9
深夜。
閏井は人の叫び声を聞いたような気がしてベッドから身を起こした。
しかし、その声が現実のものなのか、夢の中でのことなのかわからず、閏井は上体を起こした格好のまま耳を澄ませてみた。
すると、草むらを数人の者が走る音が聞こえてきた。そして、再び叫び声。前より低くくぐもった声であったが、中年の男らしいことはわかった。
閏井はベッドから降りると、声が聞こえてきた方角を修道士の墓あたりだろうと見当をつけ、そちら側のカーテンを引き窓を開けて、外を眺めてみた。
折からの満月で墓石の列は銀色に輝いていたが、その光は陰気で弱々しく、地面付近には
その墓石の列の間を動くものがある。月光より白く輝くそれは、何かをずるずると引きずっていた。閏井は窓から身を乗り出し、目を凝らしてそれを見つめた。
それは、白いワンピースを着て、白いベールを被った女――叡理――だった。
「生き人形?」閏井は
しだいに目が暗さに慣れてくると、叡理の全身がはっきりと見えてきた。彼女が引きずっているものも。
彼女は二体の人間を、その脚を持って引っ張っているのだった。引きずられている者たちは死んでいるのか、乱雑に扱われいるのにぴくりとも動かなかった。
ひゅうひゅうと音をたてて風が、墓地を吹き抜けていた。――いや、そうではない。叡理が歌っているのだった。
それは聖歌のようでもあり、魔術の呪文のようでもあった。耳にしているだけで気分が落ち込むほど陰気な歌なのだが、叡理自身は楽しんでいるらしく、その足取りは軽やかでリズミカルだった。
程なく叡理は墓地の中央にある大きな十字架の前に着いた。十字架の横木には人間らしきものが掛けてあった。
「昼間、屋敷の様子を探っていた者たちだな」
耳元にそう囁かれて閏井は驚いて飛び退いた。いつの間にか宇留井が部屋に入ってきていたのだった。
「この部屋の窓が開く音がしたものだからね、彼女のことで驚かないよう忠告に来たんだ。今日、彼女が動くとしたら連中を始末するためだろうから、恐ろしい場面を目にしてしまう可能性があったからね。――どうやら、決定的な場面は済んだ後のようだな」
「殺すところは見なかったが」閏井は横目で宇留井を見て言った。「この場面も十分衝撃的だよ。僕は警察に通報すべきだろうかね?」
「警察! どうしてそんなことする必要がある?」
宇留井は本当に驚いた様子で問い返した。
「どうして?」閏井は強い眠気が襲ってきたのに戸惑いながら言った。「僕が今目にしていることが現実なら、三人の人間が死んでいることになる。殺されたのか、事故なのかわからないが、通報するのが市民の義務だろう?」
宇留井はせせら笑って言った。
「ここは既に悪魔である叡理が支配する異界だよ。携帯の電波は届かないし、仮に通報できたとしても、パトカーはここに
叡理の姿をした生き人形は十字架に二体の死体をもたせかけると、ナイフのようなものでそれらの喉を掻き切った。
やはり生きてはいないらしく、血が勢いよく噴き出すことはなかったが、あたりに血の臭いが広がった。すると、それに呼応するかのように、周囲の闇から動物の呻り声が低く響いた。
「ほら、もうおいでになった」
宇留井がそう言うのを耳にしながら、閏井は立ったまま眠りに落ちていた。
目が覚めるとベッドに仰向けに寝ていた。
普段は横向きに寝るので、落ち着かないような、何かが間違っているような違和感が首筋から胸にわたって
寝つけないベッドのせいだろうか、と考えた途端、深夜の出来事を思い出した。
飛び起きて窓辺に行き、修道士の墓地の方に目をやった。
死体はなくなっていた。血の臭いも残っていなかった。
大きな十字架もなくなっており、代わりに砕けた石の
「あれは夢だったのか……?」
そう思いかけた時、墓石の一つの陰から狐がうっそりと姿を現わした。
その茶色い獣は、閏井のことをちらりと
十五分後、閏井は食堂に降りていった。
すでに宇留井はテーブルについていて、コーヒーを飲んでいた。
「やあ、おはよう。よく眠れたかい?」
「
