私と離縁してくださいー3

 澄八を殺す。すなわちそれは、血の契約を断ち切ること。

 震える手で、覚悟を決めた。

 だが……。


(体が、動かない)


まるで全身の血が固まったように動かなくなった。人形のように顔が真っ白になり硬直した琴禰の変化に、澄八は恐怖に顔を歪めて後ずさる。


「さては琴禰、僕を殺そうとしたな。血の契約は決して破れぬ誓い。僕を殺そうとしても流れる血がそれを制する。自死しようとしたところで同じことだ」


 なんて恐ろしい契約なのだろう。

澄八は力を発動させて琴禰を殺すこともできるのに、琴禰は澄八を殺せない。あまりにも琴禰に不利な契約だ。

 生き延びることに精一杯で、よく考えずに結んでしまったことが悔やまれる。

 殺すことも自死することもできないなら、どうすればいいのか分からない。

一番大切にしたい人を、誰よりも愛する人を傷つけることしかできないなんて。地が割れて飲み込まれそうになるくらい絶望的な心持ちだった。

 人形のように固まった琴禰の瞳から涙が伝う。

 琴禰の裏切りを確信した澄八は、身の危険を感じて徐々に琴禰から遠ざかった。


「最初から琴禰に選択権はなかったのだ。僕が死ぬことはすなわち、血の契約が発動されることを意味する。殺そうとしたって琴禰は血の契約から逃れられない!」


 澄八は口の端を上げて大声を張ったが、肝は冷えていた。

血の契約によって琴禰に殺されることはないと分かっていても、頭の良い澄八は瞬時に最悪の想定を考える。

琴禰自身は手を加えることはできなくても、他の者なら澄八を殺すことは可能だ。例えば琴禰が全てをあやかし王に告げれば、澄八を殺すことは容易である。

 血の契約はあくまで当事者同士のもの。それに琴禰が気付けば澄八の命運は絶たれる。

だが、澄八を殺すと同時に血の契約は発動される。澄八を殺すということは、力が暴発して琴禰も死ぬことになる。澄八が寿命を全うし天寿を迎えたら、それは契約者の意志によるものなので契約は発動されないが、志半ばで命を失えば契約は発動される。

あやかし王は琴禰を愛しているから、おいそれと手出しができないにしても、もしもその事実をあやかし達が知ったらどうなる?

 厄介者が二名同時にいなくなるのなら、願ったり叶ったりではないだろうか。

あやかしの国に被害が起こることを懸念したとしても、琴禰をどこか遠くに幽閉するか、雲の上から人間界に突き落とせばいい。いくらでも対策の仕様がある。

 それに気が付いた澄八は逃げるようにその場を去った。


(琴禰が完全に寝返ったとしたら、僕の身も安全ではないということだな。早くこの国を離れ、琴禰もろともあやかしの国を撃破しなければ)


 澄八は大巫女様の言葉を思い出していた。


『あの者が祓魔一族を滅亡に導くだろう』


 もしかしたら本当に、琴禰が祓魔を滅ぼすかもしれない。

 圧倒的優位のはずなのに、澄八の心に一抹の不安が残る。そのような最悪な状況を想定し、慎重を期さねばならない。

澄八はそうやって成り上がっていった男だった。

 一方、澄八が逃げるようにその場を立ち去った後、琴禰の体に血が通い、動けるようになった。

 琴禰の体は今や、存在自体が激甚の火種のようなものだ。

 いつ暴発するかわからない。澄八がこの国にいる間は発動させないとしても、人間界に戻れば身の安全は確保されるため、いつ発動させたとしてもおかしくない。

 絶望しかない現実に、琴禰は打ちのめされた。


(やっぱり私は生まれてきてはいけなかった)


 頭の芯がくらくらする。膝から崩れ落ち、地面に手をついて嗚咽を漏らした。


(私の存在自体が厄災なのよ)


 幸せになってはいけなかった。

 あやかしに着いた時に、誰にも見つけられることなく死んでしまえば良かった。

 生きたいと願ってはいけなかった。


(ごめんなさい、ごめんなさい、煉魁様)


