11

「健一君!」

 閏井が血を吐いて倒れた宇留井のもとに駆け寄ろうとすると、その後ろに立っていたと目が合った。

 それは血まみれの右手を突き出したままの麻利だった。

 閏井の前ではいつも無表情であった麻利だが、今の麻利は口を三日月のような形に開けて不気味に笑っていた。切れ長の細い目もつり上がり、漆黒の長い髪は電気を帯びて左右に浮き上がっていた。

 その麻利が言った。

「これで供物が二つ」

 その途端に、その顔が変わった。

 髪が黒から金色に変わり、さらに赤茶色になった瞬間、目鼻がとろとろっと溶けて流れ落ち、その下から欧米人のようにくっきりした顔立ちが現われた。「叡理だ」と閏井は思った。

「はじめまして」と叡理の顔をしたは言った。「会うのは初めてよね。健一さんとそっくりなので、私の方は初めてという気がしないけど。――でも、この顔なら、覚えがあるでしょう?」

 叡理の顔は霧がかかったのようにぼやけ、曖昧模糊とした中でもぞもぞと形を変えた。そして。やはり美人だが叡理のような上品さはなく、西洋人形めいた色白の彫りの深い顔立ちの下に生々しい欲情を感じさせる顔となった。

 閏井は思わず「ああ」と声を漏らした。

 そうだ、確かには覚えている。学校からの帰り道で、美少年だった頃の僕と健一君に「あなたたち、本当に綺麗な子どもねえ」と言った〝おばさん〟だ。

 そう思って閏井は苦笑した。今にして思えば、彼女はおばさん扱いするには若すぎる。三十前だろうか。今の彼からすれば、〝若い女性〟の部類だ。だが、当時の閏井たちには母親と同世代、つまり〝老いの始まり〟にいる年齢に見えた。

「それで、挑発をしたのね?」

 閏井の心を読んだらしいが言った。閏井は彼女を見返してうなずいた。

「おばさんたちはみんな、僕らを『かわいい、かわいい』と言ってお人形扱いしたんだ。それでからかってやることにしたんだよ」

「からかう?」――悪魔――はせせら笑うように言った。「本当にそれだけ?」

 閏井はぎくりとして目をそらした。

「ああ、そうだよ」

 叡理の顔をした悪魔は「ふふん」と鼻を鳴らして笑った。

「まあ、いいだろう。どうせ、思い出すことになるのだから。君――いや、君らはもうすぐ、あの場面をもう一度演じることになるのだからね」

「なんだって? どういうことだ?」

 閏井が問い返すと、悪魔はげらげら笑った。

「美少年に戻れるからって、そんなにはしゃがないでほしいな。――君らは、私が悪魔だと気づかずに挑発し、罠にかけようとした。そして、永遠の呪いを受けることになったのだよ」

「永遠の呪い?」

「そう」悪魔はにやにやして言った。その顔は叡理のものとなったり、〝おばさん〟のものとなったり、麻利のものとなったりした。「われわれとの出会いの場面から、私が復活して再会するまでの生涯を、終わることなく何度も何度も繰り返すという呪いさ」

「そんな馬鹿な」

 閏井は後ずさりしながら言った。

「馬鹿じゃないさ」悪魔は、閏井が下がれば下がるほど近づきながら言った。「天上にいるあの親爺ほどじゃないが、われわれもそれなりに全知全能で、時間の始まりから終わりに至るまで遍在しているんだぜ。人の一生を永遠の中に押し込めることなんか、朝飯前さ。実際、われわれ――君たちと私のことだよ――は、もう三百二十六回、この場面を演じているんだ。つまり、私は君の『そんな馬鹿な』を三百二十六回聞いていることになる。もっとも、君らの生涯は、毎回ちょっとずつ変えてある。すっかり同じでは、つまらないからねえ。そう、前回は君の方が先に死んだ。その後、宇留井健一が私の話を聞き、その場で自ら命を絶った」

「健一君は自殺なんかするような人間じゃない」

 閏井が相手をにらんでそう言うと、悪魔は肩をすくめた。

「最期を自殺にしたのはその時だけだよ。気分転換のつもりで自殺に話をもっていったんだが、失敗だった。自分で死なれたら、やっぱり物足りないんだよ。死はやはり、不意打ちであるべきなんだ」

