話を叡理のことに戻そう。

(宇留井は二杯目のブランデーを一口飲んで言った。)

 日本に戻った叡理はすっかり健康になったように見えた。もちろん、それは外見だけのことだったのだが。

 新居に移ってからは、ほぼ毎日、実験室に改修した部屋で研究に専念していた。すでにすべての資料と材料が揃ったから、後は手段を確立すればいいだけだったんだ。

 それで麻利と二人で実験室に入り、さまざまな手段を試していた。僕も時々手伝いに入ったが、彼女たちが何をしているのか、ほとんどわからなかったよ。

 叡理の症状はすっかり収まり、外出することも増えていったから、僕はてっきり彼女は回復したんだと思っていた。平穏な日々がまた戻ってくると、暢気にも信じていたんだ。

 でも、現実は逆だった。

 帰国して四年目の十一月のことだ。

 叡理は寝室で僕にこう言ったんだ。

「私は間もなく死にます」

 とね。

 そして、僕のことをまっすぐ見て、死ぬ前に打ち明けておかねばならないことがあると言うんだ。

 その時の叡理の顔は、それまで一度も見たことがないものだった。吸血鬼のように青ざめ、化け猫のように目はつり上がり、唇は血を塗ったみたいに赤かった。それでいながら、身震いをしてしまうほど美しいんだ。

 もうそれは、美人、美女といった表現を超えたもの、人がもちうる美しさではなかった。そう、肉体の束縛を離れた霊的な存在のみがもてるものだった。

 僕は事態の重要性を忘れ、いや、自分の存在すら忘れて、彼女に見とれた。

「でも、その前に」と叡理は言い、僕は我に返った。「約束してもらいたいことがあります」

 もちろん、僕は何でも約束すると言った。すると、彼女は頬笑んでうなずいた。

「では、たとえ私が死んでも、魂は永遠に一緒だと誓ってくれますね?」

「ああ、もちろんだ」

 と僕は言った。

「では、私の正体が何であっても、魂は永遠に一緒だと誓ってくれますね?」

「ああ、もちろんだ」

 と僕は言ったよ。

 すると、彼女はにやっと笑った。そして、こうつぶやいたんだ。

「その誓いは何度聞いてもいいものだ!」

 僕が「え?」と問い返すと、叡理は美しくも邪悪な笑みを浮かべて、こう叫んだんだ。

「あなたは、その誓いを、今までに何度やったか覚えてる?」

「何を言ってるんだい? 今日が初めてだよ」

 そう言い終わらないうちに、先ほどの誓いを言っている僕の姿が視界いっぱいに現われ、それが合わせ鏡の影像みたいに無数に重なっていくのが見えた。それらはすべて僕自身であり、僕ではなかった。

 叡理は動揺する僕を頬笑んで見ていたのだが、おもむろに話し始めた。

「改めて契約も成立したので、私の秘密についてお話しすることにします。しっかり聞いてください」

 不思議なことに、そう話す叡理は、昔の、元気だった頃の彼女の顔に戻っていた。

「まず、今日まであなたのことを騙してきたことを謝らなければなりません。――私は人間ではないのです」

 この告白に僕は驚かなかった。冗談とも思わなかった。そうなんじゃないかと、前から薄々考えていたからだ。

「私は、あなたたちの言葉で言うところの悪魔なのです」

「悪魔?」

 さすがにその言葉には驚いたよ。天使とか女神とか言うものだと思っていたからね。

「そうです。魔物なのです。――ですが、訳あって人間の肉体に閉じ込められているのです。そのため、悪魔としての記憶を失い、人間を超えた能力を使うこともできないのです」

 僕は黙ってうなずいた。

「私はこの肉体のかせから開放され、記憶を取り戻す方法を、ずっと研究してきました。そして、その方法をほぼ明らかにし、実行に移すことができるようになったのです。その準備は、すでに最終段階に入っています。私は悪魔として復活するために、肉体を脱ぎ棄てねばなりません。つまり、人として死ぬのです」

