君だけが僕のことを理解できる、と小学生の頃から思っていたんだ。

(と宇留井は語り始めた。)

 天使みたいに綺麗な子どもね、人形みたい、などと会う人ごとに言われ、鏡を見れば少年でも少女でもない、見かけだけはうっとりとしてしまうほど美しい顔がある。そんな毎日を生きねばならない気持ちがわかるのは、僕の似姿にすがた――中二の時の担任の言葉を使えば、〝僕のウィリアム・ウィルソン〟――である君だけだと思っていた。

 けれど、その君にも秘密にしていたことがあるんだ。

 小学六年生になる春のことだ。僕は父方の祖父母の家で一週間を過ごすことになったんだ。ちょうど春休みと重なっていたから、君は覚えていないだろうが――

(いや、覚えているさ、と閏井は思った。君が二度と帰ってこなかったら、僕はどうなるのだろうと不安にかられて、何度も家の近くまで様子をうかがいに行ったんだぜ)

 祖父母の家は明治時代豪商が接待用に建てたという和洋折衷の邸宅で、使っていない部屋がいくつもあったから、君も一緒に滞在できたのにとよく思ったよ。あそこなら二人だけの秘密の時間は、いくらでも作れたからね。

 でも、そうしていたら、僕の運命は大きく変わっていただろう。叡理と出会うこともなかっただろうし、こんな地の果ての修道院に住むなんて考えもしなかったはずだ。

 祖父はとある製薬会社の二代目社長で――僕が物心ついた頃には会長になっていたが――、一期だけだが国会議員も務めたという人でね、孫の僕を溺愛してくれたんだが、子どもとの遊び方をまるで知らないんだ。

 だから、滞在は楽しいのだけど、ひどく退屈でもあってね。仕方がないから、家の内外をいろいろ探検した。新館、旧館、別館と三棟の建物があって部屋数も多く庭も広かったから、探検するところはいくらでもあった。

 とくに面白かったのが蔵だった。薬種問屋の別邸だったところだから、立派な蔵が五つもあってね。どれも老朽化していて、漆喰なんか半分以上崩れ落ちているんだが、そこがまた冒険心を誘うんだな。

 祖父母には、「危ないから近寄っちゃいかん」と言われていたよ。「ガラクタばかり押し込んであるだけだから、入っても面白いことなんか一つもない」ともね。

 でも、そんな風に言われると、余計に入りたくなるじゃないか。

 蔵の扉には南京錠がつけられていたけれど、ほぼ廃屋だから、子どもが潜り込めるくらいの隙間はあちこちにあった。まあ、僕としても閉じ込められたり、梁の下敷きになったりするのは御免だから、本当に危ない場所――大きく傾いた三つ目の蔵とか――には入らなかったけれどね。

 たしかに、蔵の中はガラクタばかりだった。湿気で塗りが浮き上がってしまっている漆器や鼠の糞だらけの磁器が、無雑作に詰め込まれた茶箪笥だとか、半ば塵になりかけている大量の大福帳、錆びついたミシンやアイロン、節供人形が入っているらしい木箱も数え切れないほどあった。新聞や雑誌が山積みになっているかと思えば、何に使ったのかわからない機械が並べてあったりもした。ある箱を開けたら能面がぎっしり入っていて驚いたこともあったよ。

 そんな中で僕の目を惹いたのが、絵が描かれた一枚の板だった。

 最初は羽子板かと思ったんだが、それには薄いし、柄もついていない。なんだろうと思って、その辺に落ちていた布きれで表面を拭ってみた。

 そうしたら、美しい金髪の女性像が現われたんだ。

 その女性は白い簡素な服を着て、手を組みひざまずいて祈っているようだった。不思議なのは、その左右にライオンと蛇が控えていることだった。

 僕はすっかりその絵の女性に魅了されてしまってね、きっとその正体を明らかにすると誓ったんだ。

 それが聖テクラを描いたイコンだということは、中学二年の時にわかった。しかし、なんで東方教会のものらしいイコンが祖父母の家の蔵にあったのかは、いまだにわからないままだ。

 でも、このことがきっかけで僕は宗教史を志すことになったんだよ。

 このイコンに関しては不思議なことがもう一つあってね。イコンは書斎に飾ってあるので後で見せるが、その顔が叡理にそっくりなんだ。しかも、おかしなことに、そのことに気づいたのは叡理と結婚した後のことで、それも叡理に言われてようやくわかったんだよ。

(話を聞きながら閏井は、宇留井が高校生の時に描いた女性像のことを思い出したが、あえて口に出さなかった。)

