命に代えてもー1
「私と離縁してください」
琴禰は真っ直ぐな瞳で煉魁を見つめた。
煉魁はまるで、時が止まったように感じた。可愛らしい唇から一番聞きたくない言葉を吐かれたのだ。
胸に深く突き刺さった言葉の刃は抜けそうもない。
(やはり、そうか……)
昨夜煉魁は、琴禰と澄八の逢引きを見てしまった。
厠へ行く琴禰の気配を感じ、目が覚めたのだ。
全てを吐いてしまった方が良いと侍医から聞いていたので、少し安心した。
琴禰の様子を見に行くために部屋を覗くと、琴禰は布団に入って安らかに眠っていた。
襖を閉めようとした時、何かの違和感に気が付いた。
煉魁でなければ誰も気が付かないであろう術式の気配だ。
(これは、祓魔の力?)
煉魁は琴禰に近付き、布団をはぎ取った。しかし、琴禰はすやすやと眠り、起きる気配もない。
(これは琴禰ではない)
しかし、琴禰の術式だ。つまり琴禰は、自らの意志でいなくなったのである。琴禰の姿に似せたものを寝かせ、煉魁を欺こうとしてまで。
何事もなかったかのように布団をかぶせ、煉魁は外に出た。
後を追おうにも、琴禰の気配は消されている。
(さすがだな、琴禰)
煉魁は苦笑いを浮かべると、神経を研ぎ澄ました。
木の葉のざわめき、土が踏まれた足跡。自然のわずかな変化から、琴禰の居場所を探る。
(あっちだ)
一足飛びで向かうと、そこには澄八と琴禰がいた。
やたらと距離の近い二人を見て、煉魁はその意味を知る。
(あいつに会いに行くために部屋を抜け出したのか?)
その理由は考えるまでもない。
二人の関係はただの幼馴染ではないということだ。
二人の間には、何か強烈な絆のようなものを感じ取っていた。
あやかしの国に、琴禰を探しにやってきた澄八。
そして、澄八を好きだった琴禰。
(そうか、そうだったのか……)
煉魁はこれ以上二人を見ていたくはなくて、静かに寝室に戻った。
そして今。
離縁を告げられた。
信じたくない現実が、目の前に差し出された。
「それは、澄八と一緒になりたいからか?」
煉魁は呆然と佇みながら聞いた。
琴禰は、煉魁がそんな勘違いをしていることに驚きつつも、その方が、都合がいいかもしれないと思った。
「……はい」
琴禰の胸は引き裂かれそうになるほど痛かった。
しかし、煉魁も同じように痛かった。いや、琴禰以上に抉られるように苦しかった。
「あいつはもう人間界に帰った」
「はい。ですから私も、人間界に帰ろうと思います」
そうくるとは思わなかった。
昨夜、二人が逢引きしていたのは、人間界に戻って一緒になる約束をしていたのかもしれない。だから急に、こんな……。
「人間界に戻ったら寿命が短いのだぞ? ここにいた方がいいだろう。ここなら何でもある」
「でも、人間界は私の故郷です」
「殺されかけたのだろう? そんなところに戻っても、また傷付くだけじゃないか!」
煉魁は悲痛な面持ちで声を荒げた。
「澄八さんが、私を守ってくださいます」
煉魁は言葉を失った。
命が短くなろうとも、再び虐げられるとしても、それでも澄八の元に行きたいというのか。
(それほどあいつが好きか)
やはり、種族の壁は越えられないのだろうか。
幸せだったのは、愛し合っていると思っていたのは、自分だけだったのだろうか。
煉魁は、足元が崩れ落ちたかのように不安定になり、ふらふらとよろめいた。
琴禰の幸せのためなら、何でもしてやりたい。
琴禰が望むことなら、何でも叶えてやりたい。
琴禰のためなら、自分の命すら投げ出せる。
だが、この願いは受け入れることはできない。
「駄目だ、離縁は認めない」
煉魁は、はっきりと拒絶した。
「そんな!」
琴禰は顔を上げ、煉魁に詰め寄る。
「人間界に戻ることも許さない。琴禰は俺の側にいるのだ」
「それは駄目なのです、それはできないのです! 煉魁様!」
琴禰は懇願するように切迫した面持ちで叫んだ。
「必ず幸せにする。約束する。だから俺の側にいろ、琴禰!」
幸せにする自信があった。
誰よりも琴禰を愛しているし、生涯愛し続けると誓える。
あの男の元にいけば、琴禰は不幸になる。あいつは腹黒い邪な気が内側から漂っている。琴禰を幸せにできるとは思えない。
琴禰の幸せを一番に願うからこその言葉だった。
琴禰は煉魁の目を見つめたまま、大粒の涙を零した。
溢れ出る涙に、煉魁はたじろぐ。
抱きしめてあげたいが、嫌がられるかもしれないと思い、手を引っ込める。
琴禰は止まらない涙を隠すように、両手で顔を覆った。
そして、信じられない言葉を呟く。
「離縁していただけないのなら、いっそ私を殺してください」
心が凍り付く。
(それほどあいつが好きか……)
煉魁は、深い絶望の闇に突き落とされた気分だった。
これほど強く望んだことはなかった。他には何もいらない、琴禰がいればそれだけでいいのに。
たった一つの願いさえ叶わない現実を前に、虚無感に襲われる。
「死ぬことも、離縁することも、人間界に帰ることも許さない」
非道な煉魁の言葉に、琴禰は膝から崩れ落ちた。
声を上げながら泣く琴禰を見下ろすことしかできない。心の冷たさが体に伝染していき、指先が凍えるように冷たくなっていた。
「煉魁様、私は、私は……あなたを殺すために花嫁になったのです」
琴禰の告白に、煉魁は目を見張る。
涙で濡れた瞳は、見る者が胸をつかれるような苦しみに満ちたものだった。そして琴禰は、狂おしげに驚くべき真実を口にした。
「私は、あやかし王を殺す命を受けて、この国にやってきたのです。結婚してほしいと願ったのは、妻になればあなたの隙が生まれると思ったから。あなたの懐に入るためです。私は裏切り者の大悪党です。どうかこの首を斬り落としてください」
嘘を言っているようには思えなかった。
これまでの不可解だった琴禰の謎が、一気に紐解かれたような気がする。
(そうか、琴禰は最初から俺のことを好きではなかったのか)
真実を知ってすっきりとした気持ちと、脱力感。
裏切られていたことを知っても、憎いとは思えなかった。むしろ愛しい。それでもなお、琴禰を愛している。
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