10
閏井が黒いシャツにベージュのパンツ、オリーブ色のジャケットに着替えて一階に降りると、宇留井が廊下で待っていた。宇留井は修道士が着るようなフードがついた長衣を着ていた。前日着ていたフリース生地ではなく、絨毯のような毛織物で、まっ黒に染められていた。
彼は閏井が着替えているのを見て、「おやっ」という顔をした。
閏井は頭を掻いて言った。
「悪魔の復活の儀礼にふさわしい服と思ってね」
宇留井はうなずいてみせた。
「その格好なら美少年に戻っても似合うだろう」
その言葉に閏井は不意を突かれたような顔をしたが、すぐに苦笑して「そうかもな」と言った。
聖堂に入ると、甘くスパイシーな香りが鼻をついた。その濃さにたじろいだ閏井は、先を歩く宇留井に尋ねた。
「この香りは乳香かい?」
「ああ、まあ、そうだ」宇留井はちらりと振り向いて言った。「乳香を主成分に
「大層なものだな」閏井は溜息をついて言った。「それにも金がかかっているんだろうな。その香りで祭場を満たすっていうことも、
「まあね、いくつかの本の記述を参考にした。ただ、これは悪魔を招くために焚いているのではなく、儀式に関わる者の気持ちを高めるためのものなんだ。――どうだい? 頭の奥の方がクリアになってきただろう?」
「すっきりしたようでもあるが、眠ってしまいそうでもあるな」
宇留井は「ははは」と笑った。
「肝腎なところで居眠りして、見逃さないでくれよ」
閏井は黙ってうなずいた。
香の薫りは奥に行くほど濃くなるものと覚悟していたのだが、意外にもそんなことはなく、むしろ重苦しいほどの甘ったるさは薄れ、熟成したワインを思わせるものになっていった。
――いや、薄まったのではなく、こっちの方が薫りに慣れてしまったのか。ひょっとしたら、この香には感覚を狂わせる作用があるのか?
そう思うと聖堂の内部もやけに赤っぽく、柱などは膨らんでいるように感じられる。
「なあ、健一君」閏井は宇留井の背中に言った。「この香には幻覚作用とかあるのかい?」
「え?」宇留井は足を止めて振り向いた。「どうしたんだい? 使い魔でも見えたかい? だとしたら、それは君の潜在的願望が形象化したものだよ。香には麻薬などの幻覚剤も催淫剤も混じっていないよ」
「そうか。――いやね、堂中がいやに赤っぽく感じられたんでね。じゃあ、気のせいか」
「夢さ」と宇留井は言った。「若者は幻を見、老人は夢を見る――だよ」
「『使徒言行録』かい。この場にふさわしくない引用だね」
閏井がそう言うと、宇留井は首を横に振った。
「悪魔の儀礼に聖書はつきものさ。悪魔に関するもっとも重要な典籍だからね」
叡理――宇留井の言葉を信じれば復活を控えた悪魔――を祀る祭壇は、サンクチュアリの奥のシュヴェ――サンクチュアリの裏側、つまり聖堂の東端に突き出すように造られた半円形の小礼拝堂――に設えられていた。
「祭場はサンクチュアリにすべきか、シュヴェにすべきか大いに迷ったよ。理論上はサンクチュアリで疑いないのだけれど、この儀礼には密閉された空間が必要なんだ。この聖堂のサンクチュアリを密閉するのは難しいし、身廊全体を密閉空間として扱うのも無理がある。このシュヴェはやや狭いが、ドアを閉めれば完全な密室だからね」
「密室か」閏井はシュヴェの壁に開けられた三つの細長い窓を見ながら言った。「殺人事件でも起きそうだな」
「殺人事件どころか」宇留井はすでに興奮しているようで、声をかすかに震わせながら言った。「反創造がなされるんだ。この部屋は
閏井は部屋をゆっくりと見渡した。
シュヴェと呼ばれるその部屋は八畳ほどの広さで、半分に切られたドームのような形をしていた。外に向かって半円形に膨らんだ壁は石造りで、古めかしいタペストリーが左右に掛けてあった。タペストリーは一・五メートル四方ほどもあり、
タペストリーの間にある縦に細長い三つの窓は、今はガラスが嵌めてあるが、かつては吹き抜けになっていたらしく、枠に風化の跡が見られた。
家具は儀式のために片付けられたのか、窓の下に置かれた古めかしいガラス戸つきのキャビネットのみで、そのキャビネットの中には宝石で飾られた短剣や黄金の十字架、水晶を彫って作ったらしい髑髏などが置かれていた。
叡理の遺体は部屋の中央に敷かれたダマスク柄の絨毯の上に、窓の方を頭にして寝かされていた。