 僕はその言葉にぎくりとして聞き返した。

「死ぬ? 悪魔なのに死ななければいけないのかい? 悪魔は不死ではないのかい?」

「ええ、死ぬんですよ」彼女は優しく頬笑んでうなずいた。「そうしなければ、真の姿に戻れませんから。――でも、ただ死ねばいいわけではないのです。ただ死んだだけでは、また別の肉体に閉じ込められて生まれ変わることになります。それでは何の意味もないのです。肉体の呪縛を解いて、悪魔として復活するための死に方をしなければならないのです。私の長年の研究は、その方法を解き明かすためのものだったのです」

「そうだったのか……。いや、話が僕の理解できる範囲を超えていて、どう受け止めればいいのか、わからないよ」

 僕がそう弱音を吐くと、叡理は僕の頬をそっと撫でてくれた。

「無理もありませんわ。あなたの前では、ごく普通の人間として振る舞ってきましたから。でも、私はあなたを愚弄ぐろうするために、あなたを騙していたわけではありません。あなたに愛されなければならないので、正体を偽っていたのです」

 その時、僕はふと気づいて言った。

「君は僕を犠牲サクリファイスにするつもりなのかい? ――いや、それが嫌だというのではないんだ。むしろ、喜んで身を投げ出そう。ただ、そうならそうと――」

「あなたを犠牲サクリファイスに。――ある意味ではそうです。でも、アブラハムがイサクを神に捧げようとしたものとは違います」

 そこで彼女は言葉を切り、僕の頬から手を放して、僕を見下ろした。

「先ほども言いましたが、私は間もなく死にます。死んだ後のことは、あなたと麻利に託します。復活の準備を完了させてください。死んだ後の私は何もできませんから、あなた方が頼りです。あなたは、残りの人生をなげうって、私を復活させるのです。それが、あなたの犠牲サクリファイスです」

「もし」僕は彼女に尋ねた。「復活に失敗したら?」

「その時は、別の人間として、どこかの時代に転生することになります」

 それを聞くと僕は急に不安になった。

「そんな大役を僕が果たせるだろうか? もちろん、君のためなら何でもするが、君を危険にさらすのは気が進まないよ。一度死ぬだなんて……。別の方法はないのかい?」

「肉体の頸木から抜け出すには死ぬ必要があるんです。でも、大丈夫。麻利がすべて心得ていますから。そのために、彼女を連れてヨーロッパをめぐり、研究の手助けをさせてきたのです。麻利の指示に従ってやっていただければ、失敗はありません。あなたさえ、力を貸してくだされば、成功するのは確実なんです。麻利は手はずは心得ていますが、彼女の力だけでは復活は成し遂げられないのです。私を愛したあなたでないと、駄目なんです」

 僕は「わかった」と言った。ほかにどんな返事ができただろう?

 それからの僕の日々は、絞首台への道になった。

 たとえ復活のためとはいえ、叡理が死ぬ日に向かって準備をしなければならないのだからね。僕は運命を呪ったよ。叡理のことも少しね。――わかるかい、そんな気持ちが?

(閏井は肩をすくめ、宇留井に「じゃあ、君は、叡理さんが悪魔だという告白を本気で信じたのかい?」と尋ねた。)

 ――もちろんさ。なぜ疑わなければいけない?

 僕は三十六歳で彼女と結婚し、それから十四年間一緒に暮らしてきたんだ。彼女がことくらい気づくさ。

 どんなに困難な状況でも彼女の望んだように事は運ぶし、彼女を怒らせた者はことごとく悲惨な死を迎えた。誰だっておかしいと思うはずなのに、誰もそれに気づかない。

 それに、出会った頃から姿がほとんど変わらないんだぜ。こっちは美少年崩れから、むさ苦しいじじいへと落ちぶれていくのに、少しも容色が衰えないんだから嫌になっちまうよ。まあ、帰国してからは、少しは老けて見えるよう気をつけていたようだがね。

 ――そう、だから、叡理が悪魔だということは、すんなり理解できた。

 ――うん、そうだよ。君は悪魔の復活に立ち会うことになるんだよ。今から心しておいてくれたまえよ。

 これは、僕のドッペルゲンガーである君の、権利であり義務でもあるんだ。そもそもの始まりには、君自身も関わっていたんだからね。

 ほら、覚えているだろう、小学三年の春、下校の時だよ。僕らは叡理と会っただろう?

