へのメッセージなんだよ。迷っている人を導き、悔やんでいる人を励まし、孤独な人に寄り添い、怯えている人に勇気をくれる。ひとりじゃないよ、がんばって、希望はあるから、大丈夫だよって、支えてくれる。そうして思い出させてくれんるだ。人々が忘れがちな、世界の美しさをね」

「セシルさんに出会えた時点で僕にとって世界は美しいよ」


 僕は軽口混じりに言った。


「ありがとう智くん。愛してるよ」

「そんな言い方されたら照れるじゃないか!」

「心は言葉でできている。これまでに見聞きした言葉がその人の心を形作っているのだ。だから智くんの心に、私の愛を刻んでおこうと思ってね」


 顔が熱くなった。よくもまぁこんなにも歯の浮くようなセリフをつらつらと吐けるものだ。これがイギリスのノリか。僕も甘い言葉の一つでも吐いてみようかなって気分になってきた。恥ずかしがる必要はない。時代はグローバルなのだ! とうとう僕のロマン派ダンディな一面を解放する時がきた! 


「僕だって君しかいないと思っているよ。運命の人。心から君を愛せるその時まで、どうかその愛の蔦で僕の心臓を包んでおくれ」

「急wにwどwうwしwた?w」


 ますます顔が赤くなった。

 攻めすぎたか……死にたい。やはりジャパニーズにはハードルが高すぎたんだ。グローバルなんてクソくらえだ! ふぁっきゅー!

 

「智くんは智くんの言葉で語ればいいのだよ。背伸びする必要はない。不思議なことに、私には君の口から出る一言一言が宝石のように光り輝いて見えるのだから。これが恋ってやつなのだろうね」

「フォローありがとう! 沁みるよ!」

「とにかく、豊かな言葉は豊かな心を、優しい言葉は優しい心を、美しい言葉は美しい心をはぐくむということさ」


 言葉で世界ができているなら、人の心もまた、今日までに投げかけられた全ての言葉でできている。しかしこの世の中は誰にでも優しいわけじゃない。愛の無い叱咤、心無い批判、辛辣な罵声に取り囲まれている人達も大勢いる。けれど、そんな孤独に凍えて生きていく人にも寄り添ってくれる言葉がある――文学だ。

 詩や物語には、人の心を救う力がある。

 きっとセシルさんはそういうことを言いたいのだろう。それはきっと彼女自信が救われた経験があるからこそ持てる感性のはずだ。


 創作物に於いて、同一の作品を他者と共有することは本質的には不可能である。と僕は思う。小説を読んで得られる感動には読み手の感性ごとに差異があり、程度や性質までは一致しない。みなが同じように"良い"と感じたとしても、言語化できるところまでしかその"良い"を共有する事はできないからだ。それ以上は感覚Yの領域だ。

 そのことが、今は少し寂しく感じる。

 もし感覚Yを共有できたならどれほど幸せか。

 どうすればもっと彼女の世界に近づけるだろう。

 もっとセシルさんのことが知りたい。知れば知るほど、きっと僕はキミを……。


「セシルさんって――」

「む、もうこんな時間か。そろそろお暇させてもらうよ」

「えーーーー」

「そう残念がるな。またくるよ。私は君の彼女だからねっ」


 そう言って、セシルさんは僕の頬に口付けをした。




 二人で階段を降りたところで、玄関のドアが開いた。「ただいまー」という声とともに澪が入ってくる。僕たちは三人揃って「あ」と漏らした。


「おお澪くん。お邪魔しているよ。もう帰るところだがね」


 澪は唇を戦慄かせながらセシルさんを指差す。


「なんでうちにいるんですか!」

「彼女が彼氏の家にくるぐらい普通だろう?」

「ま、まままさかっ……えっちなことしてたんじゃ……っ! 兄さんっ!!!!」

「してるわけないだろ!」

「じゃあ何してたの!」

「指スマ!」

「小学生か! って誤魔化さないで!!」

「仲良いね君たち」


 セシルさんが微笑ましそうに笑う。

 そのまま靴を履いて澪の横を通り過ぎた。


「それじゃ、お邪魔しました」

「送っていくよ」

「いらないよ。それより澪くんの相手をしてあげた方がいいんじゃないかな?」


 確かに、このまま放っておいたら後が怖そうだ。

 

「そうやって余裕ぶってられるのも今のうちですからね! このニンフォマニアが! シャー!」

「あはは、ごめんねセシルさん、また明日ね!」


 猫のように威嚇する澪を抑えながら、セシルさんに別れの挨拶をする。


「ああ、また明日。次はもっとすごいことしようね♡」


 バタン。

 

 玄関の扉がしまった。固まる澪。固まる僕。静寂。


 セシルさんめ! 火に油注いでいきやがった!


 澪がロボットみないな挙動でこちらを向く。その瞳に光はない。これ知ってる! ヤンデレのやつだ! そっか〜僕の妹はヤンデレ属性だったんだ〜……ってなるかい! リアルヤンデレは普通に危険なのだ! 僕は恐ろしくなって逃げるように目を逸らした。

 

「詳しく聞かせてもらえる? 兄さん♪」



 このあと、めちゃくちゃ言い訳した。




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