三つ並ぶ扉のうち中央のものを宇留井は開き、旧友であり自らのドッペルゲンガーである閏井を堂内へ誘った。

 薄暗いナルテックス――清めの空間でもあった玄関の間――を過ぎると、光が溢れた。

 閏井は光に目が慣れるのを待って、周囲を見渡した。

 最初に見えてきたのは、ゴシック様式の大聖堂の一般的な身廊であった。だが、閏井はすぐに気づいた。聖堂の内部がこんなに明るいはずはないのだ。

 明るい理由はすぐにわかった。身廊と側廊の間を区切る大アーケードの上にある高窓のところに投光器がずらりと据えられているのだ。

「ずいぶん大層な照明だな。君は聖堂をイベントホールに変えたのかい?」

 閏井が困惑した様子でそう言うと、宇留井は真顔で首を横に振った。

「違うよ。あれは作業用の照明だよ。大きな遺物などを調査する時に使うもので、対象に影ができないよう向きを変えられるようにしてある。普段は消してあるんだが、君の歓迎のため全部つけてみた」

「それはそれは」閏井は半ばあきれながら言った。「しかし、こんなに明るいと、聖堂という気がしないな。聖堂は薄暗いからこそ荘厳なんじゃないか?」

「一般的にはね」宇留井は天井を見上げて言った。「ここがキリスト教の聖堂だった頃は、それがふさわしいものだったろう。薔薇窓から差し込んだ光が床に揺蕩たゆたい、それが金色こんじきの祭壇に映り込む。祈りを捧げる者はそれを見て、神の世界の光輝を思い、昇天を強く願う。――だが、光はここにあるのだ。はね、使でもあったのだよ」

「彼女って?」

 閏井はそう尋ねたが、聖堂の主はそれには答えず、目の前の透明な扉を押した。

 その時まで閏井は気づいていなかったのだが、聖堂の身廊部分は透明な壁――恐らく強化ガラスもしくは強化アクリル板――で囲まれていた。高さは三メートルほど、奥行きは今立っている場所からははっきりわからないが、祭壇があるサンクチュアリの手前まで続いているようだった。

「この建物は今も聖堂だけれども」と宇留井は言った。「このガラスで囲まれた場所は、研究室と資料館を兼ねているんだ。さっきも言ったように聖堂内は温度と湿度が一定になるよう調整しているが、このガラスの覆いの内側はより厳密に空調がなされている。資料の中には六百年以上前の写本や、中世の僧院の倉で眠っていた薬品などもあるのでね」

「ふうん、君がコレクターになるとは意外だね。物には執着しないタイプだと思っていたよ」閏井は透明な扉の内側を覗き込みながら言った。「六百年前というと、室町時代かい? それとも鎌倉……」

「ヨーロッパのものだよ」宇留井はかすかに苛立った顔をして言った。「真言立川流や玄旨帰命壇げんしきみょうだん関連の写本も集めてはみたが、無駄な努力だった。それ自体は興味深い信仰だが、には少しも役に立たない……」

 ガラスの部屋の中に入ると、静寂がさらに深くなった。空気はほんのりと暖かく、乾燥したハーブのような香りがかすかに漂っていた。閏井は小さなくしゃみをした。

 すると、宇留井が反射的に「bless you」と言い、すぐに自分の言葉に気づいて気まずそうな顔をした。閏井は笑って言った。

「確かに僕らには祝福が必要だな。――〝神よ、老いたる美少年にお恵みを〟」

 宇留井は嫌そうな顔をして首を振った。

「ケチな神がそんなことするものか。老人など放っておいても、程なく自分の元に戻ってくるのだからね」

 閏井は黙って肩をすくめた。

 ガラスの部屋の入口付近は美術品の展示スペースになっているらしく、ギリシア・ローマ風の神像や教会の柱頭彫刻らしき魔物の像などが、奇妙な配置で置かれていた。また、背の高いショーケースには聖母マリアなどのイコンがトランプみたいに並べられていた。

「あの柱頭の彫刻はロマネスク教会のものかい?」

 閏井は彫刻の一つを指さして言った。

「ああ」宇留井は小さくうなずいて答えた。「北イタリアの廃村に放置されていた教会堂のものだ。十二世後半頃に建設されたらしく、建築技法においても彫像技術においても稚拙なものだが、独特の味わいがあるだろう? 聖人像などは見られたものじゃないんだが、悪魔となると、その稚拙さが実にそれらしい表情を作り出すんだ。見たまえ、あの二番目柱の像を。邪悪そのものじゃないか」

「勝手に持ってきたのかい? マルローの『王道』みたいに」

 と閏井が言うと、宇留井は肩をすくめた。

「そうしようと思えば、できたがね。長いこと見捨てられていたのだからな。――だが、貴重な文化財であることを地元の行政機関に知らせ、こちらの費用負担で教会を博物館に移築・補修するのを条件に譲り受けた。向こうの建物には精巧なレプリカがつけてあるよ」

「ひょっとして君はハプスブルク家の者かね?」

 閏井がそう冗談を言うと、宇留井は面映ゆそうな顔でぼそっと言った。

「叡理はロレーヌ家の血をひいているがね」

「いやはや」閏井は肩をすくめた。「君の話は驚きの連続だよ。それとも僕はファンタジーの世界に紛れ込んでしまったのかね? 僕はヨーロッパ史には疎いんだ。ハプスブルク君主国の話から聞かねばならないのだと、ついていけないよ」

「妻の血筋はが行なおうとしている儀式とは何の関係もない」宇留井は怜悧な学者の顔に戻って言った。「叡理の外祖母の母親がロレーヌ家の末流の者だったというだけの話だ。なんでも彼女の祖先の一族は、オーストリア継承戦争中に地所の係争相手を呪詛したという嫌疑をかけられてネーデルランドに逃れ、その中の一家族が貿易船に乗って長崎にやって来たそうだ。どこまで真実がわからない話で、検討の価値もないものだよ。ただ、日本に来る際に『ピラト行伝』を携えていたという話は、実に興味深いじゃないか」

「聖書外典についても僕は詳しくないが、『ピラト行伝』というのはグノーシスに近い典籍なんだろ? カタリ派だったのかい?」

「さてね」宇留井はとぼけた顔で言った。「なにしろ遠い昔の断片的な話だからな。それに、異端であるかは、どの立場であるかによって意味が大きく変わってくるものだよ」

「じゃあ、君の目からはどっちなんだい?」

 秘密めかした話が続くことに少々苛立いらだった閏井は、少し意地悪な顔で言った。だが、宇留井は少しも意に介した様子はなかった。

「僕はキリスト者じゃないからね。異端も正統もないよ」

「そうかね?」閏井は疑わしげに言った。「この入口の展示を眺めただけでも、悪魔崇拝の匂いがぷんぷんするよ。中世の異端審問官だったら、君を火炙ひあぶりにするのに十分な証拠とするぞ」