 ――うん、そうだよ。やっぱり、君も覚えていたか。

 実は、あれがすべての始まりだったのだよ。


 話が長くなってしまった。君も疲れただろうから、その後のことは簡潔に話すことにするよ。

 悪魔であることの告白後、叡理の病状は急速に悪化していった。――悪化させた、と言うべきなのかもしれないがね。

 当然のことながら、彼女は治療を拒否し、延命処置も一切受けつけなかった。

 彼女には緩和ケアなど無駄だし無意味だとわかっていたが、それだけは受けるよう説得した。それくらいのことはしないと、僕の方がもたなかったからだ。

 叡理は頬笑んで僕の望むようにすると言ってくれたよ。――悪魔である彼女には、懊悩おうのうする僕のことが、さぞ愉快だったろうね。そうとわかっていながら、僕は彼女を心配し、悲しむことをやめられなかった。

 叡理は毎夜、僕と麻利を枕元に呼び寄せて、これから何をすべきか、一つ一つ教えていった。彼女が死ぬまでに何を揃えておくべきか、どんな知識と技術を習得しておくべきか、彼女の葬儀と埋葬はどのようにすべきか、そして、彼女の復活のための準備について。その手順、舞台の設え、呪具の数々、供物……。

「イエスは一日で復活したが、悪魔である私の復活には十年の歳月が必要なのです」

 と彼女は言った。そんなにかかるのかと、僕が驚いていると、

「一日も十年も私には変わらないことなのだけれど、あなたには長い日々でしょうね」

 と言って彼女は頬笑んだ。

 最近になって気づいたのだけれど、十年という歳月は、僕が――いや、〝が〟と言うべきだな――十分老いるのに必要な時間だったんだね。美少年の残滓すら干涸らび剥がれ落ち、それを否応もなく自覚させられる時間だよ。

 彼女自身も言っているように、叡理にとっては一日であっても一年であっても変わりない――つまり、その気さえあれば、一日で復活することだってできたはずなのだからね。

 ――なぜ? なぜ叡理がそんな嫌がらせのようなことをしたかって?

 それは、彼女が悪魔だからさ。愚か者の絶望は蜜の味なんだろうよ。

 ――そうとわかっていながら、なぜ彼女の言う通りにするのか、かい? やけに質問が多くなったね。

 彼女のことを愛しているからに決まっているだろう? それに僕は彼女に誓いを立ててしまったからね。

 彼女の正体が何であっても、魂は永遠に一緒だとね。彼女の言うがままになるしかないじゃないか。それに、悪魔の復活とやらを見たいじゃないか。

 さて、叡理の闘病と僕の看護の日々については、退屈だろうから端折はしょるよ。僕の愛と涙の日々も、他人から見れば安っぽいメロドラマだろうからね。

 ただ一つだけは話しておかなければいけないことがある。それは、あの生き人形のことだ。

 叡理の死の三月ほど前のことだ。

 叡理は僕と麻利に、自分の等身大の生き人形を二体注文してあることを明かした。

 依頼したのは、江戸時代以来の伝統技法の秘術に精通している上に、最新の素材も自在に扱えるという天才的職人だと、叡理は言った。かなりの変人らしく、美術団体や工芸家の組合などいには所属しておらず、その存在を知っているのは、ごく限られた好事家だけという。

 気が向かなければ絶対に制作はせず、外国のコレクターから桁外れの金額を提示されることもよくあるそうだが、引き受けることはまずないそうだ。――まあ、叡理の注文を断わるなんて、ありえないことだがね。

 この生き人形は、彼女の葬儀と復活の儀礼で重要な役割を果たすことになったんだが、それについては後で話そう。


 死までふた月前を切った頃から、叡理は次第にやつれていった。

 普通、やつれるというとミイラのように醜くなるものだが、叡理の場合、不純なものが削げ落ちていく感じで、日ごとに美しくなっていくんだ。それを見ていて僕は、悪魔も天使だったということを、初めて納得したよ。

