4-8

 オレンジジュースを飲み、俺は立ち上がった。俺と母がいたのは大きなパラソルの下で、レジャーシートが敷かれていた。母の傍らには保冷バッグとビニールバッグ。


「ママ、俺は……」

「ナオちゃん、もう一回挑戦してみる?」

「あっ……」


 思い出した。俺は五歳の時、生まれて初めて海に出かけたが、こわくて海水に足先すらつけることができなかったのである。せっかく買った水着も使わずじまい、というわけだった。ということは、ここは俺の記憶が混濁したあの世、だとでもいうのか。


「俺、やってみる!」

「よーし、ママも行く!」


 母は白いTシャツにハーフパンツという格好だった。


「ママは泳がないの?」

「だって水着になるの恥ずかしいもん」

「そうなんだ」


 ざざぁん、ざざぁん。静かな波の音。ここには俺と母しかいないようだ。


「……ひゃっ」


 そおっと右のつま先をひたす。そこからかかと、くるぶし。左も同じように。


「ママ、できた!」

「すごーい! どうする? 膝くらいまでつけてみる?」

「ううん、いいや」


 遠くの方には、まだ浮かんだままの浮き輪。あれは……兄の物ではなかっただろうか。


「ママ、カズくんとパパは?」

「ここにはいないよ」

「俺……死んだの?」


 母はうっすらと笑みを浮かべた。


「まだ死んでない。今は記憶の中に囚われてるだけ」

「えっ……?」


 母も足首まで海水につかり、右足で蹴った。ちゃぱん、と水しぶきが起こり、打ち寄せてくる波の中に消えていった。


「ママはナオちゃんの記憶の中のママ。ナオちゃんの中に、ママの存在が残ってたから、こうして会うことができた」

「俺、死んでないってことは、どういうこと? これからどうなるの?」

「……カズちゃんが、頑張ってくれてる」


 母はしゃがんで俺の両耳を手で塞いだ。血の流れだろうか、ごうごう、という音に混じって兄の声が聞こえてきた。


「……です。お願いです。たった一人の弟なんです。返して、返して、返してください!」


 パッと母は手を離した。


「カズくん……?」

「カズちゃん、ナオちゃんを連れてきたこと、後悔してるみたい。でもナオちゃんったら、一緒に行くってきかなかったんでしょう?」

「うん……」

「三つ子の魂百までっていうもんなぁ。ナオちゃんは小さい時から頑固だった」


 母に手を引かれ、海水から出て波打ち際を歩いた。砂はさらさらとしていて裸足でも痛くない。俺は母を見上げた。ゆるやかな風が吹き、母がつけていたピアスがゆれた。白い花のピアス。かつて兄が霊視に使っていた物だ。


「ママ、どこに行くの……?」

「この砂浜には終わりがないの。ずっと、ずうっと歩いて行ける」


 兄は今、海の神に願っている。俺を返してくれと願ってくれている。


「ナオちゃん、覚えてる? カズちゃんと一緒に小学校の遠足行きたい、って言ってカズちゃん困らせたこと」

「うん……あった」

「夕飯の唐揚げは投げるし、歯も磨かないって拗ねるし」

「それで、幼稚園休んで、代わりにママと公園行ったんだよね」


 あれは五月だった。日差しは強く、かぶらされていたキャップは汗でびしょびしょに濡れた。母が作ってくれた弁当を食べ、遊具にぶら下がって遊んだ。

 母は歩みを止めた。そして、俺の髪をわしゃわしゃと撫でた。


「ナオちゃんはどうしたい? やっぱりカズちゃんと一緒にいたい?」

「……うん。いたい。俺はカズくんが好き。これからも、一緒に働いて、ご飯食べて、生きていきたい」

「うん、よく言えました。ナオちゃんの心が揺らがないなら大丈夫。あなたたち兄弟は一緒に生きていける」


 俺は母の腰に抱きついた。


「ママ……」

「さっ、もうこの砂浜は終わり。カズちゃんが頑張ってくれた」

「もう会えないの?」

「いつか会える。必ず」


 ざざぁん。ざざぁん。

 俺は波の音を聞き、母の胸に顔を押し付けて、目を閉じた。


「……あっ、あっ、ナオくんっ、ナオくんっ!」


 身体がぐっしょりと濡れていた。服が肌に張り付いて気分が悪い。加えてめまいがする。兄の腕に抱かれているのだとわかるまでは時間がかかった。


「カズくん……」

「よかったぁ……取り返せた……取り返せたぁ……!」


 兄は大粒の涙をボロボロと流し、髪は乱れて砂までついていた。


「母さんと……会ったよ……」

「そっか……そっかぁ……」

「うん……俺の記憶の中の母さんらしいけど……話せた……」


 めまいが治まってきて、自力で砂浜の上に座ることができた。海の向こうに見えるオレンジ色の太陽は、沈んでいるのか、昇っているのか。


「カズくん、今って朝? 夕方?」

「朝。約束の一週間目の朝だよ。歩ける? 早く遼のところまで戻ろう」


 俺はふらつきながらも歩を進めることができた。クーラーボックスの上にいた遼は、俺たちを見るとバサバサと羽根を広げた。遼が兄の肩にとまった瞬間、七宮家まで転移した。


「良かった……帰れた……」


 兄はそう呟くと、ドサリと倒れてしまった。

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