 閏井は自虐的な笑みを浮かべて言った。

「まさか悪魔から死の美学の講釈を受けるとは思わなかったな」

「講釈か」サンクチュアリに安置されている聖母マリア像の顔になった悪魔は、邪悪な頬笑みを浮かべて言った。「お望みとあれば、死の美学について百年ほど講じてあげてもいいんだよ。なんだったら、聖書の中の死のシーンばかりを、バーチャルリアリティで体験させてあげようか。なかなか楽しいアトラクションだと思うがね! 今なら入会金無料でサービスするよ」

 悪魔は自分の弁舌と空想に酔ってハイになっていったが、閏井は逆に自分が冷静になっていくのを感じていた。状況は依然絶望的だったが、悲観的な気分はなくなっていた。

「君らとの出会いは偶然だが」悪魔は美しい顔にいやらしい笑みを浮かべて言った。「まさに天の配剤といえるものだったよ。神の御業みわざというべきかな?」

 そう言うと、叡理の顔になった悪魔はケラケラ笑った。

「君らが他人でありながら瓜二つで、しかも美少年だったために、互いが互いの鏡の役割を果たすことになったのだよ。そのお陰で私が小細工をろうするまでもなく、君らの世界は合わせ鏡の中で無限に増殖し、君らを閉じ込めるおりとなったんだ。そう、君らは、自ら作り出した果てしない檻の中で際限なく転生をし続けているんだ」

「僕と健一君が、互いに映し合って無限の世界を作り出したって?」

 閏井は髪の生え際から止めどなく汗が流れてくるのを感じながらも、無理に皮肉っぽい笑みを浮かべて言った。

「そうだよ」と上品な美女の顔の悪魔は言った。「思い当たる節があるだろう? 以前にも似たようなことがあったが、その時は違う選択をした気がするとか、経験していないことの記憶があるとか。それらはみな、鏡像の世界でことなんだよ。私はその中のいくつかを借りて、そこに君たちを転生させているんだよ」

「ファンタジー作家にでも転身したらどうかね?」閏井は自分でもありきたりと思うジョークを言って、ひきつった笑みを浮かべた。「ハリウッドから映画化の話がくるかもしれないぞ」

「映画?」叡理の顔に戻った悪魔はせせら笑って言った。「君らのことを見ている方がずっと面白いよ。毎度、発見と感動があるからねえ。互いが互いのドッペルゲンガーだなんて設定は、悪魔には思いつかないな」

「じゃあ、これらは僕らの自作自演だと言うのか?」閏井は、乳香と血と腐肉の臭いが満ちた部屋を右手で示して言った。「僕らが勝手にあがいて自滅したんだと」

「まあ、基本はそうだ」悪魔は真面目な顔でうなずいた。「君らにかかっているのは、同じ人生を無限に繰り返すという単純な呪いだからね、細かなエピソードの展開については君らの自由意志、つまりアドリブさ」

「じゃあ、あんたは、それを黙って見物しているだけってわけか?」

 閏井が麻利の顔になった悪魔を睨んでそう言うと、は男の声で笑って言った。

「いやいや。すべてを君たちだけに任せておくのは演出家として無責任だし、放っておくと似たり寄ったりの人生になってしまうからね、要所要所でちょっとした演出をいくつか加えているよ。今回で言えば、そう、修道士皆殺し事件なんかそうだな」

「修道士皆殺し事件……」閏井は思わず聞き返していた。「あのバリ島生まれの修道士が引き起こしたという、あの事件か? あれは今から百年以上前のことじゃないか。僕らとは何の関係もない――」

「それがあるんだよ」今度は学校帰りに会った〝おばさん〟の顔になって悪魔は言った。「君はこの修道院に来た時から、あの墓場のことをやけに気にしていただろう? 別にどうということもない、ただの墓場なのに。それで、君の潜在的な恐怖心にふさわしい過去を作ることにしたんだよ。さっきも言ったように、私は時間の始まりから終わりまで遍在しているからね、過去も今もないんだよ。今ここで大量殺戮するのも、百年前で行なうのも何の違いもない」

「僕が墓のことを気にしていたから、過去に溯って大量殺戮した――だって?」

 閏井は問い詰めるように、そう言った。しかし、その声は震えていた。

「卑小な義憤を振りかざしたって無駄だよ、私は悪魔なんだから」麻利の顔に戻って悪魔は言った。それを見て閏井は、修道士皆殺し事件は麻利から聞いたことを思い出した。「それに、手を下したのは私じゃなくて、君も知っての通りバリ島生まれの少年だよ。私は彼の身に迫っている危険を教え、その最上の対処法をささやいただけだよ。そもそも元を正せば、発端は修道院の墓場に対する君の恐怖心なのだから、君にも責任の一端はあるのだよ。人間が殺害死体や拷問具に対して恐怖を感じるのは、自分の中の加虐衝動に共鳴するのを感じてしまうからなんだ」

