聖堂を出ると、冬の弱々しい日差しがストーブみたいに暖かく感じられた。それほど体が冷え切っていたのだ。

 宇留井も同様であったらしく、「部屋に戻ったら、入浴をして一時間ほど昼寝をするといい」と言った。

「ああ、そうさせてもらうよ」

 閏井も細かな震えが止まらない体を両手でさすりながら、そう言った。

 しかし、宇留井は、まっすぐ部屋に戻ろうとする閏井を階段の下で引き留めた。

「ちょっと待って。いいものがあるんだ」

 そう言うと、閏井を階段の下に留めたまま、厨房の方へ早足で向かった。そして、二分ほどで戻ってきた彼の手には、三センチほどの小瓶が握られていた。

「特製の入浴剤だよ。よく効くから使ってみたまえ。疲労回復やリラックスに効果があるハーブに加え、ケルト人が愛用していた一種の麻薬も少量添加してある。ほんの一時いっときだけれど、美少年だった頃に戻れるぞ」

「麻薬かい?」

 閏井が瓶を受け取りながらいぶかしげな顔をすると、宇留井は笑ってその腕を叩いた。

「心配しないでも中毒になったりするほどの分量は入ってないよ。ほんの少しぽわっとするくらいだよ。それも体が冷える前には消えてしまう。はかないものさ。僕も薬草湯に入って一眠りするよ」

 宇留井はそう言ってもう一つの瓶を閏井に見せ、手を振って自分の寝室へ歩み去った。

 部屋に戻った閏井はすっかり疲れ切っていて、このままベッドに潜り込んで眠ってしまいたいところだった。しかし、冷え切った体を温めておかないと風邪をひいてしまいそうだったので、重い体を引き摺ってバスルームに行き、浴槽に湯を張った。そして、少し迷ってから宇留井からもらった入浴剤を湯に混ぜた。

 すると、湯がかすかにマリンブルーに染まり、沈香じんこうに似てさらに甘い香りがバスルームに立ち籠めた。

 体を湯に浸すと、香りはより濃厚になり、鼻の奥で滞留する感じがあった。香りは湯気に乗って鼻腔から肺へと流れ込み続けるため、息苦しく思えるほどだった。

 肌にも薬効成分が染み込むようで、手でこするたびに滑らかになっていくのがわかった。

「これなら美少年に戻るのは無理にしても、四、五歳くらいは若返りそうだな」

 そうつぶやいて手を見ると、関節の皺や手の甲に浮き出ていた血管が見えなくなっている。もしやと思って湯から出て洗面所の鏡を見ると、とうの昔に失っていた顔がそこにあった。

 薄暗い照明と湯気の効果も大きいのに違いなかったが、それだけでは説明はできない。小鼻の脇や目尻、額などに深く刻まれていた皺が一本もなく、頬のたるみも消えているのだ。

 もちろん、それは少年のそれではなく、青年――いや、壮年のものではあったが、そこには美少年の面影がはっきりと残っていた。

 その時、紙を擦り合うようなかさかさした音が耳のすぐそばでしているのに気づいた。隙間風でも吹き込んでいるのかと思ったが、湯気が立ち籠めたバスルームにはそんな様子はない。

 しばらく周りを見回して、はっと気づいた。

 それは、閏井自身の笑い声だったのだ。

「これが麻薬の効果ってやつか」閏井はクスクス笑いながら言った。「若返りもそのせいか。それなら、こんな中途半端なものではなく、いっそ少年に戻してくれればいいものを」

 閏井は笑いながら湯船に戻り、足を伸ばして肩まで湯に浸った。

 その後、意識がとろんとして、しばらくの間眠ってしまったようだ。気がつくと、湯がぬるくなっていた。

 閏井は熱いシャワーで体を温め直し、風呂からあがった。

 バスタオルで体を拭きながら鏡を見ると、湯に入る前の姿に戻っていた。

「確かに、はかないものだ」

 鏡の中の自分にそう言って、閏井はバスルームを出た。


 パジャマ代わりに持ってきたTシャツとスウェットパンツを着て、ベッドに潜り込もうとしたところだった。ドアを控えめにノックする音が聞こえた。宇留井だろうと思って戸を開けると、黒い服を着た麻利がそこに立っていた。