 そんな彼女を見ていたら、もう何かもどうでもいい気になってなってしまって、ただ彼女だけを見つめていたいと思った。だが、僕も社会人の端くれなので、妻が死に瀕しているとなると、やらねばならないことがいろいろあった。

 そう、叡理の実家などへの連絡だよ。

 叡理の両親はまだ健在だったから、叡理の病状を知らせ、臨終前に対面させてあげなくてはいかない。それに葬儀の相談もあった。

 最初に話したように、叡理の実家は聖母しょうも神社で、本来なら彼女はその宮司職を嗣いでいるべき存在だ。葬儀の仕方についても意見があるはずだ。

 いや、できれば、彼女が計画していた葬儀とは別に、聖母神社で神葬祭できないか、とさえ僕は思っていたんだ。――悪魔としての彼女にしてみれば、余計なお世話なのだろうけれどね。

 それで、叡理の世話を麻利にまかせて、僕は西海市の**村に向かった。ところが――。

 聖母神社があった場所は、イトスギが密生した森になっているんだ。

 叡理が病気になってからは無沙汰をしていたが、それまでは年に二、三度は叡理の里帰りにつきあって訪れていた。その頃は叡理と結婚した頃と何も変わっていなかったのに、足が遠のいた数年の間に建物が跡形もなくなって森になってしまうなんて、とても考えられないことだ。違う村に来てしまったかと、地図アプリで確認してしまったよ。。

 おまけに地元の人々は、聖母神社なんて知らないし、蘆屋という姓の者はこの地域にはいないなんて言うんだ。まるで浦島太郎になった気分だったよ。

 ひょっとしたら洪水などの災害で村が壊滅して、住人が入れ替わったのではないかと思い、ネットで検索してみたんだが、やっぱり**村の聖母神社についての情報は一つもアップされていないんだ。検索ワードをいろいろ変えてみたが駄目だった。それどころか、さらに恐ろしいことに気づいてしまったんだ。

 聖母神社に関する僕の論文が、すべてネット上から消え去っていたんだ。学界のデータベースにも、大学図書館の蔵書データからもなくなっていた。

 ――うん、そうなんだ。

 聖母神社も聖母神社の神職たち――つまり、叡理の家族――も、それについて書いた論文もみんな消えてしまった。……用済みになったからだよ。

 実に悪魔らしい見事な手際だと思わないか?

 それなのに、僕はそのことを叡理に問いただすことができなかったんだ。おかしな話だろう? 悪魔である彼女の仕業に違いないのに、家族や神社がなくなったと知ったら彼女が悲しむかもしれないという思いを、どうしても抱かずにはいられなかったんだ。


 あれは、彼女の死のちょうど五十日前のことだ。

 朝、食事の席で――叡理はミルク粥のようなものしか食べなくなっていたが、三度の食事の席には必ず着いていたんだ――、「今日は人形師が来ます」と言った。叡理の生き人形を作るために、彼女の採寸をするというんだ。

 僕にはその意図がまったく理解できなかった。彼女に残された時間はごくわずかなんだ。それをそんなことに費やすなんて、まったく愚かしいこととしか思えなかった。

 しかし、叡理は、生き人形は復活の儀礼を完遂するために是非とも必要だというんだ。

 僕は納得できなかった。西洋魔術を基礎に綿密に練り上げられていた復活の儀礼に、生き人形といったものが必要だとは思えなかったからだ。

 すると、彼女は思わせぶりな笑みを浮かべ、「必要性は、今にわかる」と言ったんだ。そう、生き人形には実に驚くべき実用性があったんだ。

 訪れてきた人形師は、老人のようでもあり、若者のようでもある不思議な男だった。

 玄関に立ったその姿は、老いさらばえた病人のようだった。歩くことすらおぼつかなく、生き人形を作るどころか、叡理より先に死んでしまうのではないかと思ってしまうほどだった。

 ところが、応接間に入り仕事道具を広げたとたん、動きがまったく変わった。絨毯の上を滑るように歩いて布製のメジャーを広げたところは、まるでバレーダンサーのようであったし、ディバイダーを使って叡理の目や口の大きさを測るところは、サーブをしようと構える卓球選手を思わせた。