「ずいぶんいい加減な精神分析だな。僕の授業でそんなレポートを提出したらC評価だ」閏井は止めどなく話す悪魔の言葉に惑わされないよう、相手が言い終わるのを待たずに言い返した。「そもそも僕が修道士の墓を見て不気味なものを感じた頃、叡理さんの肉体に閉じ込められていたあんたは、のじゃないか? 過去を変えるどころか、僕が怯えていることさえ知らなかったはずだ」

 すると、麻利の顔の悪魔は「くくく……」と笑った。

「肉体の中に閉じ込められているなんてごと、覚えていて下さったんですね、感激ですわ」悪魔は麻利の声で言った。「でも、作り話ですよ、もちろん。麻利とは、叡理が寝たきりになる直前に入れ替わったおりますのよ。ですから、修道士皆殺し事件をあなたにお話ししたのも私でした。ちなみに、麻利は、君たちとはまったく関係のない事案――時代も国も違う――で私の呪いを受けた者なのです。今回は、いわば友情出演というわけですね」

「あれもこれも、みんな嘘だったというわけか。記憶喪失というのも得意の戯れ言か?」

 閏井が憎しみが籠もった目で睨むと、麻利の顔の悪魔は嬉しそうに頬笑んだ。

「いや、それは本当のことだよ。自分が悪魔であるということを除いて、一切の記憶を消してしまったんだ。これは実に新鮮な体験だったよ! まさに今回の演出の白眉はくびというべきものだった! 自分で言うのもなんだが、天才的な思いつきだよ。本当に楽しかったよ。せっかくなので、別の機会――君らとは別の事案ということだよ――に使ってみようと思っているんだ」

「お忙しいようでなによりだ。ほかにも用事があるのなら、遠慮せずそっちへ行きたまえ」

 閏井はそう言いながら、強行突破ができないだろうかと考えた。だが、その瞬間、頭の中に「そういう無謀な試みはお勧めできませんな」という悪魔の声が響いた。

「ご心配には及びませんよ」麻利の顔の悪魔は言った。「これでも律儀な性格なんで、やりかかった仕事はきっちり最後までやり遂げますよ。この案件もあとわずかで完遂ですしね。残すは君の死だけですよ」

 そう言って聖母の顔になった悪魔はにいっと笑った。

「それは御免だね」と閏井は言った。「悪いけれど、僕はもう帰らせてもらうよ。いい加減、この悪夢にも飽きてきたんでね」

「悪いけれど、それは無理だよ」ウィリアム・ブレイクが描いたサタンの顔になった悪魔は、愉快そうに笑って言った。「これが悪夢だと気づいたのは立派だが、悪夢から抜け出ても別の悪夢の中で目覚めるだけのこと。そして、結局はこの場面に戻るんだよ。君は――いや、君たちは、この五十年のサイクルから抜け出すことはできないんだ。というより、それだけが君たちの世界なんだ。同じ人生の繰り返し。ただわずかなバリエーションがあるだけ。今回の君の人生は、もはやこの聖堂の中しか残されていない。なにしろ、間もなくエンディングなんだから。エントランスから出ていこうが、窓から飛び出そうが、ここに戻ってくる。なんなら試してごらん。納得するまで何度でも。待つのには慣れているからね」

「いや、やめておこう」閏井は肩を竦めた。「もっと若ければ悪あがきしてみるところだが、もうそんな気力はないね。もう、あんたとの問答も飽きた。僕の人生がここまでというのなら、さっさと魂を奪ったらどうだい?」