「そうだろうな」宇留井はにやっと笑って言った。「僕を十字架に架けて火炙りにし、この聖堂も焼き払うことだろう。でも、今は二十一世紀で、ここは日本だ。キリシタンを弾圧した天下人も、とっくにだ。誰も僕に手を出せない」

「そうかな?」閏井は言った。「君の奥さん――前の奥さんと呼ぶべきかな?――の実家はどうなんだい? イエス・キリストや聖母マリアを祀るの宮司家なんだろう? 君の瀆聖とくせいに対して苦言とかはないのかい?」

「それがね」宇留井は顔を曇らせ声を落としてて答えた。「今となっては彼らが本当に実在していたのかさえ、わからなくなっているんだ。偽りの経歴のために叡理が作り出したものだったのではないかとさえ思うことがあるよ」

「え? 何を言っているんだ、君は」閏井は驚いて問い返した。「だって君は叡理さんの実家の聖母神社に住み込んで調査をしていたんだろう? 論文も何本も書いているのに。僕はそれらをみんな読んだし、今もよく覚えているよ。それとも、それらはみな君が創作した虚構だとでもいうのかい?」

「いや、あれは僕の渾身の作だよ」宇留井は友の顔を見返して言った。「でも、君が読んだ内容の論文は、もうこの世には存在しないんだ」

「おい、よせよ。怪談みたいなこと言うなよ」

「実際、奇々怪々なのさ」宇留井は肩を竦めた。「まあ、その辺のことも追々話すよ。まずはのコレクションを御覧にいれよう」

 そう言うと宇留井はガラスで囲われた身廊の奥へと進んでいった。

 本来、聖堂の身廊はミサに参列する信者が着席するためのベンチが並んでいるのだが、宇留井はその多くを取り去って、そこに書棚や陳列ケースを並べていた。書棚の本は多くが革装の豪華本で、近世以前の稀覯本も少なくないようだった。

「ここには叡理が研究に使った資料が収めてある」と宇留井は言った。「と言っても、古いものばかりだよ。最新の論文とか調査報告書といったものはない」

 宇留井の説明が終わるのを待ちきれない様子だった閏井は、いそいそと書棚へと歩み寄り、ずらりと並んだ背表紙に顔を近づけて言った。

「手に取ってみても構わないかい?」

「もちろん」宇留井は嬉しそうに笑って言った。「ここの収蔵物は他人には絶対に触らせないものばかりなのだが――で危険なんでね――、君は例外だよ、自由に見てくれ」

「和洋取り混ぜて揃えてあるという感じだな」書棚に顔を向けたままで宇留井は言った。「アリストテレスやヒポクラテスの全集があるかと思えばイブン・スィーナーの『医薬典範』か。こっちは『医心方いしんぽう』に『本草綱目ほんぞうこうもく』、『黄帝内経こうていだいきょう』『神農しんのう本草経』と。……これは『チャカラ・サンヒター』かい?」

「さすがに東洋の文献には目敏めざといね」宇留井は嬉しそうにそう言った。その顔は光線の具合のせいか、色白の肌がさらに血の気が失せて、青白くほのかに光っているようであった。「お説の通りだが、大学の図書館にあるものとは多少内容が違うぜ。たとえば、『黄帝内経』は表題はそう書いているが、中身は前漢の『霊枢れいすう』だよ」

「え? 前漢の『霊枢』だって?」閏井はその青白い友人の顔を見返した。「前漢の『霊枢』といえば、散逸してしまった本来の『黄帝内経』の元本の一つだろう? 君がどこからどういう手段で入手したか知らないが、間違いなく偽物だよ」

「まあ、常識的に考えれば、そういうことになるよな」宇留井はにやにや笑いながら言った。「でも、散逸したということは、どこかに存在していたということだろう? 消滅したと証明されているわけではないから、写本が発見される可能性はゼロではない。叡理はそういうものを見つけ出すのも得意だったんだ。――だが、これが本物であるかどうかは、重要なことではないんだ。重要なのは、こうした本が実在し、ここにあるというなんだ」

 これを聞いた閏井は肩を竦めた。

「哲学的な話だな。金を持て余すようになると、禅だのストア学派だのにのめり込むという噂は本当だったみたいだな。貧乏が染みついているせいか、僕はそういう話は苦手なんだ。わかりやすく話してほしいな」

「哲学的な話じゃないんだ」そう言って宇留井は頭を掻いた。「稀覯本の世界では、偽物であろうと存在することことで価値をもつものがあるんだ。とくに魔道書などはね」

 そう言って宇留井は冷ややかな笑みを浮かべた。その瞬間、中学三年の頃のことがトラウマのフラッシュバックのように蘇り、閏井をたじろがせた。

 中学生の頃、純粋な美少年で表情も柔らかく優しげな態度の宇留井は、学年を超えて多くの女子から好意を寄せられていた。一方、見た目はそっくりでありながらシニカルで横柄な閏井には、多くの少女が警戒心を顕わにした。そのくせバレンタインやクリスマスなどでプレゼントを受け取るのは、もっぱら閏井の方であった。

 プレゼントをくれた女の子の中の一人は、閏井の方も入学当初から意識していた子であった。そこで閏井は勇気を出して、その子を映画に誘ってみた。

 ところが、声をかけたとたん、その子はフリーズしてしまった。長く気まずい沈黙の後、その子は消え入るような声で「ごめんなさい。プレゼントは健一君にあげたつもりだったの」と言った。

 それだけならば彼も笑い話にできたのだが、その子はそのまま早退してしまい、続く一週間学校を休んだ。これにはさすがの閏井も傷ついた。

 その後、閏井は三十代半ばまでの間に四人の女とつき合ったが、いずれの女も「あなたといると息が詰まりそうになる」と言って去っていった。

 そうした別れのたびに、彼は映画に誘った女の子のことを思い出すのであった。

 そんなつまらないことを思い出したことを顔に出さないようにして、閏井は言った。

「あちらのガラス戸のついた本棚には、どんな本が入っているんだい?」

「あれか。あそこには、曰く付きの本が入れてあるんだ」

 強化ガラスの部屋の中の書棚は身廊の信徒席のベンチと同じように、通路とは垂直方向、すなわち西向きもしくは東向きに置かれていたのだが、そのガラス戸が嵌められた書棚だけは通路と平行に置かれて、その中に納められている本を誇らしげに見せつけていた。

「これはこれは」書棚の前に立った閏井は言った。「中世の写本のコレクションかね? この小振りの本は中世の貴族が私的な祈祷に使った時禱書じとうしょだね? やはり中は豪華な細密画ミニアチュールで飾られているのかい?」

