子爵とその妻

水野文華

第1話

「ちょっと領地に戻って羽を伸ばしてこい」


 主人である王太子クラウスの一言に、ヨハン・アーレンスマイアーは凍り付いた。子爵家を継ぎ、クラウスに仕え始めた時から5年、実績が認められ、今では右腕と呼ばれるに足る存在であるという自負がある。それだけに、衝撃は大きい。


「……何か、失敗を致しましたか」


 青ざめるヨハンに、クラウスは片手を振って否定した。


「お前の考えているようなことじゃない。私は、お前に心から感謝しているよ。ただ、私たちがやってきたことがうまくいったか、様子を見たくてな」


 この5年、クラウスとその執務官であるヨハン達は、宮廷の制度改革に奔走してきた。そのなかでももっとも重要な任務は、統率者が無能でも、国が存続できるような制度を作る事だ。百年、二百年先の国の存続を考えた、大事業である。


「お前は優秀だが、上の者が優秀なままではいざという時にこの制度が働くかわからん。それで、ひとまずお前に休みをとらすことにした。まあ、ちょっとした予行演習だよ。」


――だから、ゆっくり休め。奥方との5年越しの新婚旅行ハネムーンのつもりでな。



 邸宅へと向かう馬車の中、ヨハンはクラウスの最後の一言を思い出して、ふっとため息を吐いた。妻のミリアムと結婚したのは5年前。いわゆる政略結婚だ。そのときクラウスは23歳、彼女は18歳だった。ちょうど任官したばかりで、それからずっと仕事が忙しく、新婚当初からまったく仲は深まっていない。家にもいないのに夫面をするのは如何なものかと思うと余計に関わるのをためらうという悪循環で、触れ合ったのは結婚式の口づけが最後という有様である。


――離婚しよう。


 クラウスはあんなことを言っていたが、こんなにふがいない夫だというのに無理やり領地に妻を連れて行っては身勝手の極みというものだろう。


 ずっと、妻には申し訳なく思っていた。彼女を解放してやれる、ちょうどよい機会だった。



「お帰りなさいませ」


 馬車から降りたヨハンを、妻が淑やかに出迎えてくれた。背中に流した柔らかそうな栗色の髪と身にまとった赤いドレスが、その白い肌と降り積もった雪によく映えている。吐く息が白くなるほど寒い中、ろくろく家に帰ってこない夫を笑顔で出迎えてくれる。優しい妻だと思う。けれど、こんな自分にはもったいないと思うことも、彼女に触れるのをためらわせた原因の一つだった。


「出迎えありがとう。……中に入ろう」


妻を伴って邸宅の自室に行き、小さな音を立てて燃える暖炉の側の柔らかなソファに、向かい合って座った。


「あなたは、今日も寒いのに迎えてくれて......本当に、私には過ぎた存在だと思った」

「まあ、そんな」


 妻が柔らかくはにかむ。その表情を、これから自分は見れないのだと思うと、なぜか胸が痛んだ。けれど、それを無視して言葉を続ける。


「だから、もう夫婦でいることをやめないか」

「……え?」


 妻は、信じられないというような顔で、ヨハンのことを凝視した。クラウスに領地に戻るよう言われた時の自分もこんな顔をしていたのだろうか、とヨハンは思った。


「誤解しないでほしい。あなたは少しも悪くない。全部、私の問題だ」

「想う人でもできたのですか」


 固まった表情で妻は言う。


「それこそ誤解だ! ……実は今日、王太子殿下から領地に戻るように言われた。ずっと、あなたを縛り付けてしまっていたが……やっと解放できる時が来たんだ。今まで、本当にすまなかった。あなたに悪いうわさが立たないよう手を尽くすから安心してほしい。添いたい相手がいれば、なるべくあなたの希望通りになるよう努力しよう。もし他にしてほしいことがあれば、できるかぎり何でもしよう。これで、少しでもあなたの償いになると良いのだが。」