 閏井がそう言うと、悪魔は顔をくしゅっと歪めて苦笑いをした。

「そうしたいのはやまやまなんだがね、できないんだよ。神との紳士協定でね、人には直接手を下さないことになっているんだ」

「じゃあ、僕はどうすればいいんだね?」

 閏井は思わぬ悪魔の弱点を知って、皮肉っぽい笑みを浮かべて言った。

「そうだね」悪魔はそう言うと、再び叡理の姿になった。ただ、それは死んだ時の姿ではなく、もっと若く美しい時のものだった。「こんなのはどうかしらね」

「悩殺する気かい? 老人に使う手ではないよ。それとも腹上死させてくれるのかね? それも難しいかもしれないね」

 閏井が嫌みっぽくそう言うと、叡理の姿の悪魔はにやっと笑った。

「残念ですが、私は夢魔ではありませんから、そういうこともしません。そうではなくて――」

「こういうことだよ」

 背後からそう囁かれて、閏井は身を竦めて振り向いた。

 すると、そこにはローティーンの姿に戻った宇留井がいた。

「健一君、君は……」

 閏井はそこまで言いかけたが、それから何を言うべきなのかわからなくってしまった。そんな閏井を見て、宇留井は「ふふふ」と笑った。

「賢治君、君ももう年寄りの姿は飽きただろう? 僕が昔の君の戻してあげるよ」

 彼がそう言い終わる前に、閏井は腹部に強い衝撃を感じた。それはすぐに鋭い痛みに変わった。

 俯いて自分の腹部を見ると、宝石で飾られた華奢な柄がついたナイフが突き刺さっていた。

「ああ、こんなナイフでは死ねないと心配しないで」と宇留井は言った。「ラ・ヴォワザン夫人考案の毒が塗ってあるから、五分もかからず死ねるよ」

「やられたな」毒の苦痛と、美少年に戻った宇留井を間近で見つめられる喜びで、思わず頬笑みながら閏井は言った。「そう来るとは思わなかったよ。――次は僕の番だから、君が老いてしまう前に殺してあげるよ」

「そうはいかないよ」輝くばかりに美しい顔の叡理――悪魔――は、眉をひそめて言った。「君たちは次の人生でも老いるまで生きるんだ。自分たちが美少年だったとは信じられなくなるほど老いさらばえてから、ここに来るんだよ」

「うるさい」閏井は宇留井を見つめながら言った。「これは僕らの世界なんだ。お前なんかの入る余地はないよ」

 そう言い終わる前に意識が途切れ、視界は闇に包まれた。




  …………………………………………




  …………………………………………




 空が青すぎるな、光も強すぎる。

 と賢治は思った。そして、健一のことをちらりと見て、「やっぱりだ」と呟いた。

 昼下がりの太陽が明るすぎるために、健一の横顔が影絵みたいになっていて、せっかくの美貌に墨を塗ったみたいに見えるのだ。

 その時、「やっぱりだよ」と健一も言ったので、賢治はびっくりしてしまった。独り言は健一に聞こえないと思っていたからだ。

「やっぱり今日も来てる」そう言って、健一は振り返って賢治のことを見た。「どうする?」

 それを聞いて賢治は健一が太陽のことではなく、例ののことを言っているのだと気づいた。

 それで、健一の視線をたどってその方に顔を向けると、思っていた通り花屋のショーウインドウの前にそいつがいた。

 は三十過ぎくらいだろうか、賢治たちの母親より少し若い年頃のようだったが、それにしては化粧が濃く、ヨーロッパの古い肖像画から抜け出してきたみたいな気取った顔をしていた。グレーのジャケットと青いワンピースという格好も、舞台衣装めいている。

「あのおばさん、なんか変だよな」

 賢治の心を読んだかのように、健一はそう言った。

「僕もそう思っていたところだよ。――きっとまた同じこと言うんだぜ」

「そうだよ、そうに決まっているさ。ああ、やだな。あれを聞くとぞっとするんだ」

「僕もだよ」

 そう言うと、二人は苦笑して肩を竦めた。

「もううんざりだから、そろそろ消えてもらおうか」

 健一が小声でそう言ってニヤリと笑うと、賢治も十歳と思えない酷薄な笑みを浮かべた。

「そうだね。消えてもらおう」

 そう言った瞬間、の背後に黒い影が立ち上がったのが見えた。

 さっきの健一のように逆光なので人の姿が影になって見えるのだろう賢治は思ったが、すぐに違うことに気づいた。すぐ前にいるは影になっていないのだ。

 賢治は「あっ」と叫んで身を硬くした。それは影になっているのではなく、黒い姿をしていることに気づいたからだ。賢治はつぶやいた。

「杖ジジイだ」

 黒焦げになった杖ジジイが、からっぽの目を見開いて、彼らを睨んでいるのだ。

「賢治君、賢治君」

 健一のひそめた声で我に返った賢治は、瓜二つの友の方に顔を向けた。健一は眉をひそめて彼のことを見ていた。

「どうしたんだい? 急に『あっ』なって言って」

「杖ジジイがいたんだ。ほら、あののうしろ」

 だが、その方に目を移すと、黒い影はどこにもいなくなっていた。

「おい、しっかりしろよ」と健一は言った。「杖ジジイはとっくの昔に死んだんだぜ。まっ黒に焼けて。こんなところにいるわけないだろ。幽霊だとしても、昼間から出るものか」