 彼は黒い鞄から医療器具めいた計測具を次々と取り出し、一瞬も休むことなく叡理の体中を測っていった。採寸は三時間に及んだが、少しの疲れもみせなかった。

 むしろ心配されたのは叡理の方だった。最初は椅子に座った格好で、後半はベッドに横になって採寸を受けたのだが、長時間に及んだこともあって、一気に具合が悪くなってしまった。

 おろおろする僕を尻目に人形師は仕事道具を鞄に仕舞い、

「では、一か月半後に人形をお持ちします。ご期待以上のものをお持ちしましょう!」

と言うと、老いさらばえた体を引き摺るようにして出ていった。

 人形師が帰ると、叡理は元気を少し取り戻し、ベッドで上半身を起こすと、ワインが飲みたいと言った。

 この時から彼女は赤ワインしか口にしなくなったんだが、彼女はその一杯のワインをゆっくりと飲み干すと、にっこりと笑ってこう言った。

「これで死の準備はおおよそ整いました。後は人形が届くのを待つばかり。私が死んだ後は、その一体を私だと思って、今と同じように仕え、復活の準備を進めてください」

「その一体? 人形は一体じゃないのかい?」

「二体よ。一体はあなたのため。もう一体は葬儀に使うのよ。だから、私が生きているうちにできないといけないの」

 その意味を僕が本当に理解したのは、まさに葬儀当日のことだったんだよ。

 そして、一か月半後、人形師は二人の弟子を連れて車で再びやって来た。前回は一人でやって来たのに今回は弟子を連れてきたのは、もちろん人形を運んでくるためだ。

 人形は棺桶ほどの丈夫な段ボール箱に入れられていた。弟子たちはそれを応接間の中央に並べて置き、厳かに蓋を取った。

「噂に違わぬ見事な腕だ」

 車椅子に座ったまま人形の出来を確認した叡理は、そう言って人形師を讃えた。それは確かに名工の作と言ってよかった。

 人形師が採寸した時、叡理はまだ元気で、見た目は健康な時と変わらぬ美しさを保っていた。ところが出来てきた人形は、病み衰えた今の叡理――正確に言えば、数日後に訪れる死の時の叡理――にそっくりなのだ。

「こ、これは……」

 私が絶句していると、叡理はぞっとするような笑みを浮かべて、こう言った。

「そう、これは私の死体。一つは、私の死後もあなたと共に暮らしていくもの。もう一つは、私の代わりに火葬にされるもの。――私は悪魔だから火の中に投げ込まれるのは、むしろ嬉しいくらいなのだけれど、復活のためにはこの肉体を残しておかないといけないから」

「で、でも、そんなことをしたら……」

 僕が不安を口にすると、叡理は嬉しそうに頬笑んだ。

「大丈夫よ、ちゃんといろいろ考えて処置してあるから。この人形は火葬すると、本当の死体と同じように焼けて、遺骨を残すの。その技術を見込んで、あの人形師に頼んだのよ。――ああ、それと、私のこの肉体も、私が死んでも腐ったりしないわ。もし、それを心配しているのなら、安心して。薬剤と呪文によって、死んだ時の状態を十年間保つようにしてあるから。ただし、きっかり十年よ。それを一時間でも過ぎたら灰になってしまうわ」

 「そんな馬鹿な」と僕は心の中で思った。死体と同じように焼けて遺骨を残す人形なんてありえないと思ったのだ。もちろん、そんなことは口にしなかったし、表情にも出さなかったつもりだ。――それでも彼女は僕の心を見透かして、憐れみの笑みを浮かべていたがね……

 僕は最後まで信じられぬまま、彼女の言う通りにした。ほかに選択肢はないからね。

 彼女の最期を看取った医者が死亡診断書を書いて帰ると、葬儀社の者が来るまでの時間を使って遺体を生き人形と入れ替えた。人形をベッドに横たえ、遺体は実験室の中に隠した。

 葬儀社の者は偽の遺体を見ても少しも疑う様子をみせなかったが、どうせ火葬にしたらバレてしまうだろうと観念していた。ひょっとしたら警察沙汰になるかもしれないが、しらを切り通そうと心に誓っていた。だが、そんな心配は無用だった。