 それは、ヨハンにできる精一杯だった。けれど、その時妻の顔に浮かんだのは、深い怒りと悲しみ。予想だにせぬその表情に、思わずヨハンは固まった。


「どうして、そんなことを仰るのですか」


 抑えた声で、泣きそうな顔で、妻は言った。妻がどうしてそんなことを言うのか、そんな顔をするのか、わからない。


「言ったとおりだ。あなたをいつまでも縛り付けておくわけにはいかない」


 言い終わった途端、妻の表情が一転して、怒り一色で染め上げられた。そのまま静かに立ち上がり、ヨハンの目の前まで来た妻は、聞いたことのない声と口調で言った。


「その態度、腹が立ちます」


「……失礼。今、何と?」


 聞き間違いだと思った。上品な妻が言うとは思えない台詞だったから。


「その態度が苛々するって言ってるんです! 何なんですか、5年間も放っておいて、突然はい離婚です、って。勝手が過ぎるってもんでしょう」

「す、すまない」


 妻が唐突に見せた新たな一面に対する混乱で、とっさに謝る事しかできない。


「謝罪するくらいなら最初から言わなければ良いでしょう。……私達、お互いのことをよく知らないまま結婚しましたよね。私は、どうせ結婚相手は変えられないのだから、少しでも仲良くなろうと思ったんです。あなたに、歩み寄ろうとした。けれど、ずっと気づかれなくて、振り向いてくれなくて、仕事ばかりして。挙句の果てに、突然もう要らない、なんて」


 やってられません、と妻は、本当に悲しそうに、自嘲するようにつぶやいた。


 ヨハンは、そんなことつゆほども気づいていなかった。ただ、いつも淑やかで優しいひとだなどと呑気に思っていただけだった。


 けれど、妻がいつもしとやかに笑っていたのは、彼女が自分との中を少しでも深めようと思ってくれていたからだったのだろう。鈍感なヨハンにいつも優しくあったが、きっと我慢を重ねていたのだろう。ヨハンは無意識に、妻の健気な努力を足蹴にしてしまっていたのだ、ずっと。


とんでもなく失礼で、申し訳ないことをしてしまった、と、悔恨の念が胸に苦く広がった。


「すまなかった。愚かで、失礼で……本当に、すまなかった。……あと、要らないとは言っていない」


 最後の台詞は、やや尻すぼみになった。けれど、離婚しようと思ったのは、自分が見当違いの大馬鹿者だったから、ただそれだけである。


 すると、妻は目をかっと見開いて、ヨハンの両肩を掴んだ。その茶色の瞳が、ヨハンをまっすぐに射抜く。その髪の甘い香りが鼻腔をくすぐった。


「言いましたね!? じゃあ、離婚の話はナシです! 私も領地に一緒に行きます。そこで、もう一度やり直すんです! 償いがしたいって仰るなら、仕事ばかりじゃなくて私のこともみてください。あなたからも、歩み寄ってください。私達、夫婦なんですから! 」


 まくしたてる妻に、ヨハンは答えることができなかった。妻への申し訳なさと領地に来てくれることへの思いがけない嬉しさもその原因ではあったが、一番の理由

は。


――妻がとても美しいひとだということに、初めて気づいたからだった。






 さてそのころ、王太子クラウスの執務室では。


「どうなっているかな」

「真面目で堅物のヨハン様ですからねえ。とんもなくこじれているやも」


 クラウスと、ヨハンの同僚の執務官の二人が、ヨハン達について話していた。


「ははは、本当にそうなっていそうで怖い」


 微妙に引きつった顔で、クラウスが笑った。


「上手く行くと良いな。あいつがいつまでも奥方を放っておいてしまったのは、私のせいでもあるし」


 クラウスとて、ヨハンに妻と向き合う時間を取らせるべきだとわかってはいた。ヨハンの優秀さ、熱心さに甘えてしまったところは否めない。5年たってようやく部下にまとまった休暇を与えるというのはというのは、いくらなんでも遅すぎる。


「仕事人間なのは本人の性質上の問題だと思いますけどね」

「まあ、それもあるがな。……さて、ここからが問題だ。私たちはあいつ無しで何年持つと思う?」


 クラウスは、神妙な顔になって尋ねた。


「二年……持てばいいですけど」

「そうなるよなあ」


 宮廷制度は未だ改革の途上にある。ヨハンは尋常ならざる優秀な人間である。休憩もとらずに働き続け、他者の倍以上の仕事をこなし、見事な政策を思いつく、そんな男である。そのおかげもあって多少性急な改革も推し進めてきたが、彼抜きでは綻びもでてくるだろう。


「とにかく、頑張ろう。二人の結婚生活のためにも」

「そうですね。とりあえず、お二人の仲が深まるに足るくらいは持ちこたえましょう」


 遠い目をしながらも、二人は努力を心に誓ったのだった。



 二年後、仲が深まるどころか、ヨハンがとんでもない愛妻家になって帰ってくることを、まだ誰も知らない。

 










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