俺様王の初恋ー1
淡い虹色に彩られた雲の上に、その国はあった。
――あやかしの国。
まるで天界のように美しく平和なその国で、人々は幸せに暮らしていた。
『人々』とはいっても、見た目は人間にそっくりではあるが、『人』ではない。
そこに住む者たちは皆、『あやかし』であった。
あやかしとは、妖怪や怨霊といった禍々しい邪悪な存在などではない。
人ではなく化け物でもなく神でもない。淡く曖昧な、まるで雲のように変幻自在の存在である。
あやかしの中心部には豪壮な宮殿が鎮座している。
いくつもの大きな殿が集まり宮となっていて、その規模は村や里ほどの広大な敷地を誇る。
その宮中に居住し、あやかし国の頂点に君臨しているのが、あやかし王だ。
あやかしの国を守る強大な力を有した唯一無二の存在である。
あやかし国の周辺では魑魅魍魎の妖魔が飛び回っていて、あやかし国に入るのを防ぐのが王の務めだ。
しかし、あやかし王の力が強すぎて、ここ何百年も外部から侵入してこようとする命知らずな妖魔はいない。
「あやかし王~、ここにおられましたか。探しましたよ」
肩で息をしながら、近付いてきた男がいた。
丸みを帯びた瞳に卵型の小さな顔は整っている。漆黒の艶々とした
小柄な背丈なので、あやかし王と並ぶと少年のように見えるが、歳は五十を超えている。しかしながら、あやかし国の宮中の中では比較的若い方である。
あやかし王と呼ばれた男は、気だるげに振り返った。
漂う気品と威厳は、他を威圧する迫力がある。それに、他のあやかしの住民と違って、見た目は完璧な人間だ。
力の弱い者は、姿が妖魔に近づいてしまうのだ。したがって、霊獣の尻尾のような物がついている者、手に鱗がついている者など容姿は様々だ。
完全なる人間の姿をしているあやかし王は、それだけで強大な力を所持していることが分かる。さらに、顔立ちが精緻な人形に命を宿したかのように整っていた。人を超えた圧倒的な秀麗さは、美が尊ばれるあやかしの国では優位な証だった。
「なんだ、
あやかし王は、雲の上から釣り糸を垂らしながら、秋菊を横目で見やった。
「え、ここって何か釣れるのですか?」
「釣れるわけがなかろうが」
(え、じゃあなんで釣り糸を垂らしているのですか)
あやかし王の返答に、秋菊と呼ばれた男は不思議に思いながらも、釣りを邪魔されて不満げな様子なので、怖くて発することができなかった。
あやかし王は正統な王家の生まれで、生粋の特権階級最上位者だ。
幼い頃から次期王としての教育を積まれたが、たまに仕事を抜け出して姿を消すという悪癖がある。
「
「まったく、どうせ世継ぎだの妃だのと小言を聞かせられるだけだろう」
あやかし王は立ち上がると、釣り竿を秋菊に預けた。
「ここ最近、大王様の容態が芳しくないですから、早くお世継ぎを見て安心したいのでしょう」
あやかし王が大股で闊歩していくので、秋菊は釣り竿を抱えて必死に後を追う。
「誰か俺の代わりに世継ぎを産んでくれるといいのだが」
耳を疑うような衝撃的な発言がさらりと零される。まるで、今日は肉ではなく、焼き魚が食べたかったと不満を漏らすような軽さだ。
秋菊は驚きながらも平静を努めて言葉を返す。
「なにをおっしゃいますか。あやかし王ほど強大な力を持つ稀有な御方はおりません。この類まれな力を次代に引き継いでいただかなければ、あやかし国の平穏は終わりを迎えてしまいます」
そうなるだろうとあやかし王も分かっていたためか、否定することなく薄い笑みを浮かべて穏やかな口調で返した。
「冗談だよ」
冗談でなければ困るのだが、冗談のようには聞こえなかったので秋菊はうろたえた。
「あやかし王が王位を継承して何年が経つのですか?」
「百年くらいだろうか」
「その間に、お眼鏡にかなう子はいなかったのですか?」
秋菊は上目遣いでおずおずと尋ねた。
「おらぬ。国中の美女を紹介されたが、一人も可愛いとは思えなかった」
あやかし王は真正面を向き、大股で歩きながらはっきりと答えた。
「見た目が好みではなくても、一緒にいるうちに楽しいなと思ったり情が芽生えたりするかもしれませんよ!」
秋菊は無邪気に声を弾ませた。秋菊は少年のように見えるが、その整った顔立ちゆえに、それなりに恋愛を経験していた。尊敬するあやかし王に助言できることが嬉しくて、ついお節介を焼きたくなってしまったのだ。
「そもそも一緒にいたいと思える女性がいない」
あやかし王は秋菊を見ることなく、淡々と答える。
秋菊は、『さすがにそれは……』と思った。
「もしかして、初恋まだですか?」
秋菊の問いに、あやかし王の眉間が寄った。
「口が過ぎるぞ」
睨み付けられた秋菊は、しまったと思って両手で自分の口を塞いだ。
「申し訳ございません!」
秋菊はその場に膝をつき、雲の中に頭を埋めるように謝罪した。
「良い、気にするな」
あやかし王は優しい声色で朗らかに笑った。
あやかし王と秋菊が、高い垣根に囲まれ屋根を構える大門をくぐると、あやかしの衛兵たちが深い礼をし王の帰還を出迎えた。
広大な宮中には目に鮮やかな美しい花木が咲き乱れ、壮麗な殿舎がいくつも軒を連ねている。宮中で働くあやかし達は一様に品の良い笑みを浮かべ、あやかし王を見ると
あやかし王は威風堂々と
白木の御殿の前に辿り着くと、螺鈿細工の装飾が施された障子戸を開けた。
「失礼いたします」
寝所に入ると、絹張りの衝立と共に、寝台の横に立てられた燭台の灯りに照らされた大王の顔が浮かび上がっていた。寝台に横たわっていた大王の鋭い眼差しが、あやかし王に向けられる。
「ようやく来たか。最近は起き上がるのも難儀で、このままでいいか?」
大王の顔色は優れず、やつれていた。目の下には大きな隈があり、手は血管が浮き出ている。もう長くはないことは明らかだった。
「もちろんです、父上」
大王はほんのり笑みを浮かべた。
「
今では大王以外、誰も口にすることのない真名で呼ばれたので、あやかし王は少し気恥ずかしくなりながら大王の側に近寄った。
煉魁の母は、煉魁を産んですぐに亡くなった。元々体が弱く病に伏せがちだった母は、命懸けで煉魁を産んだのだという。
母の執念ともいうべき愛を注がれて生を受けた煉魁は、とても丈夫で健やかに育った。
父はその後、誰も側に侍らせなかったので、正統な王位を引き継ぐ者は煉魁のみだった。
煉魁がまだ少年と呼ばれるほど幼かった頃、王であった父も病に冒され、煉魁は幼くして王となった。
退位した父は、大王と呼ばれ、今でも煉魁に唯一苦言を呈する者として信望されている。
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