 本当にその生き人形は、遺骨を残して焼けたんだよ。死体とまったく同じようにね。まったく驚いた技術だよ。叡理が信頼したのも、もっともだと思ったよ。

 ――ああ、また話が先走ってしまった。叡理の最期の時に話を戻そう。

 生き人形の発注後、叡理の病状はさらに悪化していった。

 それまでは短い距離なら自分の足で歩けていたのが、屋敷の中が精一杯になり、やがて室内でも車椅子が必要になった。

 さまざな痛みも叡理をさいなんだ。彼女が車椅子の上やベッドの上で微かなうめき声をあげるたび、僕は自分の胸をむしられているように思ったものだ。いや、本当にそうであったら、彼女と共に苦しむことができるのに、そんなことを毎日のように考えたよ。

 ――ああ、そうだよ。彼女は悪魔なんだから、病に苦しむ必要なんて少しもなかったのだろう。さっさと肉体から抜け出して、地の底か雲の上かそんなところから、こちらがちゃんと復活の儀式の準備をしているのか見張っていればよかったんだ。

 それをわざわざそんな死の苦しみを見せたのは、僕や麻利を苦しめるため以外に理由はないさ。僕らの心に傷をつけて、彼女との約束により強く縛りつけるためだったんだよ、きっと。

 そうとわかっていながら、なぜ彼女の言いなりになるのだ、と聞きたいのだろう? 遠慮せずに何でも言いたまえ。君と僕の仲――互いが互いのドッペルゲンガーという仲――じゃないか。でも、その返答も想像がついているのだろう?

 そう、僕は自ら望んで叡理に呪縛されているのだ。彼女にもてあそばれるのが嬉しくてたまらないのだよ。まさに倒錯の極みだね。

 だが、自分の妄執に僕を巻き込むな、なんて言わないでくれたまえよ。君もうの昔から巻き込まれているのだからね。そう、小学三年の、あの時からね……


 死の前日――叡理の死亡日時はあらかじめ予告されていた――、叡理は強い発作を起こした。

 駆けつけた主治医は儀礼的に強心剤を注射すると、呼び寄せるべき肉親がいるのならすぐに連絡するように、と言った。そして、次に発作の兆候をみせたら、何時でもいいから電話をするように、と言い添えた。

 医者には彼の数年分の年収にあたる金額を専属医契約料として払っていたので、夜中でも駆けつけるくらいのことはやるのが当たり前なんだが、僕は恐縮してみせたよ。

 彼女の死は翌日の午後三時とわかっていたから、この人がいいことだけが取り柄の医者を、深夜に叩き起こす必要がないのはわかっていたのだけれどね。

 そして、その日。

 僕は叡理が最後の言葉のようなものを残すのではないかと思って――期待して、と言うべきかもしれないな――、ベッドの脇に控えていたのだけれど、彼女は気だるい表情で宙を見つめるばかりで、一言も言葉を発しなかった。

 午後には麻利も枕元に控えたが、叡理の様子に変わりはなく、やはり何も話さなかった。

 発作が起き始めたのは二時五分前だった。僕は躊躇ためらうことなく主治医に電話をした。医者は十五分ほどでやってきた。

 その時が発作のピークだった。医者が叡理の脈をとり、瞳孔を見、血圧と酸素飽和度を測るうちに発作は治まり、穏やかに眠ったように見えた。しんとした病室に叡理の呼吸音だけが低く響いた。

 叡理の様子をじっと見ていた医者は、取り出しかけた注射器を鞄に戻し、僕たちにこう言った。

「今のうちにお別れを……」

 僕と麻利は一瞬見つめ合ったが、麻利がすっと身を引いたので、僕が先に叡理の枕元に立った。

 近くで彼女の顔を見ようと身をかがめた時のことだった。叡理がぱっと目を開いて僕を見返した。それは病人の目つきではなく、獲物を狙う怜悧な猛獣ような目だった。たじろいだ僕は言葉も出せなかった。

