第5話


 昨夜の奇妙な夢のせいで寝つきがすこぶる悪かった。授業中何度もあくびをしてしまい、これではいかんと自販機でコーヒーを買う。


 休み時間ギリギリになってしまい、慌てて教室に戻る。次は移動教室があったのをすっかり忘れていた。誰もいない教室で教科書と筆記用具の準備をしていると、篠原も入ってきた。


「なんや、次は化学も物理も教室が違うで。まだ行っとらんかったんか」

「えっ、マジで」

「うん。みんな、先に行ってもうたで。科目はどっちや」


 篠原も急いで教科書を鞄から取り出す。選択科目が俺と同じ化学だということで、実験室まで一緒に向かう。


「篠原って、最近休み時間に教室おらんな。どこ行っとんや」

「学校をあちこち散歩している」

「散歩?」

「周りが煩いんだよ。正直うんざりしてる。落ち着くまでは休み時間はどこかに行くことにした」


 疲れた様子で篠原は答えた。多分取り巻きの女子たちのことだろうな、と思って妙に納得する。さすがに始業式の時ほどの人垣はなくなったが、今でも数人の特定の女子たちが何かにかこつけては篠原のところに寄っていた。彼女たちをやんわりとあしらっているようではあるが、余計な気苦労が絶えないようで、色男というのもそれはそれで大変らしいと他人事ながら同情してしまう。まあ俺には無縁の贅沢な悩みではあるが。普通の人間らしい彼の一面を見て、少しばかり親近感を抱いてしまった。


 階段を駆け足で下りて三階へと向かう。


「しかしこんな受験の年に福井まで引っ越してくるなんて大変やな。大学はどうすんや。また東京に戻るんか?」

「いや別に。八重園はどうすんの」

「俺は東京の大学考えてんで。行けたらやけど」

「ふうん」

「篠原は?」

「俺は場所なんてどうでもいい。大学にも行かないつもり。専門学校にする」


 予想外の答えに思わず篠原の方を見た。国立進学コースのクラスで専門学校を希望する者はかなり珍しい。そういう生徒は大概他のクラスに回されるのだが。まっすぐ前を向いて篠原は話を続けた。


「やりたいことがあるんだよ。でも大学進学も選択肢の一つだからって親と先生にしつこく説得されて、この教室に入れられた。大学行ってもいいんだけど、やりたいことから逆算すると大学に行く時間の余裕がない。今やるべきことを考えたら大学進学じゃまずいんだ。時間に負けるのだけは嫌だから」


 派手な見かけと違って堅実な意識の高さに、ほほう、と感心しながらまじまじと彼の顔を見てしまった。こいつは意外にも信念というものを持っているやつらしい。

 続けるべき声のない俺に気を悪くしたのか、篠原が仏頂面をしてこちらに訊いてきた。


「何? 別に普通だけど、こんなの。俺って変なやつだと思った?」

「いやまさか」俺は首を振って素直に彼を評価した。「しっかりしとるなってだけ思ったわ」

 俺の返答に篠原の片眉が数ミリ動く。

「……そりゃどうも」


 篠原は再び目を逸らして行く先に視線をやる。廊下の薄暗さが彼の表情をぼかしてしまう。彼の頬にほんのりと赤みがさしたような気がしたのだが、それは廊下の陰りのせいか、それとも単なる俺の気のせいだったのかは判別できなかった。

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