 そして僕は、T**大学文学部に入り、宗教史を専攻することになった。研究テーマをキリスト教ではなく日本のキリシタンに絞ったのは、聖テクラそのものではなく、あのイコンが日本に伝来したいきさつが知りたかったからだ。

 そして、イコンの伝来ルートを調べるうちに、面白い発見があった。キリシタン研究の専門家の間でもほとんど知られていないことなのだが、九州の一部地域ではキリスト教が在来信仰と習合して、民俗信仰化しているんだ。

 僕はよく空想するんだ、もし禁教となっていなかったら、キリスト教も祇園信仰のようになっていたんじゃないかとね。

 京都の祇園社ぎおんしゃ――八坂神社――と尾張の津島神社を中心として全国に広まった祇園信仰は、今では素盞嗚尊すさのおのみことを祀るものとなっているが、もともとは牛頭天王ごずてんのうという出自が朝鮮半島とも中国ともインドともしれない謎の疫病神を祭り上げ、境界の外へ送り出すものだ。

 この牛頭天王、近世までは神社で祀られるだけではなく、路傍に小祠や石像を建てて祀られるほど、ごくありふれた信仰だった。イエス・キリストもね、そんな神の一つになっていたんじゃないかと思うんだ。

 路傍のイエス様の石像を削って、その粉を唾で練って目に塗ると眼病に効くとか、泥団子を供えるとおできが治るとか、そんな神様になったのではないかと空想するのだよ。

 だが、豊臣政権と江戸幕府の徹底したキリシタン弾圧の結果、そうした信仰の芽はことごとく摘み取られてしまった。ただ一つの例外を残して。

 その例外を知ったのは、大学院の修士課程の時だった。

 修士論文のために長崎でフィールドワークをしている時に、たまたまイエスを祀る神社があるという話を聞いたんだ。

 最初は青森にあるイエスの墓みたいなものかと思ったよ。まあ、あれはあれで興味深い研究対象ではあるんだが、僕がテーマとする「日本に残存したキリシタン信仰」とは区別すべきものだ。

 で、聞き捨てていたんだが、同じ話を何度も聞かされるうちに、そんなに皆が言うのなら確かめてやろうじゃないか、という気になったんだ。どうせ戦前の国粋主義的神秘思想家あたりがでっち上げた〝伝説〟なんだろうと思いつつね。

 いざ探してみると情報が錯綜していてなかなか特定できなかったのだが、現地に入って聞き込みを重ねるうちに、ようやくたどり着くことができた。それが長崎県西海市**村の聖母しょうも神社だ。

 ちなみに「聖母神社」という名の神社は北部九州には数社存在している。

 それらの神社でいう「聖母」とは、イエス・キリストの母親の聖母マリアのことではなく、仲哀天皇の皇后で新羅遠征を成し遂げたと『古事記』『日本書紀』が語る神功じんぐう皇后のことをいう。

 ところが、問題の聖母神社の主祭神は、神功皇后ではなく天宇須大神あまのうすのおおかみの母神である天之麻利神あめのまりのかみだというんだ。「天宇須」はキリシタンたちが「デウス」の漢字表記に使っていたもので、神道風に読み替えてはいるけれど、これがイエス・キリストであることは、容易に想像できる。

 **村の聖母神社は相殿の神として救世くせ大神を祀っているのだが、これは天之御中主神あめのみなかぬしのかみと天宇須大神、それに天津御魂神あまつみたまのかみのことだという。まさに三位一体で、あまりにできすぎじゃないか。これはいよいよ〝作られた伝統〟に違いないと思ったのだけど、念のため、当の神社を直接調べることにしたんだ。

 連絡を入れてみると、宮司は快く調査を受け入れてくれた。訪問する時には主要な文献を出しておくとまで言ってくれた。

 その際に聞いた話では、天宇須大神は高天原から欧州に天降り、長らくその地に鎮座していたんだが、神の加護によって国が豊かになるにつれて人々の心が荒々しくなり、信仰心を失ってしまった。これに嫌気を差した神は大きな船を造って海に出た。東を目指して航海するうちに、遠征から戻る途上の、神功皇后の船団と出会い、共に日本に渡ることになったのだそうだ。

 宮司の蘆屋泰造は面白い人でね、そうした神社の由緒を厳かに語った後に、「神功皇后の御代まで遡れる伝承とは、到底思えませんがな」と言うんだよ。面識もない一介の学生に、そんな風にあからさまに自分の神社の由緒を批判する人は珍しいよ。まあ、彼に言わせると、電話の受け答えで真面目な研究者とわかったそうなんだがね。