「お休みのところ失礼します」

 と言って麻利は丁重に頭を下げた。彼女は厚地のウールのワンピースを着ているのだが、それがスリムだがりのあるボディラインをくっきりと見せており、閏井はどきりとして目をそらした。

 麻利は言った。

「お伝えしておきたいことがございまして参りました。五分ほどよろしいでしょうか?」

「あ、ああ、もちろん」閏井は狼狽うろたえて返事をした。「今、着替えますので、ほんの少し待ってください」

「いえ、どうぞ、お気遣いなく」麻利は無表情にそう言って、一歩部屋に入ってきた。「御都合が悪いのでしたら、改めて出直しますが」

「あ、いや、そうではなく、奥様にこんな格好では失礼かと……」

「ですから、どうぞ、お気遣いなく。私はメイドの一人のようなものですから」麻利は控えめな態度で、しかし有無を言わせない雰囲気で部屋に入ってきた。「では、手短かにすませますので、どうぞお座りください」

 されるように部屋に戻った閏井は、ベッドに腰を下ろした。そして、ようやく気づいたように言った。

「麻利さんも、そちらの椅子をどうぞ」

「いえ、わたくしは立ったままで結構です。すぐにすみますから」

「いや、それでは……」

 閏井は腰を浮かしかけたが、麻利に制止された。

「どうか、そのままで。私は立ったままの方が話しやすいのです。――では、手短かに申し上げます。賢治様は修道士の墓のことを気にされていると、宅が申しておりましたので、歴史的事実と思われることをお知らせしておこうと思いまして。これは、宅もまだ知らないことなのです」

「え? 健一君も知らない?」

 閏井は麻利の意外な言葉に、思わず問い返していた。

「ええ」麻利は小声ではあるがはっきりと聞き取れる音調トーンでそう言い、うなずいた。「数日前のことでした。明日の儀式のために聖堂を清掃しておりますと、聖歌隊席クワイヤの椅子の背後にラテン語らしい文章が書きつけてあるのを発見したのです。読んでみますと、修道士たちの死についての記録でした。この修道院の歴史を知る上で重要な文書ではありますが、今の私たちとっては叡理様に関わること以外は些事さじなのです。それで、宅には黙っておりました」

「そうでしたか」閏井は宇留井と麻利の奇妙な夫婦関係にひやりとしたものを感じたが、表情に出さないよう努めた。「で、その文書にはなんと書かれていたんですか?」

「文書は事件を詳細に記録したものでした」麻利は閏井をまっすぐ見つめて言った。その皺のない整った白い顔は、宇留井が言ったようにアンドロイドを思わせた。「文書はラテン語でしたが、筆を使って墨で書かれていました。保存環境が悪かったにもかかわらず、読める状態で残されたのは、そのためだと思われます。文によると、書いたのは惨劇でただ一人生き残った修道士だそうです」

「惨劇でただ一人生き残った修道士……」

 麻利は黙ってうなずいた。

「惨劇――修道士皆殺し――は、開堂式の夜に起こりました。実はその時に祓魔式ふつましき――いわゆるエクソシスム――が行なわれるはずでした。悪魔憑きとされたのは、バリ島生まれのインドネシア人修道士です。彼は十六歳で入信し、バリ島の修道院に入りました。そして、十八歳の時にこの修道院を建てた修道会に入り、日本に渡ってきたのです。しかし、彼はヒンドゥー教の信仰を捨てていなかったのです。密かに持ち込んでいたシヴァ神と思われる多臂の神像を、深夜に礼拝していたのです」

「なぜそんなことをしたのだろう?」宇留井は尋ねるともなく、そうつぶやいた。「修道院など入らず、バリで普通に暮らしていれば、悪魔憑きなどと呼ばれることもなかったのに」

「それについては何も書かれていないので、わかりません」麻利はアンドロイドのように首を横に振った。「あるいは生活のためだったのかもしれません。確かなことは、彼の回心かいしんが偽りであったことです。異教の神像に果物や鳥の肉などを捧げていたことから、彼の行為は悪魔崇拝とされ、エクソシスムの実施が決定されたのです」