 賢治は健一の美しい顔を見て、胸に詰まっていた杖ジジイのようにどす黒いものが消えていくのを感じた。

「それより〝おばさん〟だよ」健一はひそめた声に力を入れて言った。「消えてもらわなきゃ。賢治君、用意はできてる?」

 賢治が「うん」と言うと、健一は賢治の陰に隠れるようにしてランドセルを下ろし、中から果物ナイフを二本取り出し、一本を賢治に渡した。そして、二人はそれをポケットに隠した。

「あら、あなたたち、また会ったわね」

 二人が素知らぬ顔で横を通り過ぎようとすると、彼女は道を塞ぐように二人の前に立って言った。

「ああ、そうですね。こんにちは」二人は、鏡に映したみたいにそっくりな作り笑いを浮かべて、お辞儀をした。「では、さようなら」

 女は二人の言葉が耳に入らぬかのように身をかがめると、二人の顔をじろじろ見つめた。

「あなたたち、本当に綺麗な子どもねえ」

 二人は横目で合図をすると、密かに相手の脇腹をつついた。

「いいえ、僕はそんなに綺麗じゃありません」と賢治は言った。「僕の目は宇留井君のみたいに切れ長じゃないし」

「いいえ、僕こそ綺麗じゃありません」と健一は言った。「僕の鼻は閏井君のみたいに形がよくないし」

「いいえ、僕こそ綺麗じゃないです」と賢治は言った。「僕の髪は宇留井君のみたいにウェーブしていないし」

 大人を苛立たせるために二人が考え出したやり取りの一つだったが、女は面白そうにやにや笑うばかりだった。

「そう、もう猿知恵もついたというわけね。気に入ったわ」女は二人の頬を冷たい手で撫でながら言った。「また、会いましょう」

「でも、僕たち悪い子なんです」

 と健一は甘ったるい声で言った。

「そうなんです。僕たち悪い子なんです」

 賢治も媚びた目をして言った。

「知ってるわよ」

 女がそう言って笑うと、二人は首を振った。

「そうじゃないんです。おばさんが思っているような悪い子じゃないんです。本当の悪なんです」

 二人はそう言うと、二人の頬を撫で回している手に果物ナイフを突き立てた。

 すると、ナイフは溶けかかったバターを刺したみたいに抵抗なく、手の甲にぬるっと吸い込まれた。その途端、手が滑って、二人は親指を浅く切った。血が滴って女の左右の手の甲にかかった。

「ちゃんとわかっているわよ」女はナイフが刺さったままの手を顔の前にもってくると、赤く長い舌を出して二人の血を舐めた。「こういう悪いことをする子だってことをね。だから、また会いましょうと言ったのよ」