「その通りだよ。その隣りにある赤い本は、フランスの殺人犯の皮で装丁された当時の事件簿だよ。人皮の本なんて悪趣味極まりないが、十八世紀頃のヨーロッパではさほど珍しくなかったんだ。――ああ、申し訳ないが、この中の本は、君にお見せすることはできない。本の保存とかいったことではなく、君の安全のためだ。この中の本はどれも強い呪いがかかっているんだ」

 閏井はそう言うと、書棚のガラス扉をハンカチで拭った。

「呪いって、そんなもの本当にあるのかい?」閏井は友人がどこまで真面目に話しているのか測りかね、冗談めかしてそう尋ねた。「その本に触れたら病気になるったりするのかい?」

「そんな生やさしいものじゃない」真顔で首を横に振って宇留井は言った。「足元の地面が突然崩れて地獄に堕ちるとか、体が燃え上がったまま消すことも死ぬこともできない――この程度で済めば幸運な方だよ」

 閏井は呪いの内容より、それを信じ切っている宇留井の様子にぞくりとしながら、さらに尋ねた。

「そんな恐ろしい呪いがかかった本を、君はどうやって書棚に入れたんだい?」

「僕には触れることすらできないよ」宇留井は笑って言った。「この中の本を扱えるのは、叡理と彼女の直弟子でもある麻利だけだ」

 閏井は、自身の鏡像そのままの友人の顔をじっと見つめ、その中に狂気が巣くっていないか読み取ろうとした。

 常軌を逸しているといえば、すべて説明はつく。このとてつもない〝自宅〟も、人を地獄に突き落とす呪いの書も。しかし、彼の目は少年の頃と同じく、悲しいまでに冷静で内省的だった。

 閏井は言った。

「じゃあ、そんな恐ろしい本をどうするつもりだったんだい、君の奥さん――いや、前のパートナーは?」

 その言葉に宇留井の表情が一瞬揺らいだ。彼は小さく首を振り、「いや、叡理は今も僕のパートナーだよ」と言った。「叡理がこうした本を集めたのは、魔力というものの本質を知り、それをコントロールする方法を見つけるためだったんだ」

 宇留井の話は現実を逸脱する方向に進む一方だったが、閏井はひとまず話を合わせることにした。

「で、それは成功したのかい?」

「ああ、もちろん」宇留井は誇らしげに言った。「もともと魔力は彼女に属するものなのだからね」

「叡理さんに属するものだって?」

 閏井は反射的にそう問い返したが、宇留井はそれには答えず、パンツのポケットからスマホを出して、そのディスプレイに目をやった。そして、にやりと笑うと「どうやら、招かざる客がお見えのようだ」と言った。

 それから執事に電話をかけ、

「内藤君、例の三人組がまだ敷地の境界をうろついているようなので、池井君か浜口君を連れて警告をしに行ってくれ。防犯装置が作動しているので、敷地に入ろうとすると命の危険もあるとね」

 と指示を出した。

「なんだい? なにやら物騒な話をしていたが」

 通話が終わるのを待って閏井が尋ねると、大富豪の友人は苦笑してみせた。

「金持ちが僻地で隠遁生活していると、カモだと思う愚か者がいてね、時折、周囲をうろついていくんだよ。役所や警察を騙って訪ねてくる剽軽な連中はインターフォンで門前払いするからいいんだが、不法侵入しようとする馬鹿者が時折いてね。危なくていけない」

「それは、本当に恐いな。警察に通報した方がいいんじゃないか?」

「危ないのはこちらではなく、連中の方さ」宇留井は首を振って言った。「この辺は野獣も多くてね、噂ではニホンオオカミもまだ生息しているそうだ。なので、敷地には隙間なく電気柵のセキュリティ装置が設置されている。それもピリッときて驚かすといったおもちゃみたいなものじゃない。条件がそろえば、一瞬で天使に会えるという代物だよ。だから、警告が必要になる」

「そんな警戒が必要なら、都会に住んだらどうだ?」ゴシック小説の世界からハードボイルドの世界に転送されたような気分になりながら閏井は言った。「警察や警備会社がすぐに駆けつけてくれる」

「東京の宝飾店が年にどれくらい窃盗の被害にあっているのか知っているかい? 都会に住んでいても強盗に殺される者はいる。警官や警備員が駆けつけた時は、大概犯人が逃げた後だ。違うかい? しかも、都会では電気柵で敷地を囲うわけにはいかない」

「しかし、それで本当に人が死んだりしたら、君も面倒なことになるんじゃないか?」

「柵に近づけばライトがつき、四カ国語で警告が流れる。表示もある。それでも触れたなら自己責任さ。だが、電気柵で即死した方がまだラッキーだよ。下手に邸内に忍び込むことができて、ここの本を盗もうなどとしたら……。ここの本にに、あの書棚のものほどではないにしても、呪いがかかっているのが少なくないんだ。もし、そんなものを盗ったとしたら、その者は生まれてきたことを後悔することになるだろうね」

「おいおい、そういう安っぽいホラー小説みたいな台詞はやめてもらいたいな。それより、この聖堂の案内に戻ってくれないか」

 閏井が鼻白んだ顔でそう言うと、宇留井ははっとした表情になって閏井を見返し、それから両手で顔を洗うかのようにごしごしこすった。

「すまない」彼はかすれた声で言った。「ちょっと脱線がすぎたな。こんな僻地に隠棲していると、やはり精神のバランスが崩れてしまうんだよ。妙なことに強いこだわりをもったり、つまらぬことを話し続けたりしてしまうんだ。――それとも、これは老化現象の始まりかな? 君はどうだい? そんなことはないか?」

「そんなことって、老化現象のことかい?」閏井はすっかり白けた気分で言った。「それは鏡を見るたびに思い知らされているよ。フィールドワークを続けているから足腰は年齢よりずっと若いと思っているけれどね」

 そう言いつつ閏井は、《今、目の前で項垂うなだれている男の顔、それこそが彼が毎日鏡の中に見ているものさ》と思った。

 と、その瞬間、閏井は胃のあたりがすうっと冷えて、全身に悪寒が走るのを感じた。自分が宇留井の首を絞めて彼を殺す場面が、脳裏に浮かんだからだ。

《冗談じゃない。それこそ『ウィリアム・ウィルソン』じゃないか》

 彼は頭の中で自分にそう毒づき、不吉な空想を追い払った。

「ええと」宇留井が戸惑った様子でそう言い、閏井は我に返った。「何を話していたのだったかな?」

「君の屋敷の完璧な防犯装置についてだよ」と閏井は言った。「犯罪者を瞬時に天国か地獄に送り込むことができるという」

「完璧か……」宇留井は自嘲めいた口ぶりでつぶやいた。「実はそれらには防犯以外の役割もあるんだが、それについては儀礼の前に話すよ。儀礼の意義を理解した上でないと、わからないと思うのでね」