「悪魔祓いというと」閏井は古い知識を思い起こしながら言った。「聖水を注いだり、大天使ミカエルの祈りをしたりといったことですか?」

「一般的にはそうですが」麻利は無表情に答えた。「修道士たちはもっと激しいことをやろうとしていたようです」

「それで彼は恐れた」

「そうです。なぶり殺しにされると思ったのです」麻利は閏井のことをまっすぐ見つめ、判決を下すかのように言った。「そして、殺される前に殺してやろうと考えた。どうやったのかわかりませんが――共犯者がいたのかもしれません――、修道士の食事に毒を混ぜ、彼らが苦しんでいるところを次々に撲殺していったのです。文書の筆者は物陰に隠れていて助かったそうです。事件後、一同を埋葬し、墓石を建てたのも彼だそうです」

「そうだったのか……」

 閏井は墓地の様子を思い浮かべ、一人で仲間たちを埋葬した修道士のことを思った。

「で、犯人はどうなったのです? そのことは書いてありませんでしたか?」

「悪魔憑きの男――これは、文書の表現です――は、崖から落ちて死んだそうです。修道院から逃げだそうとして道を間違えたのでしょう。死体のそばには、笑いながら踊る悪魔の像――シヴァ神の像だと思われます――が転がっていたそうです」

「神罰が下ったと、その修道士は思ったでしょうね」

 と閏井が言うと、麻利はわずかに首を傾けた。

「そういった事件に対する神学的解釈は、文書には書かれていません。もし悪魔憑きの男の死が神罰であるのなら、神はなぜ修道士の殺戮を見逃したのかという疑問が生じるのを避けたかったのでしょう。文書は殺された修道士たちの来世での幸せを祈る言葉で終わっています」

「そうですか」閏井は座り直して頭を下げた。「これで墓の謎が解けました。そんなミステリー小説顔負けの事件があったのですね」

「ええ」麻利はうなずいて、かすかに頬笑んでみせた。「一部の新聞がセンセーショナルに取り上げた記事を除けば、当時の記録がまったく残っておらず、修道士皆殺しが本当にあったのかさえ明らかではなかったので、私もこの文書を読んだ時は胸のつかえがとれた気がしました」

「そうですか。いや、わざわざお教えくださり、ありがとうございます。これで安心して眠れます」

「ああ、お疲れのところ、本当に失礼しました」

 麻利は深々と頭を下げると、音もなく部屋から出ていった。

 麻利を見送った閏井は、強烈な眠気を感じてベッドに倒れ込んだ。そして、布団をかぶりながら「麻利は何のために来たのだろう」と、ぼんやり考えた。

 たしかに興味深い話ではあったが、急いで伝えるようなことではない。しかも、健一君は修道士の幽霊の夢は麻利が恐がるから話すなと言っていた。いったい彼女は修道士殺戮のことを、どう思っているのだろう? 二人の関係はどうもよくわからない。叡理を間に挟んだ三角関係のようにさえ思える。

 そこまで考えたところで意識が遠のいていった。泥のような眠りに沈み込みながら、閏井は、棺の中で笑っていた叡理と同じ顔を、いつ、どこで見たのだろうと思っていた……


 ノックの音で目が覚めた。

 もう朝かと思いながら閏井が目を開けると、部屋の中は琥珀色の夕陽で満ちていた。状況がわからないまま枕元のスマホを取り上げてみると、午後の四時三十五分であった。

「起きたかい? 開けるよ」

 そう言って部屋に入ってきた宇留井は、ブランド物らしい薄鼠色のスウェットのパーカーとパンツを着ていた。

「体調はどうかね?」

 彼はベッドサイドの椅子に腰掛けて閏井に言った。

「ああ、悪くない」閏井もベッドに腰掛けて言った。「いや、こんなに爽快な気分は、ここ数年来なかったな」

「それならよかった」宇留井はパーカーのポケットからパイプを出して口にくわえた。「さっきも言ったけれど、聖堂に入ると体調を崩す人が多くてね。風邪をひいたり、血圧が上がったり、意識障害を起こしたりとね」