「あんなこと?」宇留井はとぼけてそう言った。「――ああ、生き人形の
「ああ。でも、人を殺すということは聞いていない」
宇留井は肩をすくめた。
「そうか? 人を襲うと言ったと思うが。――まあ、僕も、こんなに都合よく連中が忍び込んでくるとは思わなかったがな」
「都合よく?」
閏井は自分そっくりの顔をした旧友の言葉を聞き咎めた。宇留井は苦笑してうなずいた。
「ああ。儀礼には
「君は人の命を……」
「きれい事を言うのはよせよ、賢治君。連中は強殺――強盗殺人――を繰り返してきたような者たちだよ。悪魔の復活の気配に惹かれてやって来るような者は、地獄にいるのがふさわしい者さ」
「強殺?」閏井は眉を顰めて問い返した。「なんでそんなことが君にわかるんだ?」
すると、宇留井はテーブルに置いてあったタブレット端末を取り上げ、十秒ほど操作すると、それを閏井の方に差し出した。その画面には三人の男の写真とその経歴らしきものが表示されていた。
「最近の悪魔学は、古色蒼然とした本を読むばかりじゃないんだ。IT化も進んでいてね、さまざまな情報がサイバー空間を通して共有されている。書誌学的な知見や歴史学的発見などはもちろん、オカルト的な出来事、猟奇的な事件の情報もデータベース化されている。金を惜しまなければ、あらゆる犯罪の情報も手に入る。それは防犯カメラの映像から割り出した連中のプロフィールさ。いずれも札付きの屑だ。悪魔の前菜に最適だよ。――まあ、僕らの手も血で汚れていないわけではないのだから、安い同情心など捨ててしまった方がいいぞ。なあ、賢治君」
閏井はしばらく黙ってタブレット端末を見つめていたが、やがてぼそっとつぶやいた。
「今や悪魔もネット廃人というわけか。〝いや果てのこの暗黒の一角こそ彼らの牢獄、彼らの宿命の場所〟か」
それを聞いた宇留井はくつくつと笑い出した。
「平井正穂訳の『失楽園』か! 君もこの館の流儀がわかってきたようだね! さあ、儀式の準備にかかる前に朝食にしようじゃないか」
儀式には体力がいるという理由で、宇留井が作った朝食はぶ厚いステーキだった。
「焼き加減をレアにするというのも、魔道書だかに書いてあるのかい?」
閏井は肉の切れ目から流れ出る赤い肉汁を、うんざりした顔で見つめながら言った。
宇留井は黙々と切り分けた肉を口に運んでいたが、赤ワインでそれを飲み込んで答えた。
「鶏の血を撒くというのはあるけれど、ステーキはどうかな。中国人なら豚の頭は不可欠だろうが、西洋の魔道士は案外貧乏人が多いから、干涸らびたパンとチーズといったところだろう」
閏井は皮肉っぽい口調で言った。
「悪魔崇拝者も結局、清貧を強いられるのかい? それじゃあ、異端になるメリットはないな」
「悪魔に金持ちにしてもらおうというのが、そもそも間違いなのさ」宇留井は肉片を刺したままのフォークを振って言った。「魔術は金がかかるんだ。まず金持ちになり、それから魔道の世界に踏み込むべきなんだ」
これを聞いた閏井が「じゃあ、君は、その理想型を実践したわけだ」と言うと、宇留井は少し黙って感慨に耽るような顔をした。
「僕の場合は」と宇留井は言った。「すべてのことが始まる前から、叡理の導きがあったんだ。そう、小中学生の頃の君と僕の日々にさえも、叡理の意志が働いていたんだ」
「え? どういうことだ?」
その問いに宇留井は答えず、閏井の目を覗き込みながら、こう言った。
「美少年だった頃の僕たちは、実に悪魔的だったとは思わないかい?」
「さて、聖堂に行く前に、今日のざっとした段取りを話しておこう」
閏井が半分も食べられなかったステーキをぺろりと平らげた宇留井は、椅子の背にもたれかかり、そう言った。
「まずは叡理の遺体を聖堂の一番奥にあるシュヴェ――小礼拝堂――に移す。サンクチュアリは狭いから、カードが並べられないんだ。そして、彼女の前に祭壇を作り、儀礼を始める。簡単に言うと、天地創造を逆に行なうんだ。創造された天地を象徴するのがカードで、呪文とともにそれを一枚ずつ取り除いていく。そして、最後の一枚になった時、叡理は復活するのだ」