「ずいぶん勿体もったいつけるんだな」横目で宇留井の表情を窺いながら閏井が言った。「まあ、いいか。それより、もう少し本を見せてくれないか? 僕が愛書狂だと知っているんだろ? それに、君も僕に見せたい本があるんじゃないかい?」

「ああ、そうだった」宇留井はぱっと表情を明るくした。「の研究の核心に関わる本があるんだよ。こっちだ」


 再び宇留井は先になって、かつての身廊の中央通路を歩んでいった。本を保護するためか、奥に進むにつれて照明が暗くなっていた。天井の投光器も、いつの間に消されていた。

「ここらは和書が入れてあるんだな」

 歩きながら左右の書棚を確かめていた閏井が言った。

「ああ、漢籍と半々といったところかな。――ああ、これなんか、君は好きなんじゃないかい?」

 宇留井は棚に横積みにしてあった和綴本の中から、黄色い表紙の分厚い本を取り出して閏井に渡した。その表紙を見て閏井は「なるほど」と言った。

「『簠簋内伝ほきないでん』か。コレクションの傾向から、これくらいはあるだろうと思ったよ」

「『簠簋内伝』には違いないが」宇留井はにやにやしながら言った。「君が知っている『簠簋内伝』とはちょっと違う。表紙の題簽だいせんをよく見たまえ」

「ん?」

 閏井は眉を顰めて本に目を落とした。

「えっと、『陰陽道おんみょうどう管轄かんかつ簠簋内伝ほきないでん金烏玉兎集きんうぎょくとしゅう』――なるほど、始めに『三国相伝』がついてないな」

「そういうことだよ」宇留井は続きらしいもう一冊を棚から取り上げると、始めの方のページを開いて閏井に見せた。「三国を伝来していない、つまりオリジナルというわけだ。日本で普及している『簠簋内伝』は安倍晴明が唐に渡って伯道上人から授かってきたものということになっているが、それは完本ではなかったのだよ。日本で普及している『簠簋内伝』は全五巻だが、それは七巻ある」

「確かに、こうした医療呪術的な記述は見た覚えがないな。しかし、この写本はさほど古いように見えないが……」

「奥付の記述では鎌倉前期に筆写したことになっているが、紙質や書体からすると、室町後期か江戸初期だろう。表紙は明治になってから付け替えられている」

「そんなところだろうなあ。虫食いの跡がまったくないのが不審だけど……。で、なんで残りの二巻は日本に伝えられなかったんだい?」

「肉体が朽ちて骨がバラバラになった死人でも蘇生することができる、本当の泰山府君法が説かれているからだとされる。ほら、蘆屋道満あしやどうまんに殺された安倍晴明を伯道上人が復活させたあの術さ」

「あれは伝説だろ?」

 と閏井があきれたように言うと、宇留井は真面目な顔つきで首を横に振った。

「伝説は奥義や秘伝を伝えるための箱や封筒みたいなものだ。それ自体は中身とは別物だが、それが伝わる上で重要な働きをする」

「なるほどね。では、この幻の二巻に記された泰山府君法を用いれば、死者は本当に蘇るのかい?」

 宇留井は肩を竦めた。

「まあ、無理だろうね。せいぜいぼーぼーうめく泥人形ができるの関の山だ。ほら、歌人の西行が山中での一人暮らしに絶えかねて人造人間を作ったけれど、色は悪いし下手な笛のような声しか出せないものだったので、山奥に捨ててしまったという話が、『撰集抄せんじゅうしょう』にあるだろう? あれさ。どこで見たのかわからないが、西行はこの巻の内容を知っていたのだろうね」

「まるで試してみたような口ぶりだな。しかし、墓場から拾ってきた骨をつなぎ合わせて人造人間を作るなんて、江戸時代の読本よみほんか終戦直後のカストリ雑誌にでも出てきそうな話じゃないか」

 閏井がそう言うと、宇留井は真面目くさった顔で「人造人間を作るというのは確かに噴飯ものだが、死者を蘇らせるというのは、まんざら法螺ほらでもないんだ」と言った。

「比喩的な意味ではなくて?」

 閏井は向き直って瓜二つの友に尋ねた。宇留井は「ふむ」と言って腕を組んだ。

「プラトンによれば我々はイデアの影を見ているにすぎないそうだ。そういう意味では、この世のすべての事象はすべて比喩だ。互いが互いのドッペルゲンガーである我々は、ひょっとしたら同じ一つのイデアの二つの影かもしれないな」

 そう言って宇留井がにやっと笑ったのを見た瞬間、閏井は彼が本当に鏡像であるように思えてぎくりとした。

「我々がイデアの影であるならば、我々の死は実体が光源を失っただけにすぎないことになる。再び光を得ることができれば、また姿を現わすことになるんじゃないか?」

「だから、復活は可能だと?」

 と閏井が挑むように言うと、鏡像を思わせる老いた美少年は、にやにや笑いながらうなずいた。

「思考実験上ではね。当然のことながら、実践するのは容易なことではない。『簠簋内伝』や西行の話などは、一種の失敗の記録だ。もちろん、失敗からも学ぶことは多い」

「学んだ末にどうするんだい? 君も誰かを復活させるのかい?」

 彼がそう言うと、宇留井は黙ってうなずいてみせた。

 閏井はそれ以上その話を続けるのが急に恐ろしく感じられて、その場を離れて書棚の奥へと歩んでいった。

 閏井は無作為に何冊か和装本を手に取ってみた。

「『抱朴子仙薬篇』、『黄帝九鼎神丹経』、『開宝本草』、『図経本草』……、漢方薬店でも開くつもりかい?」

 閏井がそう軽口を叩くと、聖堂の主は彼の手の中の本をちらりと覗き込んで言った。

「ああ、それらは医薬用語の使い方を調べるために備えてあるんだ。――まあ、『簠簋内伝』同様、あまり役に立たないんだが」

 和漢書の棚の奥は中世のものと思われる洋書、それもオカルト関係とおぼしいものが並んでいた。それらの書名にいちいち感嘆する閏井を、宇留井は満足げな表情で見つめていた。

「ジョン・ディーの『ソイガの書』にアルベルトゥス・マグヌスの『被造物大全』、アントニア・デル・ラビナの『大魔法書』――」そこまで言って閏井は振り返った。「ここにあるのは『ピカトリクス』だね? まさか、本物ってことはないよな?」

 宇留井はその本の背をちらりと見て言った。

「本物? 大英図書館が所蔵している写本という意味かね? そうだとしたら、もちろんノーだよ。大英図書館本はアラビア語の魔道書『ガーヤト・アル=ハキーム』のラテン語訳とされるが、これは同じ原典のスペイン語訳からラテン語にしたものだよ。制作された時期はこちらの方が百年ほど新しいようだ」