黒い絹のロングドレスを着た叡理は、蠟細工のように白い手を胸の上で組んでいた。顔には黒いベールがかけれていたが、その端正な顔立ちはレース越しでも見て取ることができた。心なしか昨日より血色がよくなっているようだった。
叡理の手前に設えられた祭壇は、思いのほか簡素なものだった。
神社での儀礼に用いられる素木の机――
「悪魔が菜食主義だとは知らなかったよ」閏井は、供物皿の上に木の実や果物が盛られているのを見て言った。「悪魔の召喚というより、神社のお供えだね。それともこれは神道化した悪魔崇拝の儀礼なのかい?」
「
閏井は肩を
「あの連中がここに忍び込もうとして犠牲となったのは」ここまで言って閏井はかすかに身震いをした。「この儀式にとって好都合だったというわけだが、そんな偶然が起こらなかったら、どうするつもりだったのかい? 町で子どもでも
「私が
甲高い女性の声が部屋の背後から響いて、閏井は思わず半歩ほど後ずさった。
恐る恐る振り返ると、この部屋の唯一の出入り口である扉の右脇にあるベンチに、麻利が座っているのが目に入った。
《最初からここにいたのだろうか》と閏井は思った。《最初からいたのだとしたら、部屋の中を見回した時になぜ気がつかなかったのだろう? 後から入ってきたとも思えないが。》
「私が」麻利は重ねて言った。「この身を捧げて、叡理様の復活のお役にたてるはずでした」
「でも、そうしたらあなたは」閏井は平然を装って言った。「叡理さんの復活に立ち会えない。それでもよかったのですか?」
「私が叡理様の贄になれたのなら」麻利は夢見るような口調で言った。「私の魂は叡理様のものになるでしょう! 私の肉体は叡理様の新たな体の一部となるでしょう」
「そ、それは残念でしたね……」
閏井は返答に窮してそう言った。
「いえ、ご心配には及びません」麻利は文楽人形のようなこわばった笑みを浮かべて言った。「間もなく叡理様が復活されます。そうなれば、私の身も魂も叡理様のものになります。そう信じております」
「ま、そういうことだ」返事のしように困っている閏井の肩をぽんと叩いて宇留井は言った。「それが、麻利をこの儀礼にかけるモチベーションとなっているんだ」
そして、閏井の手をつかむと、部屋の隅に置かれている椅子のところへ連れていった。椅子の下の床には魔方陣らしきものが白墨で描かれていた。
「儀礼の流れはさっき話した通りなんだが」と宇留井は言った。「始めたらなにが起こるのか、僕にもわからない。叡理の魂だけではなく、使い魔なども呼び寄せてしまうかもしれない。儀礼が終わるまで、そこから動かないでいてくれ」
そう言った宇留井の首が飛んだ。
頭部がなくなった体は、喉の切り口から血を噴き出しながら、
飛んだ首の行方を追って顔を上げると、天井付近に、その首を足でつかんで飛ぶ巨大な甲虫のようなものがいた。甲虫の頭部には干からびた女の顔があり、鋼(はがね)色の腹部には干涸らびた乳房が三対へばりついていた。
甲虫の顔が閏井のことを見た、と思った瞬間、尻の先から液体を吹きかけてきた。
「おい、大丈夫か?」
気がつくと閏井は、両肩を宇留井につかまれて揺すぶられていた。
「まだ何もやっていないうちからトランス状態になるなよ」宇留井は軽い頭突きをして言った。「そんなことじゃ、儀礼が終わるまで精神がもたないぞ」
「君の首が飛ぶ幻を見てた」閏井は吐き出すように言った。「それを甲虫みたいなミイラ女が足でつかんでいた」
「ベルゼブルか」宇留井は顔を顰めて言った。「カトリックに改宗したのかい? 悪魔の概念が古典的すぎるよ。そんなイメージはさっさと忘れないと、マモンだのベリアルだのが、使い魔の一団を引き連れて押し寄せてくる幻影から抜け出せなくなるぞ」
「いや、もう大丈夫だ」閏井は両手で顔を擦りながら言った。「香のせいか酔ったみたいになってね」
「今、君が見たのは君自身の潜在的要求だ」宇留井は閏井の肩に手を置いて言った。「それが何を意味しているのか、僕にはわからないがね。いいかい、悪魔儀礼は人の潜在意識を開放させる。意志をしっかり保たないと、自分自身に溺れてしまうぞ」
「ああ、わかったよ」
そう言っている間に、宇留井の姿が山羊の脚と蛇の尻尾をもった悪魔に変わった。閏井は溜息をついて舌を強く噛んだ。