「ここに戻ってきた時は風邪をひく寸前だったが、あの入浴剤が効いたのか、風呂上がりに昼寝をしたら、老廃物がすっかり洗い流された気分だよ」

 閏井がそう言うと、修道院の主は意味ありげにふふふと笑った。

「入浴剤がお気に召してよかったよ。実はあれはただの市販品なんだ。たしか、君に渡したのはカモミールとタイムだったかな?」

「本当かい?」閏井は目を擦りながら言った。「麻薬成分とやらは嘘かい?」

 宇留井はにやっと笑った。

「まあ、麻薬をどう解釈するかによるな。市販とは言っても、日本では禁じられているハーブが合法化されている国のものだからね。リラックス効果をあげるためにそういう成分が混ぜられることは珍しくないんだ」

「そのせいかな、変な夢を見た」

「変な夢?」

 宇留井は素っ気なくそう聞き返したが、その目は明らかに強い興味を示していた。

「ああ、北イタリアにでもありそうな、石壁の古城に迷い込む夢だよ」

「ふうん、ずいぶん具体的だな。北イタリアには行ったことがあるのかい?」

 宇留井は煙草が詰まっていないパイプを口の端でゆらゆらさせながら言った。

「ないよ」閏井は肩を竦めた。「恥ずかしながらヨーロッパはイギリスとドイツを一回行ったきりだ。飛行機に長く乗るのが苦手でね。北イタリアというのは、僕の印象さ。本当にそういう城がその地方にあるのか知らないが、夢の中でそう思ったんだ」

「なるほど」宇留井は小さくうなずいた。「で、その城はどんな形をしていたんだね?」

「正八角形の塔があるんだ。それが四、五本――いや、もう少しかな――、連なって建っているんだ」

「八角形の塔か。たしか、実際にそんな城があった気がするよ。確かにイタリアだよ。北部かどうかは思い出せないが」

 宇留井はパイプをゆらゆらさせながら言った。

「実在するのかい?」閏井は首をひねって言った。「だとしたら、以前、テレビで見たのかもしれないな。記憶には残っていないけれど」

「で、君は自分から、その城に入っていったのかい?」

「そこがどうも、はっきりとしない」閏井は首を振った。「最初は城を下の方から遠望しているんだ。それで内部はどうなっているんだろう、などと思っていたんだが、気がつくと建物の中にいるんだ。外観から想像した通り、内部は正八角形の部屋が前後左右に延々と続いていたから、城の内部だと思うんだが……」

「まるでボルヘスの『バベルの図書館』だね」

 宇留井が腕を組んでそう言うと、閏井は小さくうなずいた。

「実際は一つの部屋の周囲に八つの部屋が並んでいるだけなのかもしれないんだが、夢の中だからね、なんでもありさ。それで僕は部屋から部屋へと歩き続けているんだ。いずれの部屋も家具も装飾もないがらんとした空き部屋でね。夢の中だから、どのくらいの時間が経ったのかわからないんだが、僕はいい加減歩き続けるのにうんざりしている。でも、理由不明の義務感から、足を止めずに歩いていくんだ。そして、百個目だか千個目だかの扉を開けようとした時に、僕は気づくんだ。――石積みだと思っていた部屋の壁が、人骨を積み上げて作られていることにね」

「それは、また……。カタコンベというわけか」

 宇留井は顎を撫でながら、嬉しそうに言った。閏井はうなずいて話を続けた。

「夢の中の僕も、そう考えた。だが、そんなことに構っている暇はなかった。僕は今すぐに、この建物の中央の部屋に行かねばならないからだ。そこが墓場であろうと、中世の城塞であろうと、それは変わらない〝事実〟なんだ。――長いこと城内を歩き続けていたんじゃなかったか、などと聞かないでくれよ。夢の中の話なんだから。夢の中の僕は、そういうことになっていたんだ」