「アラビア語から翻訳された魔道書か、どこかで聞いた話だな」

 閏井がそう言うと、宇留井も笑った。

「そうだな。――ちなみに、アラビア語原典は、その上の棚にある。影印版だけどね」

「すごいな、アラビア語も読めるのか君は?」

「いや、僕はダメだ。ラテン語がやっとだよ。けれど、叡理はすらすら読めた。ペルシャ語もアラム語も中世英語もネイティブ並みに読み書きができた。いつ、どうやって勉強したのか、想像もつかないが、彼女に言わせると、それらの言葉は覚えたのではなく、もとから頭の中に入っていたそうだよ。――それより、君こそすごいじゃないか。これらの本の書名を一目で見分けるなんて、オカルト書のコレクターのレベルだな」

「コレクターになるには資金力が欠けているよ」閏井は苦笑して言った。「十四、五年ほど前だったかな、キリシタン弾圧と魔女裁判の比較研究を考えたことがあってね、オカルト関係の本を読みあさったんだ。結局、オタク的な知識が増えただけに終わったがね」

 閏井はその頃の自分を思い起こして苦笑した。

 当時、閏井は、地方に隠棲しながら常に学界の注目の的であった宇留井に、強い嫉妬と引け目を感じていた。それでマスコミ受けしそうな研究テーマを考えたのだった。

 しかし、学界はもちろんマスコミもなんの反応もなく、二年間の努力は成果も利益も生まぬまま潰えたのだった。この失敗の精神的ダメージは大きく、その後の一年間は重苦しい気分から抜け出せずにいた。

「ああ、これは知っている。『クラヴィクラ・ソロモニス』――『ソロモンの鍵』だね。こっちは『ル・グラン・グリモワール』――『文法大全』ならぬ『大奥義書』だね。魔女裁判についての下調べでオカルト関係の本もいろいろ読んだんだが、そのほとんどにこれらの本が出てきたよ。しかし、まさかその魔道書の根本典籍の実物を、この目で見ることになるとは思わなかったな」

「それだけで驚かれては困るな」宇留井は両手を擦り合わせながら、自らの似姿である友人の横に立った。「その隣の本は『教皇ホノリウスの魔法書』だよ。これと『ソロモンの鍵』『大奥義書』で三大魔法書と呼ばれている。だが、書誌学の上から言って貴重なのは、その三冊ではなく――喉から手が出るほど欲しがっている者は少なくないだろうが――、その下の段にある『アルバテル』だよ。魔道書グリモワールの研究書などには、九巻ものと称しているが実際には第一巻しか書かれていないと思われているとあるが、ここにあるのは全九巻揃った完本だよ」

「本物かい?」

 閏井が振り返ってそう言うと、鏡の中の自分にそっくりな男が肩を竦めた。閏井は一瞬たじろいだが、重ねて質問をした。

「アルバテルって、どういう意味だい?」

「天使の名前だという説があるよ」と宇留井は言った。「ここに書かれている内容を教えた張本人の名前ということだね」

「天使が黒魔術ゲティアを教えたというのかい?」

 と閏井が言うと、宇留井は眉を上げて訂正した。

白魔術テウルギアもね。――だが、驚くほどのものではないだろう。悪魔は天使の一ジャンルだからね」

 閏井は苦々しい記憶を振り捨てるように別の書棚の前に進み、その中の一冊に手を伸ばした。

「これはギリシア語かい? えっと、アポクリファ……、『デミウルゴスのアポクリファ』かい……?」閏井は本を引き出しながら言った。「ナグ・ハマディ文書に関連するものかね? 書名に見覚えがあるような……。昔、グノーシスが日本に伝わっていたという仮説も立てたことがあってね、何冊か関連書を読んだことがあるんだ。ぜんぜんものにならなかったけどな」

「ユニークな仮説だね」宇留井は嬉しそうに頬笑んで言った。「参考になりそうな文献が二、三あるから、後で進呈しよう。――その本は表紙と中身が異なっていてね、かつての所有者が製本した際に、意図的かどうかはわからないが間違った書名が表紙につけられてしまったんだ。中身は『ヤコブのアポクリュフォン』と呼ばれているもので、ナグ・ハマディ文書に同名のコーデックスがある。――あ、気をつけて開いてくれ。その本は羊皮紙ではなくパピルスだから、破れやすいんだ」

 驚いた閏井は開くのをやめ、近くの書見台までそっと本を運び、斜めになった台の上に静かに置くと、ゆっくりと本を開いた。

「ギリシア語――いや、コプト語か。いずれにしても僕には読めんな。挿絵はないのかい?」

「挿絵はないな」宇留井は苦笑して言った。そして、右手の人差し指を文書の上に置いてその一部を読み上げた。「『前に、主によってわたしとペトロにあかされた秘密の書を送ってほしいと、あなたに頼まれたが、その時は、断わることも、その場で伝えることもできなかった。そのあと、わたしはそれをヘブライ語で書いてあなただけに送った……』この部分はナグ・ハマディ文書とほとんど同じだ。だが、ナグ・ハマディ文書には肝腎な部分が欠落している。それゆえ『ヤコブのアポクリュフォン』は『とりとめのない内容』などと言われている」

「では、これには、その肝腎な部分があるというのかい?」

 閏井が本から視線を上げてそう尋ねると、宇留井は「そうだ」と言ってうなずいた。そして、慎重にページをめくり、本の中ほどのある一葉を親指と人差し指ではさんで閏井に示した。

「この一葉だ。これがナグ・ハマディ文書には欠落している。ここにイエスがヤコブとペトロにだけ教えた〝秘密〟が記されている」

「なんだい、その秘密って?」

 閏井が重ねて問うと、宇留井はにやりと笑った。

「人を生き返らせる方法だよ。イエスがラザロを蘇らせた方法が、具体的に書かれているんだ」

「驚いたね」閏井は言った。「これが本当にナグ・ハマディ文書と同時代の写本だとすると、大発見じゃないか」

 そこまで言った時、閏井は、結婚前の宇留井が送ってきた手紙のことを思い出した。

「以前、君は、聖母しょうも神社にナグ・ハマディ文書の訳本と思われるものがあると、手紙で言ってきたけれど、これはそれと関係するのかい?」

「ああ」五秒ほど間をあけて宇留井は返事をした。その目はどこか虚ろだった。「そういえば、そんなことを手紙に書いたこともあったな。――そう、聖母神社にあったのも『ヤコブのアポクリュフォン』のバリエーションと考えられるものだった。もちろん、漢訳本だがな。……あの頃は、歴史的な大発見じゃないかと興奮したものだよ。聖母神社はグノーシスの神社じゃないかと考えたりしてね」