 で、神功皇后の時代まで遡れないのなら、いつ頃成立した伝承なのか、と尋ねてみたんだ。すると、宣教師たちが伝えたキリスト教の教えが民衆に広まった十七世紀の初めに原形ができたのだろうと言うんだ。そして、十七世紀末の起請文きしょうもんに記されているものが、もっとも古い記録だとも。

 どうだい? そそられる話だろ? これが由緒書きだの、系図だのということだったら、偽作をまず疑うんだが、起請文というのがね、いかにも本当らしいじゃないか。

 それで、僕はなにはともあれ訪問して、そうした資料などを拝見させてもらうことにしたんだ。宮司の人柄も気になっていたしね。

 向こうはいつでもいいと言うので、三日後に伺うことにした。

 ――ああ、すまない。

 この調子で話していたら、一晩かけても肝腎なところまでいかないな。少し端折ろう。

 結論から言うと、古文書は本物だった。起請文のほか、縁起絵巻や大名などからの書簡などを見せてもらったんだが、いずれも後世の偽造などではない本物だった。もちろん僕だけでは判断は難しいので、大学の中近世文書の専門家にも鑑定してもらった。文書の内容、言葉遣い、筆跡、紙質、いずれの面からいっても間違いがないそうだ。

 これを知った僕は、研究方針を大幅に変えることにした。

 聖母神社を研究の中心に据えて、どうしてそんな信仰が成立したのか探求することにしたんだ。そして、その手始めとして、聖母神社が所蔵している古文書類を徹底的に調べることにした。

 聖母神社を訪れて驚いたことが、二つある。

 一つは、神社の規模の大きさだ。

 長崎市からも佐世保からも不便なところで、しかも少し山に入った場所なので、てっきり小さな神社だと思っていたら、楼門や回廊を備えた立派な神社なんだ。旧社格は村社なんだがね、国幣中社こくへいちゅうしゃだったとしても不思議じゃないほどだよ。

 しかも、どの建物も管理が行き届いているんだ。これは、裕福な崇敬者が多数いなければ不可能なことだよ。

 もう一つは、宮司の娘がとてつもない美人だったことだ。巫女装束を身に纏った彼女を見た瞬間、僕は神話かファンタジーの世界に迷い込んだのかと思ったよ。

 さらに驚いたことに、彼女は語学の天才だったんだ。当時まだ十六歳だったにもかかわらず、独学でラテン語、中世英語、ドイツ語、イタリア語、フランス語、スペイン語、サンスクリット語を自在に読み書きできた。それだけではなく古文献の読解にも長けていてね、僕なんかよりすらすら解読してしまうんだ。

 聖母神社の古文書類を扱う際には、かならず彼女がサポートしてくれたんだが、その適切な助言には毎度感心させられた。

 予備調査を終える頃には大学の中近世文書の専門家の協力を受けることをやめ、彼女を共同研究者とすることを決めていた。

 その宮司の娘が、つまり、叡理だったんだが……

 叡理の協力のおかげで――いや、叡理の導きのおかげで、と言った方が正確だろう――、聖母神社の特異な信仰の歴史が明らかになっていった。

 宮司が言っていたように、始まりは宣教師たちが広めたキリスト教の信仰であったようだ。と言っても、当時の神職が信者になったというのではなく、信者や教えを聞きに行っていた者たちの間から「南蛮人はイエス・キリストというありがたい神様を祀っている」という噂が周辺地域に広まったというようなものだ。

 そう、イエス・キリストを信心したら目が見えるようになったとか、悪霊が落ちたとか、死人が生き返ったとか、そんな話だよ。原罪とか最後の審判とかはなかなか理解できないが、病気が治ったといった霊験譚はすぐに共有され、既存の信仰に組み込まれていく。祇園信仰のようにね。

 それほどありがたい神様なら、わしらの集落でも祀ろうか、そういうことだね。キリスト教の普及の早さを考えると、大名たちの政治的都合ばかりではなく、流行神はやりがみとしての面も考えるべきだと思うよ。

 まあ、その浸透の早さが秀吉や家康の懸念を招いたわけだが。だが、天下人の態度が一変しただけで急速に信仰が衰退してしまったのも、流行神だったことを裏書きしているように思える。

 君もよく知っているように、流行神は一夜にして門前に市が立つほど人気を集めるが、忘れられるのも早く、跡形もなく消え去ってしまうことも少なくない。けれど、キリスト教はそうはならなかった。すでに土着化が始まっていたからだ。

