「私と結婚してくれませんか?」ー1

(真綿で包み込まれるような温かさだわ。こんなに穏やかな気持ちで安心して眠れたのは初めてかもしれない。ずっと、こうしていられたらいいのに)


 琴禰が幸せな眠りから目覚めた時、目の前には知らない男性が気持ちよさそうに眠っていた。


(ええ⁉ 誰⁉)


 絹糸のような綺麗な長い髪が顔に少しだけかかっている。驚くほど整った顔立ちだが、体が大きく筋肉質なので男性ということがわかる。

 しかもなぜかその男性は琴禰に腕枕をしていて、柔らかく抱きしめるかのように空いた手は琴禰の腰元に置かれている。


(どどど、どういう状態⁉)


 癖で枕元に置いた眼鏡を取ろうとして、動きが止まる。


(そうだ、私は祓魔から追い出されたのだ)


 殺されかけた出来事を思い出すと、胸が締め付けられるように痛んだ。

 力を振り絞ってあやかしの国に行き、そして……。


(あやかし王と出会った)


 あやかし王は、気味の悪い姿をした獰猛な獣のような生き物だと聞いていた。

 しかし、琴禰が出会ったのは、目を見張るような美しい男性だった。


(そう、こんなかんじの……)


 琴禰の横ですやすやと眠る男性を改めて注視すると、男性がいきなり目を開いた。


「ひゃあ!」


 驚いて声を上げると、男性は陶然なる眼差しを向け、うっとりとした笑顔を見せた。


「起きたか。体調はどうだ?」


 なぜか男性は琴禰の頭を優しく撫でながら問う。今更ながら、どういう状況なのか戸惑ってしまう。


「あ、あの、ここは一体」


「ここは俺の宮中だ。何があったのかは知らないが、もう大丈夫だ。俺がお前を守ってやる」


(ま、守るとは、一体……)


「あ、あの、あなたは、あやかし王……ですか?」


「いかにも。俺が、あやかし王だ」


 男性は胸を張って誇らしげに答えた。途端に胸の奥が冷たくなる。

琴禰にとって最大の敵が目の前にいる。


(今は全く力が出ない。とにかく回復するまでに時間を稼がなくては)


「すみません、起き上がりたいのですが、手をどけていただいても宜しいでしょうか?」


 あやかし王はあからさまに嫌そうな顔をした。ずっとこうして甘い時間を過ごしていたかったという不満の気持ちが顔に出ていたが、渋々といった様子で手をどけてくれた。

 ゆっくり起き上がると、あやかし王が背中をそっと支えてくれた。少し動いただけで、息が上がる。


「ありがとうございます。あやかし王が私をここまで運んでくれたのですか?」


「そうだ。死にかけていたから少し力も与えた」


「お手間をお掛けしてしまって申し訳ございません」


 深々と頭を下げると、あやかし王は照れくさそうに破顔した。


「それくらい俺にとっては造作もないことだ」


(どうしよう、とってもいい方だわ)


 想像していた、あやかし王とまるで違う。いっそ極悪非道であれば気持ちも楽だったのに。


「あの、この浴衣は?」


「ああ、着ていたものは破れていたゆえ新しいものに替えさせた。体も汚れていたので拭いておいたぞ」


「え?」


 琴禰の眉が寄る。すると、あやかし王は慌てて弁明した。


「お、俺が着替えさせたのではないぞ! 侍女にやらせたのだ! 俺は誓って見ていない!」


「ああ、すみません。何から何まで、本当にありがとうございます」


 あやかし王は、部屋から出ていて良かったと安堵した。もしもその場にいたら、軽蔑の眼差しを受けたのは、侍女からではなく人間からだったかもしれないと思うと肝が冷えた。


「腹は減ってないか? すぐに持ってこさせる」


「いえ、そんな。これ以上ご迷惑はかけられません」


「迷惑ではない。俺がしてやりたいのだ」


 あやかし王が強い言い方で押し切るので、琴禰は頷いた。


「それでは、ご厚意を有難く頂戴いたします。ただ、まだ体が丈夫ではないので、食べられるか……」


「なるほど。では粥にしよう。待っておれ、すぐに持ってこさせる」


 あやかし王は立ち上がって部屋から出て行った。

 一人になった琴禰は、ゆっくりと部屋を見渡した。

 一面、檜造りの部屋には最高級の畳が敷かれており、広さは二十畳ほどか。部屋の奥には花鳥風月が描かれた襖があるので、ただの寝所にしては広いし豪華だ。

 壁や柱には精巧な細工が施されており、黒漆の螺鈿細工が随所に見られる重厚な造りで、物は少ないながらも簡素さを感じさせない。


(あやかしの国は、とても綺麗なのね)


 もっとおどろおどろしい不気味な世界を想像していたので驚くばかりだ。


「持ってきたぞ」


 襖がひとりでに開くと、お盆を手に持つ、あやかし王が入ってきた。

 出て行ってから数分も経っていない。あまりの早さに驚いた。

 あやかし王は、お盆を小卓に置くと、土鍋の蓋を取り、熱々の粥を器によそった。香草や干し貝が入っているのか、美味しそうな匂いが鼻腔をかすめる。煉魁は粥を匙に掬い、適温となるよう息を吹きかけた。


「ほれ」


 ちょうど良い熱さになった粥を琴禰の口元に寄せる。


「え、いや、自分で食べられます」


「いいから、食え!」


 強引に押しつけられ、琴禰はやむを得ず口を開いた。

 あやかし王は優しく丁寧に匙を口に入れた。

 ほんのりとした塩気に、干し貝の旨味が引き立っている。


「美味しい」


 思わず頬を緩ませると、あやかし王は目を細めて微笑んだ。

 あやかし王は甲斐甲斐しく世話をする。それが、心の底から楽しそうにやっているので、琴禰もついつい甘えてしまう。

 半分ほど食べ終えたところで、あやかし王はずっと聞きたかったことを口にした。


「お前の名はなんと言う」


「琴禰と申します」


 名前を知ることができたので、あやかし王は満足そうに微笑んだ。


「琴禰か、良い名だな」


 あやかし王が愛おしそうに名を反芻したので、琴禰はなぜか気恥ずかしくなった。

 名前を呼ばれると、胸の奥がむず痒くなる。嫌ではない、むしろ嬉しく感じて、どうしてこんな感情になるのか不思議だった。


「あやかし王は、皆さんから何と呼ばれているのですか?」


 本人が、あやかし王と言うので、あやかし王と呼んでいたけれど、それでいいのか急に疑問が湧いてきた。


「皆、あやかし王と呼ぶ。もうあだ名のようなものになっている」


「そうなのですね、では私もあやかし王と……」


「いや」


 急に否定されたので、小首を傾げてあやかし王を見る。


「煉魁と呼んでくれ。それが、本当の俺の名だ」


「……れんかい、様?」


 真名で呼ぶ者は限られている。そもそも、あやかし王の真名を知る者も少ない。

 だからこそ、琴禰には本当の名前で呼んでほしいと思った。


「嫌か?」

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