 閏井が笑って「まさか」と言うと、宇留井は真顔で「その、まさか、さ」と応えた。

「聖母神社が所蔵する儀礼関係の諸文献のうち室町後期から江戸初期のものを分析してみると、そう解釈した方が都合がいいものが少なくないんだ。もし、この仮設が正しいとすると、聖母神社の〝聖母〟とは、聖母マリアではなくソフィアのことだ」

「それが本当なら」閏井は興奮して言った。「本当に大発見じゃないか。学界には発表してないのかい?」

「していない」宇留井は首を振った。「僕は大発見だとは思わないよ。ネストリウス派もマニ教も中国まで伝わったことがわかっている。おそらく日本にも伝わっていただろう。だとしたら、グノーシスだって断片的には日本に伝播しているはずだ。つまり、聖母神社がグノーシスの神社だったとしても、それは予測の範囲内ということで、大発見なんかじゃない。仮に大発見だとしても、僕はそれを学界に発表する気はないよ」

「どうしてだい? 理論上予測されることでも、実証できるものばかりじゃない。ましても誰も考えていない可能性であれば、大発見と呼ばれる価値はあるだろう。たとえそれが大発見ではないとしても、その証拠をつかんだ君は学界に発表する学問的義務がある」

 閏井がそう言って詰め寄ると、宇留井は冷ややかな目で見返してきた。

「さっきも言ったように、僕が書いた聖母神社に関する論文は、すべて違う内容のものに変わってしまっている。『ヤコブのアポクリュフォン』について書いてみたところで、同じことになるだけさ。……それに、聖母神社自体もなくなってしまった。存在したことさえなかったことになっているんだ。『ヤコブのアポクリュフォン』の訳本と思われるものも消えてしまっただろう。もう証明のしようもないよ」

「聖母神社が存在しない? どうして?」

 閏井は呆然として聞き返したが、宇留井は首を横に振った。

「その話を始めると長くなるんだ。後できちんと話すから、今は本の話にしよう」

 そう言うと彼は、三大魔法書が並ぶ棚の左端に置かれていた本を引き出した。

「これさ、君に見せたかったのは。『黒い雌猫』という魔道書グリモワールだよ。これはナポレオン軍に従軍した男が、ピラミッドの秘密の部屋に住むトルコ人から教わったことを記したもので、一七四〇年に刊行されたとされているが、もちろん、そんないわれは真っ赤な嘘っぱちに違いない。魔道書グリモワールにはつきものの、今で言えば帯に書かれているキャッチコピーみたいなものだ」

 宇留井はそこまで言うと、一歩閏井に近寄り、声を落として話を続けた。

「重要なのは、この本を書くにあたって悪魔が力を貸したと伝えられていることだ。悪魔の協力のお陰で、元兵士の男は、一日で六百ページもあるこの本を、たった一日で書き上げることができたという。挿絵や文字飾りも含めてすべてだよ。そして、そのお礼に悪魔――ルシファーだとされる――の肖像を本に描き入れたんだ」

 宇留井は上気した顔で閏井に感想を求める顔つきをしたが、閏井は返事に困り、肩を竦めてみせた。宇留井は自慢のプラモデルを見せようとしてしている小学生のような顔をして、話を続けた。

「叡理はこの本をトリノの魔道書専門の古書店で入手したのだが、店主はその代金をけっして受け取ろうとはしなかったそうだ。なぜだかわかるかい?」

 閏井は「わかるわけないだろう」と言おうとしたのだが、自分自身としか思えない宇留井の顔を見た瞬間、違うことを口にしていた。

「叡理さんが持っているべきものだと考えたからか?」

 宇留井はうなずいて「そうだ」と言った。

「店主は叡理を一目見た瞬間、彼女が本をと気づいたそうだ。麻利と共におずおずと店内に入った叡理を、本で埋もれたカウンターの奥から土竜もぐらのように這い出てきて出迎えた老店主は、叡理にうやうやしく頭を下げて、『ついにいらっしゃいましたね』と言ったそうだよ」

「『ついに』かい? 叡理さんは、その方面ではかなりの有名人になっていたようだね」

 閏井がそう言うと、宇留井は意味ありげな笑みを浮かべた。

「叡理が彼に会うのは初めてだったが、店主は叡理のことをよく知っていた。一目で見分けられるほどにね。彼は片膝をついて叡理の手を取ると、『お待ちしておりました』と言った。そこで叡理が『黒い雌猫』がこの店にあると聞いてきたと言いかけると、彼はその言葉をさえぎり、『わかっております。少しお待ちを』と言って店の奥に行ってしまった。叡理は情報提供者から店主は『黒い雌猫』を決して売ろうとはしないだろう、本を持っていることすら認めないかもしれないと聞いていたので、裏口から逃げ出してしまったんじゃないかと危ぶんだのだが、彼はすぐに戻ってきた。『黒い雌猫』を手にしてね」

 そう言うと宇留井は、手にしていた本を開き、宇留井の目の前に差し出した。

 そこには女性の肖像が淡い色彩で描かれていた。

 それは古代ギリシア風の白いワンピースヒマティオンを着た若く美しい女性で、まっすぐ立って前を見つめていた。心持ち面長の顔は黒くまっすぐな長い髪で縁取られ、青く大きな瞳の目の上には、女性にしては太い眉が優美な三日月形を描いていた。均斉のとれた美しい両腕は胸の前で交差され、この本と思しい黒い本を抱いていた。

「これは……?」

「本の執筆と制作を助けたという悪魔の肖像だよ。――そして、叡理のポートレートでもある。だから、店主は叡理が本の真の所有者だとすぐにわかったのだよ」

「まさか、そんな……」

「信じられないというのかい? それなら来たまえ。叡理を紹介するよ」

 そう言うと宇留井は閏井の手を取り、書庫の通路を早足で歩きだした。

 書庫は二十メートルほどで終わり、その突き当たりにある強化ガラスの扉を、宇留井は押し開けた。そこは正統な聖堂であれば聖歌隊席クワイヤであるべき場所であったが、荘厳な彫刻で飾られるべきその場所は、奇っ怪な怪物の彫刻で覆われていた。

「なんだい、これは?」

 閏井が驚いてそう言うと、宇留井は笑って言った。

「クワイヤだよ。これは僕が改造したものではなく、もとからこの聖堂にあったものだよ。日本の八百万やおよろずの神々がキリストに信服した様子なんだそうだ。まあ、気持ちはわからんでもないけれどな。未知の多神教の国で布教しようというんだ。その国の神々――彼らに言わせればデーモン――をすべて屈服させてやる、そういう気概でこの修道院を建てたのだろう。――それも空しく崩れ去ってしまったわけだ。一夜にして修道士たちの命が消え去ってしまったために」

