幸せな結婚生活ー4

「俺は何でも持っていた。富も権力も財力も。女性も選び放題で、だからこそ、何も欲しくなかった」


 なぜか聞いているだけで、琴禰の胸の奥が痛くなった。

 そんな環境は想像することもできない。琴禰には何もなかったから。望んでも何も手に入らなかったから。

 でも、煉魁の辛さは不思議なほど共感することができた。

 胸にあいた空虚さは言いようもないほど心を蝕む。

 もしかしたら、全てを手に入れることは、全てを手に入れられないことと同義なのかもしれない。


「そんな俺が唯一欲しいと思ったものが、琴禰だった」


 後ろから抱きしめる力が強まった。

 まるで、もう絶対に離さないと言いたいかのように。


「ようやく、生きている実感がする。ありがとう」


 胸がいっぱいになって、しばらく言葉が出てこなかった。

 お礼を言いたいのは、琴禰の方なのに。


「私こそ、煉魁様に救われました。私は祓魔の生まれなのですが、無能で虐げられてきたのです」


 琴禰の告白に、煉魁は『やはり祓魔の生まれだったか』と納得した。

 初めて語られる琴禰の過去に、煉魁はそっと耳を傾ける。

 聞きたいけれど、聞いてはいけないような気がして、ずっと謎のままだった。


「家族にも愛されたことはありません。生まれてきてはいけない者として煙たがれていたのです。それがある日、力を開花させたことで一変しました」


 琴禰はゆっくりと、一言、一言、言葉を選ぶようにして吐き出した。

 辛い記憶だった。


「私は、祓魔を滅ぼす厄災だとのことです。一族たちは私を殺そうとしました」


 言葉の重みに煉魁は一驚を喫した。

 予想していたとはいえ、琴禰の置かれた環境は、凄絶なものだった。


「そして私は、命からがら逃げだして、ここに辿り着きました」


 短い言葉ながらも、一生懸命絞り出して吐き出した心の傷だということが伝わってくる。

 たまらない気持ちになって、煉魁は琴禰を後ろから強く抱きしめた。


「最低だな、そいつらは。琴禰を殺そうとするなんて、万死に値する」


 煉魁から本気の殺気を感じたので、琴禰は慌てて弁明した。


「仕方ないのです。私は生まれてきてはいけない存在だったのですから」


「そんなわけないだろ!」


 煉魁は珍しく怒気を強めた。そして、琴禰の体を半回転させ、正面から向き合うと、琴禰の顔を両手で抑えた。


「二度とそんなことを言うな。お前の存在に俺がどれほど救われているか。祓魔の一族は、俺が滅亡させてやりたいくらいだが、琴禰という存在を生み出した唯一の功績により生かしてやる」


 一族を庇ったつもりが、火に油を注いでしまったらしい。

 煉魁は怒りながらも、必死で琴禰を励まそうとしているのが伝わってくる。


「煉魁しゃま、ひたいです(煉魁様、痛いです)」


 両手で顔を中央に寄せられた琴禰は、まぬけな顔になっていた。


「ははは、すまん、すまん」


 煉魁は笑いながら琴禰の頭をなでた。


(もう、子供扱いして)


 深刻に重くなっていた空気が和らぐ。煉魁なりの気遣いだろうか。


(私は、煉魁様が思うような尊い存在ではない)


 忌むべき存在だと自分でも思う。

 生まれてきてはいけなかったのだと本気で思っている。


(こんな優しく素晴らしい方を、私は騙している)


 こんなに罪深いことをしていて、自分の存在を許せるわけがない。

 でも、もし、嘘を真実に変えることができたなら。


(私が、彼を殺そうとしなければ何も起こらない)


 琴禰の胸の中に湧き上がった一つの希望。

 血の契約を交わしてしまったけれど、行動を起こさなければ何も変わらない。

 今度は祓魔一族を欺く結果になるけれど、それはもう仕方ない。


(私は彼を殺せない)


 殺すくらいなら、いっそ自分が死ぬ。

 あやかし王は、人間界に厄災をもたらす存在なのかどうかも、今となっては分からない。

 例え、それが事実だとしても、人間界よりもあやかしの国を優先する。

 琴禰にとって何よりも大事なのは、煉魁になっていた。煉魁の存在が、琴禰の生きる理由だ。

 琴禰は、煉魁の胸に頬を寄せて、そっと抱きしめた。

 煉魁も琴禰の腰に手をまわし、互いに抱き合う。


「煉魁様はいつも私を子供扱いしますね」


「そりゃ、俺にとっては赤子のようなものだからな」


「赤子って、煉魁様は何歳なのですか?」


 琴禰は顔を上げて聞いた。


「う~ん、数えていないが、三百年は生きているのではないか?」


「三百年⁉」


 琴禰は驚きのあまり上体を逸らした。


「琴禰からしたら俺は老人か」


 豪快な声を上げて煉魁は笑う。


「老人というよりも、神様です」


 三百年生きているというのに、この若々しさ。一体何年生きるのだろう。


「私だけあっという間によぼよぼのおばあちゃんになるのですね」


 想像するだけで悲しい。介護されてしまうのだろうか。


「いや、あやかしの国にいれば琴禰も同じ時を生きられる。人間界では桜は枯れるが、あやかしの国では枯れない。そういう土地なのだろう」


 それを聞いて安心した。

 と、同時にそんなに長い時間を生きていけることが不思議でたまらない。


「永遠に一緒にいよう」


 煉魁は琴禰を胸に抱いて囁いた。


「……はい」


 騙すための嘘を、真実に変えよう。

 きっと大丈夫。

 あっという間に人間の寿命は尽き、血の契約は失効される。

 そうすれば、何もなかったことにできる。


(死にかけの私を煉魁様が救い、そして二人は恋に落ちた。ただそれだけのこと)


 永遠に煉魁を愛し抜く。そうすれば、罪は消える。

 琴禰はそう願っていた。

 しかしながら、現実は甘くなかった。穏やかな日常は、唐突に終わりを告げる。

 雲の端で、幸せな気分で抱き合っていた煉魁の顔が急に険しくなった。


「何者かが、あやかし国に入り込んだ」


 紺碧の海のように穏やかだった空の色が鉛色に染まっていく。邪なものが、あやかしの国に潜入したからだ。


「琴禰を宮中に帰している時間はない。悪いが少々付き合ってもらう」


 何が起きたのか分からないけれど、緊迫した状況だけは察した。琴禰が頷くと、煉魁は琴禰を横抱きにして一足飛びで雲の上を駆け抜けた。

 異物が入り込んだ場所に到着すると、煉魁は琴禰を下ろした。


「俺の側から離れるなよ」


 煉魁は琴禰の腰を抱き、自らに密着させた。

 緊張感が漂う中、薄く灰色がかった雲の上を歩いてくる人影が見えた。

 そして靄が晴れ、あやかしの国に入り込んだ異物の正体に、琴禰は言葉を失った。


「お前は何者だ」


 あやかし王が問う。


「僕は、祓魔一族の澄八と申します」

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