 琴禰がどんな選択をしたとしても、煉魁を傷つける結果となる。

 煉魁が心から琴禰を大切に思ってくれていることは十分伝わっている。

 琴禰が別れを告げたら、どんなに傷つくだろうか。


『ようやく、生きている実感がする。ありがとう』


 嬉しそうに微笑んだ煉魁を思い出し、心が痛んだ。


(どうして出会ってしまったの)


 愛しあわなければ、傷つくことも傷つけることもなかった。

 大好きなのに。どうして……。

 失意のやり場のなさに怒りさえおぼえる。

涙がとめどなく溢れるのをとどめることもできず、どうすることもできない現実を受け入れるしかない。

 不穏な色をした波打つ雲が月を消していく。

 彩雲の上に存在するあやかしの国。その上にまた雲があり、月もある。

 なんて不思議な場所なのだろうと思う。

 神々が住む天上のように美麗なこの国を破壊させることなんて許せない。

 あやかし王が守るこの国を、命を懸けて琴禰も守ることを決めた。涙で濡れた顔を上げ、睨み付けるように空を仰ぐ。


(立たなければ。この国を守るために。煉魁様を守るために)


 部屋に戻った琴禰は、寝ている自分の姿をした式神を紙に戻し、布団の中に入った。

 心身共に疲れ切っていて、精神は過敏になっているものの目を閉じれば泥のように眠ってしまいそうだ。

 今後の動きを考えると少しでも体を休めておいた方がいい。

 澄八が、あやかしの国にいる間はまだ大丈夫。琴禰は気を失うように眠り込んだ。

 目が覚めると夕方になっていた。

 驚くほど寝てしまったようだ。けれど、おかげで体はだいぶ良くなっていた。

 起き上がって部屋から出ると、扶久が駆け寄ってきた。


「起きたのですね! お体は大丈夫ですか?」


「うん、だいぶ良くなったみたい」


 扶久がほっとしたような笑みを見せる。

 扶久とはすっかり仲良くなった。日本人形のように表情が乏しく怖い印象だった扶久だけれど、話してみると案外気さくで面白い。

 友達のいなかった琴禰にとっては、初めてできた友人のように感じていた。

 しかし、もう離れなければいけない。


「湯殿に入りたいわ」


「はい、今すぐ準備しますね!」


 湯を準備している間に、軽い食事を取った。

 体にたまっていた毒素もなくなり、生き返るようだ。

 湯を浴びて、髪に香油を塗ってもらっている中、扶久が世間話のように何気なく言った内容に衝撃を受ける。


「そういえば、あの人間の男性、もう人間界に帰ったらしいですよ」


「え⁉」


 数日後には戻るかもしれないとは思っていたけれど、こんなに早いとは想定外だ。

 琴禰が突然震え出したので、扶久は手を止めた。


「琴禰様? 大丈夫ですか?」


「扶久、煉魁様は、いえ、あやかし王は今どこにいるの?」


「さあ、気ままなお方ですからねぇ。でも、もうすぐ帰って来ると思いますよ」


 扶久は無垢な笑顔を浮かべ、再び髪を梳かし始めた。


(もうすぐ、この生活が終わる)


 琴禰は自分の手を握りしめて、溢れだしそうになる感情を抑えつけた。

 身支度を終えた琴禰は、寝室で煉魁を待っていた。

 もうすぐ帰って来るという扶久の言葉通り、日が沈む前に煉魁は帰ってきた。

 寝室に入ってきた煉魁は、琴禰の姿を見ると、俯きがちに目を逸らした。


「もう体は大丈夫なのか?」


「はい。ご心配お掛けしました」


「いや、元気ならいいのだ……」


 気のせいか、煉魁の方こそ元気がないように見える。

 不自然に空いた距離。けれど、そちらの方が、都合が良かった。

 琴禰は手の平から血が出そうになるくらい強く拳を握った。大きく深呼吸をして、吐き出す。


「お話があります、あやかし王」


 いつものように名前ではなく、あやかし王と距離を取られたような呼び名で言われた煉魁は、訝しそうに琴禰を見る。


「なんだ?」


 煉魁の声はいつもより低かった。


「私と離縁してください」

 

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