「またその話かい?」閏井は眉を顰めて言った。「君はよほど僕を怯えさせたいんだな」

「おやおや」宇留井は悪戯っぽく笑って言った。「いつからそんなに小心者になったんだい? こういう話は大好物かと思ってたよ」

「自宅のリビングとか研究室で聞く分にはね」閏井は憮然として言い返した。「ここは雰囲気がありすぎてゴシック小説の登場人物になった気分だよ」

「ゴシック小説とは、ずいぶんアナクロだな」宇留井はにやにやして言った。「そうしたら、僕はさしずめロデリック・アッシャーか悪魔に取り憑かれた城主といったところかい?」

「そんなところだな。いや、むしろ、悪魔そのものじゃないのか? 宇留井健一の肉体を乗っ取り、今度は僕の魂を狙っているんだろう?」

「悪魔だったら、そんな回りくどいことはしないよ」宇留井は苦笑して言った。「それに、肉体を奪うにしたって、美少年だった頃にやるよ。こんな老いぼれた肉体など、欲しがるものか」

「たしかにな」

 閏井も苦笑してうなずいた。 

「さあ、余計な話はもうこれくらいにしよう」宇留井は閏井の手を取って言った。「叡理はこの先のサンクチュアリにいる」

 宇留井が設置させたのであろう、サンクチュアリ――祭壇が置かれる聖堂でもっとも神聖な場所――は高さ三メートルほどの板壁で身廊から区切られていた。宇留井はその壁に取りつけられた扉を開けて、閏井を中ヘ導いた。

「あっ!」

 サンクチュアリに一歩足を踏み込み、中に目をやった瞬間、閏井は思わず小さく叫んでいた。祭壇の奥、半円形になった聖堂の奥壁のところ、本来なら十字架が立てられているべき場所に、若い女性が立っていたからだ。

 女性は三十代半ばくらいであろうか、中世ヨーロッパの女性が着ていたような丈の長い白いワンピース――コタルディ――を着て、聖母マリアのように両手を広げていた。黒く長い髪に白い透き通った肌、面長で彫りの深い顔立ちは、東洋人にも西洋人にも見えた。

「紹介するよ、彼女が叡理だ」

 宇留井は右手を上げて彼女を指し示し、そう言った。

「え?」

 閏井は絶句して修道院の主となった友人を見返した。柱の影に沈んだその顔は、皺や白髪が隠れ、少年の頃の面影を取り戻したかのように見えた。しかし、それは美少年の顔ではなく、古びてうち捨てられた人形のようであった。

「まさか、君は……」

 まるで生きているみたいな女性像を見上げ、閏井は恐る恐る尋ねた。宇留井は一瞬怪訝けげんそうな顔をしたが、質問の意味に気づき爆笑した。

「違う、違う。賢治君、これは違うよ。叡理自身じゃない。これはね、生前に作った彼女の生き人形だよ」

「生き人形?」

 閏井は額に滲んだ脂汗をハンカチで拭いながらつぶやくように言った。

「そうさ。後でくわしく話すが、彼女が死ぬひと月ほど前に、京都の職人に二体作らせたものの一つだよ。君は叡理の死体を晒しているとでも思ったのかい?」

「ああ。――いや」閏井は苦笑して口ごもった。そう言われてみると、自分の思い込みが三流ホラー小説みたいに荒唐無稽なものだと気づいたからだった。「叡理さんを礼拝するために剥製にしたのかと……」

 改めて見直してみれば、は確かに人形であった。その凍りついたような笑みはリアルすぎて遺体ではありえないし、かすかに開いた唇の朱色も血の色ではない。青みがかった瞳もガラスに違いなかった。しかし、前にいる何者かを抱こうとするかのように広げられた腕は、皮下に今も血が通っているような薄紅色をしており、細く長い指先はかすかに震えているようにすら見えるのだった。

「剥製か……、賢治君、君も見かけによらず、ひどいことを言うねえ」宇留井は皮肉っぽい笑みを浮かべて言った。「しかし、まんざら的外れというわけでもないんだ」

 閏井は自分の似姿が何を言っているのかわからず、「え?」と言ったまま、その顔をじっと見つめた。

「本当の叡理はこっちだ」

 彼は閏井の手を引いて祭壇の裏側へと連れていった。そこには黒檀製らしい縦長の箱が置かれていた。

「叡理はこの中だ」

 宇留井は愛おしそうに箱を撫でながら言った。

「じゃあ、これは……」

 閏井がそう言いかけると、彼は小さくうなずいた。

「ああ、棺桶だよ、叡理のね」

「この中に叡理さんの亡骸なきがらが……」

 閏井は聞くまでもないことを口にして友人の返答を待った。彼は再びうなずいて「そうだよ」と言った。

「この中で寝ている。まるで生きているかのようにね」

「そう、なのかい……?」

 閏井は棺の蓋をじっと見つめながら、つぶやくように言った。

「ああ」と宇留井は言った。「けれど、明日は完全に昔の通りになる。復活するんだ。君はその瞬間を目撃するのだよ」

 その時、閏井は自分がからかわれているのではないかと気づき、無理に笑って言った。

「そんなことを言って、この棺の蓋を開けたら、やっぱり人形が寝ているというんだろ?」

「ああ」宇留井は大きな溜息をついた。「あるいは君は、今の叡理の姿を見たら人形だと思ってしまうかもしれないな。――だが、この中にあるのは、叡理の本物の亡骸だよ」

「それが本当なら」閏井は背筋に冷たいものを感じながら言った。「君は法律を犯していることになるぞ」

「死体遺棄罪かい?」宇留井は笑いながら言った。「僕は叡理の亡骸を遺棄したりしてない。祀っているのだよ。ここは叡理を祀るための墓であり、聖堂なんだ。――それに、叡理は明日、復活する。そうすれば、もはや死体ではない」

「君はそんなこと、本気で言っているのか?」今や寒気が全身に及んできたのを感じながら閏井は憤然と言った。「十六世紀の魔術師にでもなったつもりか?」

「僕はきわめて本気だよ。正気でもある」宇留井は淡々と答えた。「もともとこの研究は叡理が始めたものなんだ。僕も最初は、君と同じことを叡理に言ったものだよ。だが、僕は間違っていた。彼女はわれわれとは異なる存在なんだ。彼女の死の直前になって、僕はようやくそれを本当に理解することができた。彼女は復活する。これは、あらかじめ定められていることなんだ」

「君らしくもない非論理的なことを言うなよ」閏井は宇留井がどこまで本気で話しているのかわからず、困惑しつつ、そう言った。「叡理さんは死んでしまったのだろう? 心臓も脳も活動が止まったと医者が判断したのだろ? そうなったらもう、生き返るなんてことはないんだよ」