 その様子は最愛の人の死を目前にして言葉をなくしたように見えたのだろう、医者と看護婦が視線をそっとはずしたのが視界の端に見えた。

 叡理はしばらくの間僕のことを睨んでいたが、不意に瞼をすっと閉じた。ようやく動けるようになった僕は、ベッドサイドから離れた。

 いったいどのくらいの時間、叡理と見つめ合っていたのかわからない。五分ほどであったようにも思えるが、一時間以上であったような気もする。それゆえ正確な比較はできないのだが、麻利が叡理と向き合っていた時間は、それより短かったようだ。ただ、僕に対してはやらなかったことを、麻利には行なった。

 叡理は麻利に話しかけたのだ。血の気を失って大理石の彫刻のようになったその唇からは声が出ることはなかったが、たしかに話すように口を動かして何かを伝えていた。それを見取った麻利も、声を出さずに返事をしていた。

 彼女たちが何を話したのか、ひどく気になった。麻利の肩に両手をかけて問いただしたいほどだった。けれど、僕は素知らぬふりをした。ほんの数分のことだったが、辛い時間だった。

 それから三十分ほどで叡理は死んだ。

 発作のようなものはなく、苦しむ様子もなく、僕らの方を一瞥するでもなく、眠ったまま静かに息がやみ、心臓が止まった。

 実に呆気あっけないものだった。

 拍子抜けして、その場に座り込んでしまった。それまでのことがまったくの茶番に思えた。

 僕はこれまで何をしていたんだ、と自分をなじりたい気分だった。

 叡理の遺体も、生き人形も、復活の舞台として購入した修道院の廃墟も、これまでの研究成果も、みんな投げ捨ててしまいたくなった。

 そのまま屋敷を飛び出していたら、君とこうして再会することもなかっただろうな……。そう、君もこんな地の果てまで来なくてもよかったわけだ……。

 気持ちが変わったのは、その日の深夜のことだった。

 僕が茫然としている間に麻利が葬儀社の手配や医者への支払い、死亡に関わる各種の手続きをすませてくれていてね、気がついたら、翌朝早くに来る霊柩車を待つばかりになっていた。

 僕は立ち上がると麻利に言った。

「さあ、遺体を生き人形と入れ替えよう」

 そして、叡理が書いた筋書き通り事は運んだというわけだよ。

 その後のこと、焼き場でのことなどは、さっきも話したから、もういいだろう。

 偽の「遺骨」を持って帰宅した僕と麻利は、翌日、レンタルした大型のワゴン車を交替で運転をして、叡理の本当の遺体と生き人形をここ――修道院の廃墟――まで運んだ。運送業者に頼むわけにいかないからね。

 そのまま僕はこちらに残り、麻利はそれまで住んでいた家の整理のため帰っていった。

 僕がこちらに残ったのは、修道院の再建に取りかかるためだよ。ここを購入した時から再建することは決まっていたから、寝泊まりできるようプレハブの作業小屋を建てておいたんだよ。

 もっとも最初の晩は、叡理と生き人形と共に聖堂のサンクチュアリに泊まったんだがね。

 ……あの夜ほど恐ろしい思いをしたことはないよ。とくに何があったわけではないのだけど。

 ああ、そうそう。ここに来て、生き人形のもう一つの秘密を知ったよ。

 動くんだよ、時々ね。

 月に一度あるかないか、くらいなんだが。歩き回るんだ、この館の中をね。時には侵入者を襲ったりすることもあってね。

 いるんだよ、時折。ほら、今朝もあっただろ、屋敷の様子を窺いに来たのが。金目のものがあるだろうって、不法侵入してくる奴らもいてね、そんな連中を襲うんだよ。

 ――君は襲われないよ。だって、君は僕のドッペルゲンガーだからね。

 生き人形がなぜ動くのか、僕にはよくわからない。叡理の霊が乗り移っているのか、人形そのものにそんな力が備わっているのか、まったくの謎だが、無闇に暴れるわけじゃない。僕や麻利には決して危害を加えない。君に対してもそうだ。君は叡理にとっても重要なゲストだからね。

 ――え? 言わなかったかい? 君を招待することが、復活の儀礼を執行する上で不可欠の条件の一つだってことを。

 君と再会するのを、とても楽しみにしていたよ。

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