「僕たち、もう帰らなきゃ」

 怖じ気づいた賢治は、後ずさりながら言った。

「いいわよ。今日はお帰りなさい」と女は言った。「でも、また会うことになるわよ。血の契約を交わしたのだからね。何度でも何度でも会うのよ。この世の果てが来るまで」

「健一君、行こう。このおばさん、頭おかしいんだ」

 魅入られたように女の手をじっと見つめている健一の左手を強くつかむと、賢治は家に向かって走り出した。つられて健一も走り出した。

 最初の十字路を左に曲がり、さらに走って楡の大木がある寂れた神社まで来て、ようやく足を止めた。

 もうそれ以上息が続かなかったし、心臓も破れそうなくらいドキドキしていた。

「見たかい? あいつ、ナイフが刺さったところから血を出していなかったぜ」

 息が落ち着くのを待って賢治は言った。

「ああ、見たよ」健一は真っ青な顔でうなずいた。「体温もまるでなかった」

「もう二度とあんな奴と関わるのはやめよう。明日から通学路も変えよう」

「もう手遅れだよ」健一は首を横に振った。「奴は僕らの血を飲んでしまった。どこへ逃げても、すぐに居場所を見つけられてしまう。今だって、ほら」

 健一は右手に握られたナイフを賢治の眼前に突き出した。

「そ、それは、あいつの手に突き刺したままにしたものだろ? なんで君の手にあるんだ?」

「わからない。気づいたら握っていたんだ。君もそうだろ?」

「え?」

 賢治が驚いて自分の右手を見ると、確かに自分もナイフを握っていた。

「そんな馬鹿な。だって、僕は……」

「わかっただろ?」健一は自嘲の笑みを浮かべて言った。「僕らはもう奴から逃げられないんだ。それをわからせるために、ナイフを戻したんだ」

「逃げられないなんて、そんなこと……」賢治は少し考え込み、それから決意を込めて言った。「逃げられないのなら、今度こそ奴を倒せばいいんだ。あいつにだって弱点はあるはずだ。それを二人がかりで攻めるんだ」

「弱点はあるだろうさ」健一は皮肉っぽく言った。「でも、それを攻撃できるのは神くらいだろうよ。……いや、ひょっとしたら――」

 健一は左手で賢治の肩をつかんで言った。

「奴は僕らが揃っているところしか見ていない。常に僕らを一組の存在として扱ってきた。さっきもそうだったろ? だから、僕らが別々になったら、奴は僕らに気づくことができないんじゃないか?」

「別行動をするってことかい?」

 賢治は健一の真意を測りかねて問い返した。

「そうだ」健一はうなずいた。「でも、一時的なものでは駄目だ。奴は、いつ、どんなところでも出現できるから、僕らが一瞬でも一緒になれば、すぐに気づかれてしまう」

「じゃあ、僕らがここにいることも?」

 賢治は驚いてあたりを見回して言った。健一は重々しくうなずいた。

「たぶん。ひょっとしたら、この会話も聞いているのかもしれない。――でも、永遠にばらばらになれば、奴にはどうしようもない」

「永遠にばらばら?」

 賢治は不安な予感に胸をどきどきさせて、健一を見つめた。

「そうだ」健一はぎこちなく笑ってうなずいた。「どちらか一方が死んでしまえば、二度と二人が一緒になることはない。――だから、賢治君、そのナイフで僕を殺すんだ! 頸動脈を切れば、苦しむことなく、すぐに死んでしまえるから。ここだ、ここを切るんだ」

 健一は賢治の左手をつかむと、自分の左の首筋にもっていった。

「そんなこと、僕にはできないよ!」

 賢治はそう叫んで、健一から身を引き離した。その瞬間、健一に対する違和感の正体に気づいた。

「お前は健一君じゃないね。――あの変なだろ!」

「本当にやっかいな子だね」

 そう言い終わらぬうちに賢治の姿は、例のに変わっていた。賢治は、この場面をずっと昔に見たと思った。

「健一君をどうした?」

 賢治は怖じ気づきそうな自分を奮い立てて、そう言った。

「君の仲良しさんも、そっくりそのままの体験をしているよ。そして、君を殺しているところさ」

 賢治は鼻で笑った。

「ふん、健一君がそんなことするものか。僕より先にお前の正体に気づいたはずだ」

「本当に、やっかいな子だね!」

 女がそう叫んだ瞬間、賢治は花屋の前に戻っていた。

 すぐ隣には健一が立っており、前には例のがいる。だが、その様子がおかしい。

 見ると、その腹に果物ナイフが二本突き刺さっていて、そこから血がどんどん滲み出して服を赤黒く染め、さらに地面に滴っている。

 と、不意に女は仰向けに倒れた。賢治たちの周辺で複数の悲鳴があがった。

「別々に逃げるんだ」健一が賢治の胸をつかんで言った。「君はあっちへ。僕はこっちへ逃げる」

 そう言うと、健一は賢治を突き放して、元来た方へ走っていった。賢治も弾かれたように走り出した。

 追っ手を振り切るつもりで何度も角を曲がりながら走っていくと、不意に目の前にヨーロッパの古い教会のような建物が現われた。不思議なことに、初めて見る建物なのに見覚えがあるように思えた。

 ――ポーの怪奇小説集の挿絵で見たのかな?