 閏井がそこで言葉を切ると、宇留井はうなずいてみせ、話を続けるよう身振りで示した。

「しかし、いくら歩いても同じような部屋ばかりで、ちっとも中心の部屋に近づかないんだ。各部屋には八つずつ扉がついているから、選択肢は七つあるわけなんだが、ランダムに選んでいては迷う一方だと僕は考えた。とはいえ、入ってきた扉のすぐ脇の扉――右にしろ左にしろ――を選択し続けたら同じ場所を回るだけになってしまうし、正面の扉を進んでいったら、ひたすらまっすぐ進むだけで中心には至らない。そこで、正面の扉の左側の扉を選び続けることにした。これも結局は同じ所に戻ることになるのだろうが、その前に中心に着くのではと思ったんだ。――まったく夢の中では変なことを考えるよな」

 宇留井は何やら考えている様子なのだが何も言わず、ただ生真面目な顔つきでうなずいてみせた。

「で、その方針で部屋を三つか四つ通り過ぎた時のことだ。声が聞こえた。しわがれた女のものと思われる声で、人を呼んでいるような口調だ。でも、何と言っているのか、まったく聞き取れない。何語かもわからないし、人間の言葉なのかさえわからない。しかも、どっちの方角から聞こえてくるのかもわからないんだ。部屋の真ん中で耳を澄ませているうちに、どの扉から来たのかさえもわからなくなってしまった。そこで、思い切って、目についた扉を開けてみることにしたんだ。そうしたら、そこが中心の部屋だったんだ」

 宇留井はにやっと笑って言った。

「活劇ものの無声映画みたいに御都合主義だな。でも、どうしてそこが中心の部屋だとわかったんだい?」

「そう言ったんだよ、女王がね」閏井は宇留井を見て言った。「部屋の中央に石でできた玉座があって、そこに白いドレスを着た女性が座っていた。エル・グレコが描いた聖母マリアみたいに長い女でね、一見三十代くらいの感じなんだが、五百歳は軽く超えているということは、体や身にまとっている雰囲気からわかった。僕は一目で彼女が女王だと認識した僕は、やっと任務が果たせると思った」

「その女王は」と宇留井は言った。「どんな顔だった?」

 閏井は少し躊躇ためらってから言った。

「叡理さんに似ていたよ。そっくりというほどではなく、もっと臈長ろうたけた感じだったけどな。――その女王が僕の顔を見て、しわがれた声で言ったんだ。『よくぞ中心の部屋まで参った。誉めてつかわす。だが、遅すぎた。御前は部屋を探すのに時間をかけすぎた。もはや手遅れじゃ。何もかも終わってしまった』そんなことはとっくにわかっていることだけど、それではここまで来た意味がないから、僕は必死で女王に訴えた。『確かにそうですが、まだ夜は砕け散ってはいません。僕もまだまだ歩けます』とね」

「それを聞いた女王は何て言ったんだい?」

 宇留井は身を乗り出して尋ねた。

「『こっちへおいで』と手招きをしたんだ。僕が玉座の前まで歩み寄ると、女王は長い上体を折って、僕の耳元に口を寄せて、こうささやいたんだ。『御前は実に美しい少年だった。だから喰ってやろうと思ったのさ。喰ってほしいのなら、生まれ変わっておいで』女王がその言葉を言い終える前に、城も玉座も女王も消え去っていた。僕はだだっ広い荒野にぽつんと立っていて、枯草のように干からびていた。そのまま僕は枯れて死に、真っ白な空間をゆっくり昇っていった。ああ、生まれ変わるんだ、と思った瞬間、君に起こされた」