鋭い痛みに思わず目をつぶったが、再び目を開けると宇留井は元の姿に戻っていた。
「やれやれ。とびっきり苦い煎じ薬でも持ってくるんだったな」
と閏井がつぶやくと、宇留井はニヤッと笑って「それなら、いいものがある」と言った。
宇留井はキャビネットのところに行くと、その引き出しから黒い針金を巻いたようなものを取り出し、三センチほど引きちぎって閏井に渡した。
「なんだい、これは?」
閏井が疑わしそうな顔で問うと、宇留井は食べるジェスチャーをしてみせ、こう言った。
「リコリス――スペインカンゾウ――が入ったお菓子だよ。北欧では子どもも食べるものだから、安心してくれ」
「こんな黒いものが?」
閏井はそう言ったが、一呼吸おいて、その菓子を口に入れた。だが、すぐに顔を
「すごい味だな。祖母が飲んでいた
「ははは、君も
「ああ」
閏井は苦笑してうなずいた。
「では」
宇留井は叡理の祭壇の前に立って言った。
「復活の儀礼を始めることにする。まずはこの祭壇を一度撤去して、叡理の前にカードを並べる。そして、改めて祭壇を設置し、反創造の魔術を始める。――麻利、君はドアの前に立って。僕がカードを並べ終えたら祭壇を設えて、悪魔召喚の祭文を唱え始めてくれ。カードを並べている間も、祭文を唱えている間も、けっして僕から注意をそらさないでくれ。僕が誤ったり、力尽きたりしたら、君が代わって儀礼を続けてくれ。――賢治君、君はその椅子から一歩も動かないで、何が起こるのかじっと観察していてくれ。ありえないことや恐ろしいことも起こるかもしれないが、それは、そのほとんどは幻だ、おそらく。惑わされないでくれ。そして、何があろうとも、その椅子から動かないでくれ」
言い終わると宇留井は手早く祭壇を部屋の隅に片付け、改めて叡理の前に立った。そして、三十秒ほど何かを小声で唱えて、床にひざまずいた。
いったいどこから取り出したのか、宇留井の両手の中には赤紫色をしたビロードの袋があった。彼はそれを芝居がかった仕草で
「
宇留井はカードの上部に書かれた文字を読み上げながら、一枚一枚カードを床に並べていった。
カードは確かにタロットの大アルカナと呼ばれる絵札に似ていた。しかし、それより描写は細密で、豪華な彩色がされていた。
面白いのは、描かれた人物たちが、何かを象徴していると思われる持ち物を手にしていることだ。たとえば、若い男は
確かに宇留井が言っていたようにカードの意味を正しく読み解くことができたなら、カード一枚一枚が本一冊にも相当する智恵を明らかにするのであろう。そして、それらを正しい順番で読むことができれば、神の名の下で滅ぼされた文明の叡智も明らかにすることができるのに違いない。
「その通りだ」と宇留井は、閏井の心を読み取ったかのように言った。「ここに記録されている智慧は、西洋文明も東洋文明も至ることができなかった境地のものだ。絶対者に迫りうるほどの、あまりに高いレベルのものであるため、さまざまな権力者やカルト教団、犯罪集団から狙われ、その智慧を記した聖典の所有者は、聖典の秘密を読み解く前に殺され、本を奪われた。最後の所有者となったアルビジョアの〝名もなき司教〟は、カルカッソンヌの城が包囲された時、城塞付属教会の地下室で聖典を焼き、その核心を十三枚の象徴的な絵にしたものを、城を脱出する信者に託した。その後、絵は四分の一の大きさに切り分けられ――全部で五十二枚になったわけだ――、二組の写本が作られた。程なくカードの意味も正しい順番も忘れられ、カードは人の手から手へと渡り、一組は持ち主とともに焼かれ、もう一組はとある墳墓に埋められた。残る一組も散逸してしまった」
「じゃあ、なぜそこにあるんだい?」
閏井は宇留井が言葉を切ったタイミングで、そう尋ねてみた。ピントがはずれた質問のように思えたが、その一方で宇留井がそう尋ねてほしがっているようにも感じられていた。
案の定――というべきか、宇留井はにやりと笑って答えた。
