目を開けると朝だった。

 山の清水のように透き通った朝日が、カーテンの隙間から絨毯の上に差して、その唐草イスリム文様を生きているかのように浮き立たせていた。じっと見つめていると、その絡み合った茶や緑や赤の線が本物の蔓のようにぐんぐん伸びからまっていくように感じられた。

 閏井は軽い眩暈めまいを感じて目をつぶった。

 聖堂内で修道士たちに囲まれていたところまでが夢だったのか、窓の向こうに黒い鳥を見たのも夢だったのか、閏井は半睡半醒のまま考えた。

 そのまままた眠りに落ちかけたが、枕元の電話のベルで、乱暴に覚醒の側に引き戻された。

「やあ、お目覚めかね?」二十年くらい前の機種らしい電話の受話器の向こうから、宇留井が言った。「体調に問題なければ、八時半から朝食にしたいのだが。もし、もう少し遅くの方がいいのであれば、君の分は別にとっておくよ」

「おはよう」閏井は枕元のスマホを取り上げながら言った。待ち受けの画面には「07:45」が表示されていた。「大丈夫だ、きわめて調子いいよ。八時半に食堂へ行けばいいのかな?」

「ああ、そうだよ」なぜか宇留井はくすくす笑いながら言った。「飲み物はコーヒーでいいかね? それとも紅茶にするかね?」

「コーヒーでお願いする」

「了解」

 宇留井はくすくす笑ったまま内線電話を切った。


 閏井は大きく息を吐いてベッドから抜け出すと、バスルームに向かい、熱いシャワーを浴びた。さらに、毎朝の日課になっているストレッチをすると、ようやく意識も肉体も現実世界に戻ってきたように思えた。

 それから黒いコーデュロイのパンツと鉄紺てっこん色のハイネックセーターに着替えて、食堂に向かった。

 樫の一枚板の扉を開いて食堂に入ると、宇留井が昨夜と同じ席に座っているのが目に入った。その服を見て閏井はぞっとした。枯草色のフードがついた貫頭衣のようなものだったからだ。

「修道服みたいだろ?」閏井の視線に気づいた宇留井は言った。「でも、これはフリース生地だから暖かいんだ。それに、下に何を着ていてもわからないだろ?」

「まあね」閏井も席に着きながら言った。「でも、昨夜の夢見が悪かったのでびっくりしたよ」

「夢?」宇留井はテーブルに置かれていた銀のポットから新しいカップにコーヒーを注いで閏井に差し出した。「どんな夢だい? 修道士の幽霊でも出てきたのかい?」

「その通り」閏井はコーヒーにミルクを入れながら言った。「そこの聖堂の中に寝かされて、修道士たちににえにされるところだった」

「生け贄……」

 その言葉は少なからず宇留井に衝撃を与えたようだった。カップを手に持ったまま、しばらく考え込んでしまった。

「おいおい、正夢だって言うんじゃないだろうな」

 その様子に少し不安を感じた閏井は、冗談めかしてそう言った。宇留井は頬笑んで首を横に振った。

「まさか。僕のドッペルゲンガーである君は、僕にとって唯一無二の存在だ。生け贄になどしない。立会人として儀礼に臨んでもらうだけだよ」

「なら、いいんだが……」

「ここが元修道院だからなのか」宇留井は自分のカップにもコーヒーを注ぎながら言った。「ここに泊まる人の多くが修道士の夢を見るんだ。目の前に修道士たちの墓があるせいなのかもしれないが、その話をしたのは君だけだよ。そのほかの連中――といっても三、四人にすぎないんだが――は、そういうことは何も知らずにここに泊まり、修道士の夢をみたんだ」

「なんだ、いよいよ怪談めくじゃないか」

 閏井がおどけてそう言うと、宇留井は首を横に振った。

「修道士の夢といっても、修道服のようなものを着た男が歩いていたとか、回廊跡で祈っていたといったもので、君のように生け贄にされかけるなんて十九世紀のホラーみたいな夢をみた者はいないよ。そもそもここに住んでいる僕は、一度もそうした悪夢はみていないんだ、残念なことに。悪霊とかが取り憑くのなら、まず僕からだろう? だが、このようにぴんぴんしている。だから、気にすることはないよ」