閏井はしばらく宇留井の顔を見つめていたが、ぼそっとこう尋ねた。
「で、僕はどうすればいいんだい?」
宇留井は真面目な顔に戻って、閏井を正面から見て言った。
「君にはすべてを見ておいてほしいんだ。どのようなことが起きようと目をそらさず、最後まで――叡理が完全に復活するまで、その目で見ていてほしいんだ。叡理が復活した後のことは、叡理が決める。君にも何か指示のようなものがあるはずだ……」
閏井はしばらく自らの
「君たちが復活の儀礼を行なうのを、じっと見ていろと言うんだな。そして、叡理さんが復活したら僕にも何かを命じるというのだね」
「ああ、そうだ」宇留井は重々しくうなずいた。「その時になれば、この儀式の真の意味わかるだろう」
二人は再びしばらくの間、黙って見つめ合った。
窓のすぐ外でカラスが、思いがけないほど大きな声で「があ」と鳴いた。その一声で、止まっていた時間がまた動き出した。
「四十分後に聖堂に行くので構わないかい?」宇留井は何事もなかったかのように言った。「儀礼にどのくらい時間がかかるのか、やってみないとわからないのだが、二時間以上はかかると思ってくれ」
閏井は肩を竦めた。
「僕は四十分後でも二十分後でも構わないよ。正装しなくてもいいのだろう?」
「ああ、もちろんさ。そのままで結構だ。でも、叡理に素敵な格好を見せたいというのなら、ドレスアップしてもいいんだぜ」
「いや、やめておくよ」閏井は苦笑して言った。「そもそもそんな服もっていないし、悪魔に気に入られようとは思わないからな」
宇留井は苦笑して「好きにしたまえ」と言い、自室に戻って行った。
閏井も部屋に戻りベッドに横になった。そして、このまま東京に戻ってしまおうかと考えた。
宇留井が言っていることが、どこまで真実なのかはわからない。仮にそのほとんどが彼の妄想だったとすると、このまま彼の計画につき合うと、とんでもない愚行――たとえば、
それどころか、閏井自身も宇留井の妄想に同調してしまう危険性がある。いや、すでに彼の妄想世界に取り込まれているのかもしれない。昨夜の生き人形の殺人も、そう考えれば納得ができる。
だが、宇留井の話に多少なりとも真実が含まれているとしたら、それはそれでやっかいなことだ。悪魔の復活を手助けすることになるのだから。
だから、逃げるなら、今だ。
閏井は宇留井に対して特殊な感情を抱いている。それは友情といったものとは本質的に異なるものだ。意識の深い部分の
そうしたことから、宇留井の期待――それも閏井に対する絶対的な信頼に基づく期待――に反する行為は、肉体的な苦痛を感じるほど辛い。しかし、その感情に無条件に従ってしまうと、互いの行動に歯止めがきかなくなり、破滅的な結末まで突っ走りかねない。十代の頃に、そんな危機を何度か経験している。
むしろ僕が逃げ出すことによって彼の計画を頓挫させてしまうことが、彼のためになるのではないか、そんな気もしている。
だが、結局、閏井は動かなかった。
宇留井が行なおうとしていることが、どんな結末を迎えるのか見たかったからだ。それに、唯一の友を見捨てて逃げ出してまで、惜しい人生ではない。
――ひょっとしたら僕は、健一君が破滅するのを目撃したいのだろうか?
閏井はうとうとしながら、そう考えた。
――それもある。ホラー映画のラストシーンのように、健一君が悪魔に滅ぼされ、それを目にした自分も同じ運命を辿る。そんなことを期待しているところが、僕にはある。
だが、それ以上に〝悪魔の復活〟ということが気になっていた。不死である悪魔が復活するというのは、いったいどういうことなのか。復活の儀礼とはどんなものなのか、中世の
何より悪魔が実在するのか、それが知りたかった。
閏井はむっくり起き上がると、洗面所に行って顔を洗った。
洗面台の鏡の中には宇留井にそっくりな顔があった。彼は「馬鹿なヤツだ」とつぶやいた。
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