 隠れキリシタン、あるいは潜伏キリシタンと呼ばれるもののことではないよ。西洋のものに比べるとだいぶ変容を遂げているとはいえ、それらはれっきとしたキリスト教だ。それらとは別に、日本の民間信仰の一部として根づいたキリスト教系の信仰があったんだ。

 まあ、聖書など一度も開いたことない人でさえクリスマスツリーを飾りクリスマスケーキを食べていることを考えてみれば、そんなこと少しも不思議ではないのだけれど、なぜか学界では数年前まで、そんなことありえないことだと思われていたんだよ。

 もっとも、民間信仰と習合したキリスト教の多くは、江戸中期までに姿を消していった。信仰する者がいなくなって忘れられたり、観音や地蔵の信仰に吸収されたのだろう。

 しかし、**村だけは事情が違っていた。

 ――ああ、いかんな。また、話が脱線してしまった。困ったことに、君と専門的な話ができるのが楽しくて仕方ないんだ。中学生に戻ったような気分だよ。

 でも、先を急がなくては。には、もう時間がないのだから。

 ――ええと、どこまで話したんだったかな? ああ、そうか。聖母神社の特異性についてか。それについては長くなるし、さっきも少し触れたので略そう。

 まあ、そんなニッチな研究ではあったのだが、学界では高く評価されてね。キリスト教がテーマということもあって、欧米の研究者に参照されることが多かったことも影響したようだ。――そういえば、君も何度か紀要で僕の論文を紹介してくれたね。

 そんなことも幸いして、僕は三十歳の若さで助教となることができた。

 そこまでは予測の範囲、と言ったら、君に睨まれるかもしれないが、大学に籍を置く者にとって、とりわけ驚くほどのものではないことは、君も認めくれることと思う。

 ところがね、欧米のミステリー小説の中だけの出来事かと思っていたことが、僕に降りかかったんだよ。なんだかわかるかい?

 なんと、南米に移民して大富豪となった伯父の遺産が、僕の懐に転がり込むことになったんだよ。そんなこと、黄金期の英国ミステリーの中だけの出来事かと思っていたよ。まったく奇妙なこともあるものだな。

 そもそも南米に移民した伯父がいるなんて聞いたことがなかったし、それが事実だとしても、僕以外に相続人がいないなんて信じられるかい?

 誰かの悪戯いたずらか詐欺に違いないと思い、弁護士を雇って調べさせたら、驚いたことに事実に違いないというんだ。

 という訳で、僕は、文字通り一夜にして億万長者になってしまったんだ。

 それでも、やっぱり、ちっとも実感がなかった。狐につままれたか、魔術をかけられたみたいな気分だった。どこかにトリックがあって結局は膨大な借金を抱え込まされることになるのではないか、さもなければ、ふと気がつくと病院のベッドの上で、すべて妄想だったと知らされることになるのではないか、そんなことばかり考えていたよ。

 不思議なのは、叡理だけが最初から当然のことだという顔をしていたことだ。僕が相続する額を知っても、眉一つ動かさないんだ。

 僕が「こんなの悪戯か詐欺に決まってる」と言うと、彼女は真面目な顔で首を横に振り、「それはあなたが受け取るべきものです。あなたにはやるべきことがあるのだから、それを使えばいいのです」ときっぱりと断言したんだ。

 それを聞いた瞬間、億万長者だったことが遠い昔にあったような気がしたんだ。生まれるよりずっと前に、やはり遺産を相続するということがあって、想像もつかないほどの大金を手にした。そして、叡理と二人でヨーロッパ各地を旅した――そんな〝記憶〟が蘇ったんだ。

 そんなの、考えるまでもなく偽りの記憶さ。でも、それがきっかけで、僕は億万長者としての自分を受け入れることができたんだ。

 それにしても叡理と出会ってからの幸運の連鎖は、本当に恐ろしいほどだったよ。変なたとえだけど、終わりのないジェットコースターに乗っているみたいだった。

 金持ちになって最初に考えたことは、これで生活の心配がなくなったのだから、出来の悪い学生相手に宗教学や宗教史を教えるという時間の無駄遣いを一日も早くやめることだった。

 そこで僕は大学に対し三年間の研究休暇サバティカルを申請することにした。

 認められなければ退職するつもりだったんだが、あっさり許可が出た。億万長者になったとたん、大学側の僕に対する態度も一変したんだ。妙なもんだよ。それで、**村に移住して聖母神社の調査に専念することにした。

 神社の近くの家を借り、そこを拠点に神社の資料の徹底した分析をするとともに、周辺の社寺の調査も進めた。長崎大学の研究者や県立図書館の研究者との意見交換もしばしば行なった。