「気にしているわけじゃないさ。この屋敷の雰囲気に呑まれただけだろうし。しかし」閏井はにやにや笑って友の顔を見た。「必ず修道士の夢を見る宿と称して宣伝したら、人気が出るんじゃないか? 世界中からユーチューバーとかインスタ中毒の娘たちとかが押し寄せてくるぜ」

 すると、宇留井は「よせよ」と言って眉をしかめた。

「静謐を求めてここまで来たんだ。そんなこと、想像するだけでぞっとする。それこそ悪夢だ。――ああ、朝食の用意ができたようだ」

 閏井がはっと振り向くと、いつやって来たのか、麻利が大きなプレートを両手に持って後ろに立っていた。

「どうぞ」

 低いが耳にはっきりと残る声で彼女はそう言うと、右手に持ったプレートを閏井の前に置いた。プレートには、ソテーしたソーセージとオムレツ、ハーブのサラダ、マッシュポテトが抽象画のように盛られていた。

 同じものを宇留井の前に置きながら彼女は言った。

「今、パンとアップルジュースをお持ちしますが、ジュースは冷たいままでよろしいですか? それとも温めましょうか?」

「冷たいままで。……それより、奥さんの分は――?」

 閏井がそう言うと、麻利は儀礼的な笑みを唇の端に浮かべた。

「わたくしはもうすませました。わたくしはもともとメイドですので、こうして給仕している方が落ち着くのです」

「そういうことなのさ」宇留井はナイフとフォークを取りながら言った。「僕らの夫婦関係は昨夜言った通りだ。僕は麻利を金で縛っているわけではないし、使用人としてこき使ってわけじゃない。好きにしてもらっているんだ。まあ、僕としては奥様然としてほしい気もするのだがね。――ちなみに、この料理はパンも含めて麻利の手作りだ」

 宇留井がそう語っている間に、麻利はてきぱきとパンとジュースを配り、コーヒーポットを交換してキルトのカバーをかけた。

「では、ごゆっくり。ご用がありましたら、お呼びください」

 と麻利が言うと、宇留井は振り返って彼女に声をかけた。

「こっちはもういいよ。食事が済んだら賢治君を聖堂に案内するので、中を確認しておいてください」

「承知しました」麻利は会釈して言った。「聖堂の確認をしてまいります」

「うん」と宇留井は言った。「確認がすんだら、準備の続きを頼みます」

 それからしばらく二人は黙って食事を続けたが、五分ほど経った頃。宇留井がぽつりと言った。

「あの修道士の夢の話、麻利には言わないでくれ。恐がるといけないから」


 食後、閏井はいったん部屋に戻り、芥子からし色のセーターの上に黒いジャケットを着込んだ。

 聖堂に入るのだから少しはきちんとした格好をした方がいいだろうと思ったのだ。それに、宇留井は何も言わなかったが、聖堂の中はきっと寒いに違いなかった。

 宇留井は玄関で待っていた。彼も黒いジャケットを着ていたので、二人並ぶと登校途中ので出会った制服姿の高校生のようであった。宇留井も同じ感想を抱いたようで、

「子どもの頃にテレビで見たコントみたいだな」

 と苦笑して言った。

 その笑みを見て閏井はぞっとした。老いた美少年はおぞましいと感じたからだ。そして、それは、彼自身に対して他人が抱く感想でもあるはずだった。

「たしかに」閏井は今思ったことが顔に出ないよう注意しながら言った。「ひょっとして聖堂の天井から金盥かなだらいが落ちてきたりするのかい?」

「君の歓迎用に仕掛けておくべきだったな」宇留井は愉快そうに笑って言った。「残念ながら、そういうギミックはないよ。耐震補強もしてあるから、震度七の地震が起こっても、天井が落ちることもない」