「おやおや、ちょっと早すぎたってわけだ」宇留井はおどけて言った。「もう少し待ってから声をかけたら、美少年が寝ているが見られたのにねえ」

「あるいは美しい乳児が寝ているのをね」

 閏井がそう言うと、宇留井は苦笑して肩をすくめた。

「それは先が長い話だな。僕にはもう子どもを育てる時間は残されてないぜ」

「だったら、君も生まれ変わればいい」

 閏井が悪戯っぽくそう言うと、宇留井は虚を衝かれたのか、「それは」と言ったまま動けなくなり、しばらくの間、焦点の合わない目で宙を見つめていた。

 五分ほどで宇留井は正気に戻り、

「夕食は六時からだが、その前に食前酒を飲みながら話をしたいんだ。いいかな?」

と言った。

 閏井が「ああ、かまわないよ」と答えると、「じゃあ、五時半に居間の方に来てくれ」と言って部屋を出ていった。その足もとはまだ少しふらついていた。

 その後ろ姿を見送った閏井は、不意に〝美少年〟だった頃の、ある事件を追い出した。


 それは彼らが小学五年の秋のことだった。

 当時、〝杖ジジイ〟と呼ばれる不審者が通学路に出没して、子どもたちを脅かしていた。 〝杖ジジイ〟というのは七十代後半くらいの痩せた老人で、常に杖を携えて通学路に立ち塞がって、子どもたちの通行を邪魔していたことから、そんな仇名あだながつけられたのだった。

 老人は常に不満そうな顔でぶつぶつと何かをつぶやいており、奇声を発して地面を杖で叩くこともあった。

 子どもたちは老人を気味悪がり、避けるようにしてその脇を通り過ぎたが、それが気に障るようで、杖で追い払う仕草をしたり、火のついた煙草を投げつけたりした。中には本当に杖で叩かれて怪我をした者もいたという。見回りの教師や保護者と口論になることもしばしばあった。

「杖ジジイを懲らしめてやろう」

 そう言い出したのは宇留井だった、と閏井は記憶している。すぐに話はまとまり、決行は翌日の下校時と定めた。

 作戦はごく単純なものだった。宇留井がわざと老人に近寄っていき、老人が杖を振り上げたところで閏井が後ろから押し倒すという段取りだった。

 作戦は見事に成功し、老人は乾いて埃っぽい地面にうつ伏せに倒れた。

 やりすぎたか、閏井は老人の無様な姿を見て思ったが、老人が蛙のように這いつくばりながらも、大声で口汚く罵り始めたの見て、その気持ちは消え去った。それと共に急におかしくなり、二人は倒れた老人をはさんで笑い転げた。

「この悪餓鬼ども。ぶち殺してやる」

 老人はそう言って、寝転んだまま杖を振るった。その勢いで老人がポイ捨てした煙草の吸い殻が周囲に飛び散った。

 宇留井は縄跳びの要領で杖をけながら、嘲笑あざわらって言った。

「子どもだと思って甘く見るから痛い目に遭うんだ。もう二度とこのあたりに来るな」

「餓鬼のくせに偉そうな口を利くんじゃない!」

 老人は半身になってそう叫び、もう一度杖を振り上げたので、閏井は反射的に老人をもう一度押し倒した。

 それを見た宇留井は腹を抱えて笑い出し、老人が散らかした吸い殻を一つかみ――その中にはまだ煙を出しているものもあった――拾い上げると、老人の上着のポケットに押し込んだ。

「ゴミは家まで持ち帰れ。町を汚すな」

 これを聞いて、今度は閏井が笑い出した。そして、小躍りするように跳ねながら、「町を汚すな」と囃し立てた。

 これに宇留井も同調し、二人は「町を汚すな」と歌いながら、その場から走り去った。

 老人の死を知ったのは、翌朝、登校した時のことだった。

 閏井が教室に入ると、クラスの人気者だった石井君を中心に、五、六人の男子が何かを熱心に語り合っているのが目に入った。その小集団の中には、宇留井の姿もあった。

「なんだい?」

 宇留井の隣にそっと立った閏井は、小声で尋ねた。宇留井はぼそっと答えた。

「杖ジジイが焼け死んだそうだ」

「え?」

 閏井が思わず声を出すと、宇留井に代わって石井君が「本当だよ」と答えた。そして、昨夜の出来事を話し始めた。すでに何度も語った後らしく、話は要領よくまとまっていた。

 それによると、石井君は昨夜十二時過ぎに消防車のサイレンで目を覚ましたという。

 窓を開けてみると、家の前には数台の消防車が停まっており、何人もの消防士が行き交っていた。

 すぐに火元が杖ジジイの家だとわかった。寝煙草でボヤを出したことが二、三度あったので、老人の家は近所で有名になっていた。

 家は全焼、中から一人の遺体が発見された。おそらく老人のものであろう。どこで聞き込んできたのか、石井君の父親は、家族にそう説明したという。

「これで、僕らの通学路にも平和が戻ったというわけさ」

 と石井君は話を締めくくった。

「健一君がジジイのポケットに入れた吸い殻が、火事の原因じゃないか?」

 老人の焼死を知った時、閏井は最初にそう思った。火事になった時間からすると、それはありえないことであったが、老人の上着のポケットから静かに炎が燃え広がり、老人の全身を包んでいく様子が、何度となく脳裏で再生されるのを停めることはできなかった。