「そうだ、叡理は確かに死んでいる。完全に死んでいるよ。僕自身で彼女の手を握り、胸に頬をあてて、体温がなくなり、心臓が止まったことを確かめた」宇留井は顔を紅潮させて言った。「彼女は死んでしまった。だが、死んでいることが重要なんだ。いいかね? 復活するには一度死ななければいけないんだ。日本の宗教学者はなにかというと擬死ぎし再生というが、擬死は所詮擬死にすぎない。本当に死ななければ、再生はないんだ。イエスもオシリスも完全に死んだのちに生き返った。そうだろ? 大国主神おおくにぬしのかみもそうだ。天照大神あまてらすおおみかみ須佐之男命すさのおのみことに殺されて、天岩屋あまのいわやで復活したんだ」

伊邪那美神いざなみのかみは生き返らなかったぞ。黄泉よみの国のものを食べて本当の死者になったため生き返ることができなくなった。ペルセポネーもそうだった」

「ペルセポネーは一年のうち三ヶ月冥界に住むことになったんだ」宇留井は淡々と閏井の間違いを正した。「それと、伊邪那美神は黄泉の国で黄泉大神よもつおおかみになったんだ。そのための死だったんだよ。そもそも伊邪那岐神いざなぎのかみの黄泉の国訪問が余計だったんだよ。彼女は生き返る気なんてなかった。黄泉大神として再生するつもりだったんだからね」

「神職が聞いたら怒り出しそうな説だな」

 と閏井が皮肉っぽく言うと、宇留井は小首を傾けた。

「純粋な神道とは言いがたいが、聖母しょうも神社の創建伝承でも、神は一度死んで蘇っているぜ」

「聖母神社というと、叡理さんの実家だね」閏井は棺をちらりと見て言った。「そこは神道化したキリスト教の神社なんだろ? 神道の例にはならないよ。それに、今は存在していないのではなかったかい?」

「まあな」

 宇留井は小さくうなずいた。

「さっき、その話を聞いた時に思ったんだが」閏井は宇留井の横顔に向かって言った。「聖母しょうも神社が消えてしまい、聖母しょうも神社について書いた君の論文も消滅してしまったのに、聖母しょうも神社宮司の娘である叡理さんは、どうして消えないんだ? 聖母(しようも)神社が幻だったのなら、叡理さんも幻のはずだ」

 すると、宇留井は腕を組んで考え込んでしまった。

「やはり、最初からちゃんと話さなければいけないな。――ともあれ、ここから出よう。ここにいると体力を消耗するんだ。寒くないかい?」

「ああ、すっかり冷え切っているよ」閏井は思いついたように両腕で自分を抱きしめながら言った。「ガラス張りの書庫は空調が効いていたからよかったが、ここは底冷えがひどいな。修道士たちはこんなところで祈りを捧げていたんだな」

「ここは夏でも冷えるんだ。三十分で指先の感覚がなくなるよ。でも、改修する前はそんなことはなかったんだ。むしろ石壁が海風を防ぐので冬は暖かく思えるほどだったという話も聞いているよ。ここが冷えるようになったのは、叡理の棺を置いてからだ。不思議なことに麻利だけは冷えを感じないんだ。ここに来ると誰もが凍えて早く出たがるのに、麻利だけは一日いても平気な顔をしている。時折、彼女はアンドロイドじゃないかと思うことがあるよ。――じゃあ、行こうか」

「ちょっと待ってくれ」宇留井がサンクチュアリを囲う板壁の扉に手をかけようとした時、閏井は手を伸ばして彼を引き留めた。「ここを出る前に、叡理さんの顔を見せてくれないか?」

 そう言ってしまってから、閏井自身がぎょっとした。そんなこと思ってもいなかったからだ。言われた宇留井の方も凍りついたような表情をしていた。

「いや、いいんだ」閏井はあわてて取り消した。「そんなことを言うつもりじゃなかったんだ。寒さのせいで頭が混乱したのかな?」

「そうじゃない」宇留井は低い声で言った。「それはきっと叡理の意志だ。彼女が君に顔を見せたがっているんだ」

「まさか、そんな――」

 閏井は寒さと恐れで全身が強く震えるのを感じながら言った。それまで棺の中に本当に叡理の遺体があるとは思っていなかった――宇留井は自分をからかうつもりでそんなことを言うのだろうと思っていたのだ――が、彼の今の反応から嘘ではないことを実感し、それによって恐怖心が一気に湧き上がってきたのだ。

「じゃあ、賢治君、こっちへ来たまえ」

 宇留井は再び祭壇の裏に回り、閏井が来るのを待った。閏井はもはや言い訳をする気にもならず、よろよろと歩いて棺の横に立った。

 すると、宇留井は棺をはさんだ向かい側に回り、棺の蓋に手をかけた。

「本当は明日の儀式の際に対面してもらうつもりだったんだが……。今がよいと彼女が考えたんだろう。――いいかい、開けるよ」

 そう言うと宇留井は、棺の蓋を遺体の足の方へ五十センチほどずらした。反射的に閏井は棺の中を覗き込み、そして、彼の方を見返している叡理と目が合った。

 「あっ」と叫びそうになるのをこらえて、目を見開いて見つめてみると、棺の中の叡理は目をしっかり閉じていた。

 閏井がショックを受けている間に目を閉じたというのではないことは明らかだった。なぜなら、棺に横たわっている美女は、間違いなく死んでいたからだ。

 たしかに、その遺体は人形のように整った美しい顔をしている。死後十年も経っているとは到底思えなかった。しかし、その肌に血は流れておらず、灰色に乾いていた。切れば血を流しそうな生き人形とは見間違えようもなかった。

「エバーミング?」

 閏井はそれだけ言うのがやっとだった。

「いや、そうした処置は一切していない。遺体が腐敗したり、ミイラ化や屍蝋化していないのは、彼女の意志のためなんだ」

「まさか……」

「彼女はすべて計算済みで死んでいったんだよ」宇留井は誇らしげな顔で言った。「叡理は病が悪化して死が避けられないとわかると、病気の進行を遅らせる治療は一切やめてしまい、生命活動が停止した後も生きていた時と同じような状態に保たれるよう肉体を改造することに傾注したんだ。肉食をやめて木の皮や根を食べる木食もくじきにして、日に三度オリーブオイルと椿油を肌に塗り込み、そして、ニガヨモギのお茶と没薬もつやくを混ぜたワインを日に何度も飲んだ。また、自身の死後に発動する遺体保存の魔法も少しずつかけていった。彼女が言うには、こうしたで遺体が保存されるのは十年が限度だそうだ。僕はそれまでの間に彼女の研究を受け継ぎ完成させて、彼女を復活させねばならない。そして、彼女の計算通り、僕は――いや、僕と麻利は、だ――、十年かけてすべての準備を整え終わり、彼女の復活の時を迎えることになったんだ」

 そう言うと、宇留井は棺の蓋を元のように戻した。

 棺が閉じる直前、叡理の口角がすうっと上がり笑ったように閏井には見えた。

 その笑顔は、いつかどこかで見た覚えがあった。

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