 賢治はふとそう思ったが、今はそんなことを考えている時ではないと気づき、体当たりするようにして、その建物の木製の扉を開けた。

 そして、その中に入った――はずだった。しかし、そこは玄関先の石段の上だった。

 振り返ると、木製の扉の上に薔薇窓があるのが見えた。

「これは――?」

 閏井は眉をひそめ、建物全体を見渡してみて、そこがどこなのか思い出した。

「これは、健一君の修道院の聖堂だ。ということは――」

 もはや生きているうちは決して出ることができないと悪魔が言った、聖堂のシュヴェから脱出できたわけだ、と閏井は思った。

 悪魔も予想しえない手違いが生じたのか、それとも、これも悪魔のわななのかわからないが、このチャンスを逸するわけにはいかない。閏井はそう考え、レンタカーを停めてある車庫に向かって走り出した。

 だが、五歩も行かないうちに、後ろから上着の襟をつかまれてしまった。

 振りほどこうとすると、今度は左側から図体の大きな男に抱きつかれ、地面に押し倒された。

「確保! 確保した!」

 抱きついた男は閏井をうつ伏せにしてその背に乗り、そう叫んだ。すると、さらに二、三人の者が駆けつけてきた。

「閏井賢治だな?」

 馬乗りになった男は閏井に手錠をかけると、彼を引き起こして、そう尋ねた。

 状況が飲み込めない閏井が小さな声で「ああ」と答えると、後からやって来た者の一人が閏井の頭越しに言った。

「犯人は現場に戻るというのは、本当なんですねえ」

「きっと美人の死体が恋しくなったんだろう?」その隣に立つ男が言った。「もう一発やってから逃げようと考えたのさ」

「なんだ? なんのことを言っている? 僕は何も悪いことをしていないぞ」

 閏井は、小学生の時の刺傷事件が今になってバレて、それで逮捕されたのだろうと思っていた。犯罪を犯したのは事実だとしても、この扱いは乱暴すぎると、彼は憤った。

「何もしてないだって?」閏井に手錠をかけた男――ラガーメンみたいにがっしりした体をしていた――は、閏井を立たせながら言った。「四人もの男をなぶり殺しにし、その血の中で人妻を強姦するというのは、お前の基準からすると、何もうちに入らないのか? ナニの最中に女の首を切るという、超変態プレイまでしているくせに!」

「そんなこと、僕は知らない!」

 閏井がそう叫んで暴れだすと、大男は閏井の腕をつかんで引き寄せると、こう言った。

「現場でその台詞を、もう一度言ってみせろよ。どうせ、そこを見に戻ってきたんだろう? 殺戮現場を」

 閏井は三人の男たちに抱えられるようにして、修道士の墓場まで連れて行かれた。

 その中央部に立つ大きな石の十字架――そんなものはなかったはずだが――には、四人の男の死体が掛けられていた。

 右の腕木に二体、左の腕木に一体。これらは修道院に押し込もうとして叡理の生き人形に殺された三人組に違いなかった。そして、もう一人が宇留井健一で、彼は縦木にもたれるようにして地面に座り込んでいた。いずれも刃物で何度となく切りつけられており、四肢がちぎれかかっていた。

 それらの死体から流れ出した血は、十字架の前の窪みにたまって小さな池を作っていた。その中に横たわっていたのが、全裸の麻利だった。

 麻利は両脚を広げたままで、露わになった性器も血にまみれていた。そして、其の首には大きな切り傷があった。

「麻利さん……」

 あまりに凄惨な光景に閏井は絶句した。

「何度見ても吐き気を催す現場だな」大男は閏井を抑えたまま言った。「これらは、お前がやったことだろう? お前以外いないんだよ。こんな猟奇的なことができるヤツなんか」

「僕が?」閏井は大男を睨み返しながら言った。「僕がこんなことをしたと言うのか? こんな老人が、四人の男を殺したって?」

「老人?」大男は何を言っているんだという顔をして、周りの仲間と顔を見返した。「俺の目には二十歳前後にしか見えないがな。顔だけ見てれば、少女マンガにでも出てきそうな優男やさおとこのくせして。――美青年の大量殺人者マス・マーダーか。マスコミが大喜びするぞ」

「二十歳前後? 美青年? そんな馬鹿な!」閏井は老人の姿で死んでいる宇留井を見つめて叫んだ。「僕のドッペルゲンガーである健一君が老いた姿をしているのに、僕は若いだなんて、そんなことありえない。そんなわけない!――誰か鏡を見せてくれ。本当の僕の姿を見せてくれ!」

 その瞬間、血だまりの中から麻利が立ち上がり、頭が割れそうなほどの大きな声で笑い出した。



(了)

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笑う死美人 ZZ・倶舎那 @ZZ-kushana

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