 ほぼ毎日、聖母神社に通うようになって、僕と叡理の距離も縮まっていった。まあ、僕の方は、彼女を一目見た時から恋していたわけだが、彼女の方も僕に気の置けない態度で接してくれるようになったんだ。

 けれども、そこから先へはなかなか進めなかった。彼女が僕を恋愛対象にしてくれるとは到底思えなかったからね。当時、僕は三十五歳、叡理は二十六歳だった。僕はとっくの昔に美少年の面影など消え去っていたし、金持ちだということを除けば、叡理にアピールできるようなところは一つもなかった。

 それに彼女は蘆屋泰造の一人娘なんだ。

 叡理が僕のことを愛してくれたとしても、父親の泰造が僕らの関係を認めるとは思えなかった。感情の上でも認めがたいだろうし、聖母神社の存続の上からも余所者よそものとの交際は阻止したいはずだ。神社の古文書を調査させるのとは話が違うからな。僕だって立場が逆だったら反対する。

(ここまで話して宇留井は、向かい側のソファーに身を沈めている自分の似姿に目をやった。すでにコーヒーを飲み終えていた閏井は、肩をすくめてみせた。宇留井は頭を掻いた)

 そうか、少し惚気のろけが過ぎたかな。君は僕が叡理と結婚したことを知っているわけだし、その経緯いきさつを詳しく話すのは不要だというわけか。

 一番話したいところなんだが、確かに時間の無駄だ。残念だが端折はしょることにしよう。

 ただ、これは言っておかなければなるまい。大反対すると思っていた叡理の父、蘆屋泰造は、僕らの結婚に対して積極的な態度を示したということだ。

 結婚がつつがなくうまくいくよういろいろと配慮や手配をしてくれたんだが、それは、僕と叡理が結ばれることを喜んだというわけではないようだった。彼にとっては叡理の望みを実現させるということが最重要なことで、そのことだけのために全力を尽くしていた。たとえそれが非常識なことであってもね。

 だから、僕との結婚も、すんなり認めてくれた。叡理が望むことなのだから当然のことというわけだ。不思議なのは、そこに親としての感情が微塵も感じられなかったことだ。

(宇留井の話がまた脱線してきたので、閏井は話題を変え、結婚前に長文の手紙を送ってきた真意を尋ねた)

 ああ、あれか。まだ覚えていたのか、そんなこと。

 若気の至り――もう若者ではなかったがな――ということにしたいが、実は今話したことと関係している。

 先にも言ったように、叡理は僕の研究のサポートをしてくれた。最初は古文書の読解とか関係史料・論文の捜索といったものだったが、次第に研究方針についても示唆してくれるようになった。

 狭い範囲の研究に没頭してきた、いわゆる専門馬鹿の僕とは違い、国内外の研究書を広く読んでいる彼女の指摘は常に常に的確でね、目から鱗が落ちたことも一度や二度ではなかった。僕なんかより彼女の方がT**大教授に適していると思ったほどさ。――もっとも、彼女は大学とかに所属して研究する気はさらさらなかったのだけれどね。

 くどいようだが、叡理のアドバイス、示唆は、常に的確で正しかった。けれど、そうしたことが続くと、次第に、彼女が考える方角に誘導されているのではないかと、そんな疑念を抱くようになってしまったんだ。

 もちろん、彼女は自分の意見を採用しろと強制していたわけじゃない。あえて反対意見を述べても、笑って「そんな考え方もあるわね」と言うし、彼女の示唆とは違う方針を選択しても、少しも気にした様子はなく「頑張って」と言ってくれる。

 しかし、彼女の意に反した選択は必ず行き詰まり、やり直さざるをえないことになるんだ。それは必然とすらいえるものだった。まるで呪いをかけられたような気分だった。

 間違った選択が行き詰まるのは当然のことだ。だが、こんなに確実に容赦なく駄目になることは考えにくい。僕はだんだんナーバスになっていった。

 このまま彼女の意見に従っていっていいのだろうか。叡理と結婚できることの幸福に酔い痴れる一方で、僕はそんな悩みを抱えていたんだ。

 そして、君と相談したいと願った、というわけだ。

 残念ながら、その望みは叶わなかったけれどな。

(そんな恨みごとめいた言葉に閏井は、「そうか、そういう事情があったのか、お役に立てずにすまなかったな」と言い、「で、それからどうしたんだい?」と尋ねた)

 それから?

 そう、それが一番重要なんだ。

 だが、ここから先の話は食事の後にしよう。

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