「秘密の墳墓を見つけ出し、そこにかけられた呪いをものともせず掘り出した者がいたのさ。僕のことじゃないよ。僕らが生まれるより二十年以上前のことさ。そいつは呪いのため生きたまま地獄に墜ちたといわれるが、その前にカードを売りさばいていた。二番目の持ち主も、強盗に襲われ生きたまま皮を剥がれるという不遇な最期を遂げたそうだが、カードは友人に預けてあって無事だった。危険を感じたその友人は、秘密裏にカードを魔道書コレクターに売却した。ただ、それっきり消息を絶ったそうだから、呪いから自由になれたのかは不明だよ。――一方、魔道書コレクターだが、彼女はニューヨークでも知られた投資家だったそうだが、奇妙なことにたった一週間で全財産を失ってね、ブルックリンのオフィスから身を投げて死んだそうだ。魔道書もめぼしいものは売り払われていたが、残りのコレクションは身の回りのものとともに債権者に引き渡された。その債権者こそが、叡理だったのさ。そして、カードは身の回りの品の中に紛れ込んでいたんだよ」
「紛れ込んでいた?」閏井は
宇留井は肩をすくめた。
「確かに彼女の関与は疑いのないところだ。だからこそ、カードがここにあるわけだ。ただ、どこから彼女が関わっているのは、僕にはわからないよ。――ちなみに、このカードは〝名もなき司教〟が作った原本だよ」
そこで宇留井は「ふう」と息を吐き、真顔になって閏井に言った。
「無駄話はこれで終わりだ。今からが本当の儀式だ。僕がカードに手をかけた瞬間から、一切声を出してはいけない。悲鳴さえも呑み込むんだ。いいね? そうしないと、口から漏れた声が
閏井は黙ってうなずき、宇留井もうなずき返した。
宇留井は再び床に膝をつくと、逆手で十字を切り、手前のカードへと手を伸ばした。
不思議なことに、宇留井が呪文を唱えてカードを一枚撤去するごとに、部屋の外の存在感が薄れていく感じがした。そして、それと反比例するように、室内の空気が濃密になっていくようであった。
かさり、かさり、と宇留井がカードをめくる音だけが室内に響いた。銀河が消え、太陽系が消え、空が消え、海が消え、陸地も消えた。最後の一枚がめくられると、虚空の中に浮かぶ部屋だけが残った。
宇留井は少しよろめきながら立ち上がると、カードを両手で抱えて部屋の隅の暖炉に向かい、青い火がちろちろと燃える炉の中にカードを投げ込んだ。そして、暖炉の上に置かれた琥珀色の瓶を取って、その中身――香油の類いらしかった――をふりかけた。
すると、オレンジ色の炎が立ち上がり、この世に一組だけ残されたというカードを包み込んだ。
宇留井は虚空に向かって言った。
「こうして光は封じられ、滅ぼされた。叡理ことソフィア=ルシフェルよ。今こそ、完全なる姿を現わしたまえ」
その瞬間、閏井はうめき声をあげた。
宇留井の言葉が終わると共にこの世界の一切が消え去り、その裏に隠されていた影の世界が剥き出しとなった。そして、その毒と悪意に満ちた先端が、閏井の胸を突き刺した。
しかし、実際には何も起きていなかった。
宇留井は暖炉を背にして呆然と立ち尽くしており、麻利はその背後で、レジの順番を待つ主婦みたいに茫洋とした目で何もない空間を見ている。まるで時間が止まったかのように音すらしなかった。
「失敗?」
不意にその言葉が閏井の脳裏に浮かび、彼は自身のしくじりでもあるかのように背筋に寒気が走り、脇の下に冷や汗が滲むのを感じた。
だが、次の瞬間、事態は急転した。
「愛しい人、よくやってくれました。――誉めてつかわす」
女の声にしては太く腹に響く声が、部屋に
宇留井は、そして閏井も、復活した叡理が言ったのだろうと思い、その方に目をやった。
ところが、絨毯の上に寝かされていた叡理の遺体からは、赤みを帯びた煙が立ち上がり、ものすごい腐臭を発して急速に朽ちつつあった。
「あっ」と叫び声をあげて、閏井が遺体に駆け寄ろうとした瞬間だった。「ぐえっ」と呻き声とも叫びともつかない声を出して、宇留井が血を吐いた。
思わず足を止めた閏井が振り返ると、宇留井の胸から血に染まった細い腕が突き出していた。
「宇留井健一、今回も本当によくやってくれた。お前の役目は、ここまでだよ。――まあ、また、すぐに会うことになるのだけれどな」
宇留井の背後から、聞き覚えがあるが誰のものか思い出せない、懐かしくもあり身の毛がよだつ気もする声がして、それに応えるかのように宇留井は身を小さく痙攣させた。そして、もう一度血を吐くと、糸が切れた操り人形のように床に倒れた。
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