 宇留井も同じような思いを抱いていたのか昼休みになると、「帰りに杖ジジイの家に寄ってみよう」と言ってきた。

「杖ジジイの家、知ってるの?」

 火災現場を見るということに一抹の不安を感じつつ閏井がそう尋ねると、宇留井は声を落としてこう言った。

「石井君の家なら知ってる。その近くで丸焼けの家を探せばいい」

 宇留井の言葉通り、杖ジジイの家はすぐに見つかった。

 石井君の家のあたりから焦げ臭い臭いが漂っており、それが濃くなる方角へ歩いていくと間もなく焼け跡の前に出た。

 家はなんとか形を保っていたが二階は骨組みだけとなっており、一階も柱や壁がまっ黒になっていた。道路に面した窓は穴だけになっており、炭化した家財で埋もれた室内が丸見えになっていた。

「死亡が確認されたということは、遺体は病院に移されたということだな」

 宇留井は窓の中を覗き込みながら独り言のように言った。やはり健一君も気にしていたんだな、と思いながら閏井は「そうだね」と言った。

 だが、彼には、まだ老人がそこにいるような気がして仕方なかった。焼け焦げた姿で煤だらけの床に横たわり、黒々とした眼窩からこちらを睨んでいるように――。


 五時半に閏井が居間に降りていくと、すでに宇留井がソファーでワインらしきものを飲んでいた。まだ少し顔色が青いようであった。

「やあ、先に始めているよ。」と宇留井はグラスを上げて言った。「君は何がいい? これは五年物のシェリーだ。まさに、頭の働きを鋭敏かつ創造的にする飲み物だよ。シェークスピアもたまにはいいことも言う。――シェリーがお気に召さないのなら、スパークリング・ワインの逸品もあるぞ。食前に赤のポートワインというのも、案外悪くないがな」

「実に魅力的なお誘いだが」閏井はリビングの隅に設えられたミニバーのカウンターに並べられた酒瓶を眺めながら言った。「五十を過ぎてからぐっと酒が弱くなってね。食前から飲み始めたら、君の重要な話とやらを半分も聞く前につぶれてしまうかもしれないから、コーラかコーヒーにしておくよ」

「残念ながら清涼飲料の類いは用意してないんだ」宇留井はグラスの酒を飲み干して言った。「なので、悪魔のように黒く、地獄のように熱いコーヒーをお作りしよう。僕も頭をしゃっきりさせるためにご相伴するよ」

 そして、ミニキッチンにやって来ると、棚から銅製のコーヒーポットと陶器製のドリッパーを取り出し、厳かな手つきでペーパーフィルターをセットした。

「豆はブラジル産のものを自家焙煎したものだよ。生豆を直輸入して、少量ずつ焙煎しているんだ。僕は濃いめが好みなんだが、構わないかな? ああ、それと、今夜のディナーだけれど、明日の儀式のために、使用人たちは今日の夕方から明後日の午後まで休暇として、屋敷から出してある。だから、今夜は麻利の手料理だよ。ごく簡素なものになってしまうが、勘弁してくれたまえ」

「もちろん、簡素なものでかまわないさ。でも、あのパンのでき具合からすると、君の奥さんの腕はなかなかなものなのだろう?」

「まあね」宇留井はケトルを火にかけながら言った。「君同様、五十を過ぎて食が細くなった身としては、麻利の料理の方が好ましいことが少なくないんだ」

 それから二人は黙ってコーヒーがポットに滴り落ちる音に耳を澄ませた。

「さて」改めてソファーに腰を下ろした宇留井は、コーヒーを一口味わってから、おもむろに語り始めた。「まずは食事前に、僕が叡理と結婚するまでのことを話しておこうか」

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