「それは安心だ」

 閏井は低い声で言った。

「そう」宇留井はうなずいた。「その意味では安心だよ。その意味ではね。アッシャー家のように真っ二つに割れて沈んでいくようなことはない」

「たとえ墓所から死者が蘇ってきても?」

 閏井がそう言って宇留井の顔を見ると、彼はしばらく黙って見返していたが、やがてゆっくりと言った。

「たとえ死者が蘇ってきても、建物が崩れることはないよ。――でも、『アッシャー家の崩壊』で墓所から戻ってくるのは死者じゃない。早すぎる埋葬をされたマデラインだよ」

「そうだったかな」閏井は頭を掻いて言った。「ずいぶん昔に読んだので忘れてしまったよ」

「よければ今夜のナイトキャップ用に貸そうか。書斎に原書も訳本もあるよ。――では、聖堂にご案内しよう。――君も知ってのように、聖堂には正面玄関というべき西側のナルテックスとは別に、南北にも出入口がある。ここもそうであったのだが、管理上の都合から南北の扉は閉鎖してある」

「防犯のためかい? それとも結界とか?」

「どちらも違うね」宇留井は苦笑して言った。「内部の温度と湿度を一定に保つためだよ」

「この広い空間をかい?」閏井は驚いて瓜二つの友人の顔を見返した。「美術館にでもしてあるのかい?」

「当たらずと雖も遠からず、といったところだね」宇留井は顎を撫でながら言った。「この中には貴重なコレクションが数多く収蔵されているんだ。数からいえば写本などの書籍が大部分だが、最も重要なものは聖堂の心臓というべきサンクチュアリに安置してある。そして、それらのものすべてが、なんだよ。そう、もはやここはキリストのための聖堂などではない。叡理の廟堂マルティリウムなのだよ」

 宇留井の変に張りつめた様子に戸惑った閏井は、わざと軽口を叩いた。

「ずいぶん大胆な発言だな。それこそ、修道士の幽霊たちが墓から出てきて異端審問を始めそうだ」

「出てこられるものなら、出てきてほしいものだな」と宇留井は、孤高の研究者が稀に見せる狂信的な目つきで言った。「喜んで儀式に招待するよ。叡理もきっと喜ぶだろう」

 そこまで言って宇留井は口をつぐみ、首を横に振った。

「いや、すまない、変に興奮してしまった」と宇留井は言った。「儀式の実施を目前に控えて、自分で思う以上に緊張しているようだ」

「こちらこそ、すまなかった」閏井は友人の顔を覗き込むようにして言った。「配慮に欠けた発言だった。――しかし、君はいったい何をやろうとしているんだい?」

 宇留井は深呼吸をすると、理知的な学者の顔を取り戻して言った。

「ああ、それは、おいおい説明するつもりだ。それにはまず、聖堂の中を見てもらう必要があるんだ。儀式はまさにここで行なわれるのだからね。――さあ、入りたまえ!」

 閏井は立ち止まって聖堂のファサードを見上げた。そして、自分が誤解していたことに気づいた。

 聖堂はロマネスク様式ではなく、ゴシック様式で建てられていたのだ。

 横に三つ並んだ扉の上には尖頭アーチ形のティンパヌムがあり、その両脇の列柱は細く天に向けて伸び上がっていた。そして、ティンパヌムの上部には、小さいながらも薔薇窓もあった。

《どうして見間違えたのだろう?》

 閏井はそう自問したが、答えはすぐにわかった。このゴシック様式の聖堂には塔がないのだ。

「この聖堂には塔は建てられなかったのかい?」

 振り返って宇留井に尋ねると、彼は生真面目な様子で首を横に振った。

「いや、あったよ。そんなに高いものではなかったようだが、先端が尖った塔が左右に建っていたようだ。だが、不必要なので、再建はしなかった」

「必要ない? どうして?」

 閏井は驚いて問い返した。宇留井は閏井の目をじっと見つめて言った。

「求めるべきものは天にはないからだよ」

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