第2話

 それから数日がたった。俺にはもう一つやらねばならぬことがある。

四月から任を負うことになった「競技かるた部」の部長としての務めを果たすことだ。


 掲示板にポスターを貼ってかるた部の入部希望者を募ってはみたものの、これといった手ごたえはない。放課後、顧問に尋ねてみたところ、競技かるたの希望者は今現在のところ三人のみだということだ。このうちの一人は両全兄弟の弟、蓮也である。


「競技かるたはマイナーやからなあ。なかなか入りたいっつう人もおらんでえ」


 ぼやくような修哉の声に、俺はまともに反論することができなかった。競技かるた部は二年生と三年生合わせて六人いる。あと四人入ればチームが二つ作れるし練習も充実してくるわけだが、そう易々と部員が増えるわけでもない。まあ贅沢な悩みではあるが。


 部員募集の張り紙にさほどの効果はなく、俺自身もこれ以上部員を増やすために時間をかけるべきかどうか随分と迷っていた。今年こそは名人戦へと勝ち切りたい、という思いも強く、この時間があれば自分の練習に当てた方がいいかもしれないという諦めを完全に断つことはできなかったからだ。


 とにかく、かるた部の人集めについては今後の課題である。あれこれと悩みながら外靴に履き替えて玄関を出ると、ちょうど目の前を篠原が通り過ぎていくところだった。


 彼は一人だった。めったにないこのチャンスに、思わず俺は声を掛ける。

「篠原くん、ちょっと……」


 自分の名前を呼ばれたことに気が付いた篠原は、立ち止まって訝し気に俺の方を見た。


「誰?」

「同じクラスの八重園っつうんやけど。もう帰るんか?」


 クラスメイトだというのに、篠原は人を拒絶するような透明なバリアを顔に張りつけたまま怪訝な表情を変えなかった。値踏みするように俺の顔から足元まで視線を滑り落としていき、また俺の顔の方に戻していく。


「もちろん帰るよ。いろいろとやることあるから。忙しいからもう帰っていい?」と歩き出す。

「いや、篠原くんに聞きたいことあるんや。ちょっとだけでいいから時間ええか?」

 篠原と一緒に歩きながら俺は尋ねた。


「……まあ、別にいいけど……」二重の双眸がこちらを射抜くように見つめてくる。「名前は呼び捨てでいいよ、篠原って。俺もそうするし。それから最初に断っておくけど、俺はごく普通のノーマルだから、諦めて」

「は?」

「昨今のジェンダー思想を否定するつもりはないし、理解を示しているつもりではあるけど、俺自身は男には興味がないんだ。だから悪いけど……」

「ちょ、ちょっと待って……いったい何のこと言っとんや」


 この質問を返すように、篠原は歩きながら俺を一瞥した。


「八重園ってさ、教室でいっつも俺のこと見てんじゃん。もしかしてそっちの気があるのかと思って」

「そっち……って、どっちのことや」

「そっちといったらそっちだろう。どこにそっちがあるっていうの」

「はあ?」と、俺は眉を寄せて訝しんだ。「そんなんあるわけないやろう。なんか勘違いしてねえけ? 俺も男になんか興味ないわ」

「あ、そう。なあんだ、てっきりそういう話かと思った」

「ないない、あるわけない」


 慌てて強く手を振り否定する。篠原を見つめていたのは声を掛けるタイミングを見計らっていただけだ。見つめていただけだというのに、とんでもない勘違いをされてしまっていたようである。あらぬ誤解がようやく解消されてほっとした。篠原も安堵したような表情を浮かべた。


「ならいいよ。何聞きたいの」

「いや、篠原く……って上野から来たんやろ? 実は俺も昔そこに住んでたことがあってな。上野で知っとるやつがいるんや。秋生もみじって子。この子、同じ学校にえんかったか?」


 篠原は顎に手をやり、もみじの名前を小さく呟きながらしばらく考え込んだが、知らない、と答えてきた。かるたもしていないし、校区も学校も違うようである。中学までは地元の公立だったそうだが、高校はもみじと同じ公立の向橋むこうばしではなく、私立の光星林こうせいりんという男子校に通学していたとのことだった。


 何気に期待していた分、この落胆はさすがに堪えた。まあ広い東京だ。こればかりはどうしようもない。

「期待に沿えなくて悪いね。というか、そのアキブって子、なんなの? 八重園となんか関係あんの?」


 関係、と聞かれて、途端にもみじの顔が鮮やかに脳裏に浮かび上がってくる。秋の紅葉のように艶やかに染められた頬。いつもピンを付けて止めている前髪。熟した桃のようにふくよかな唇……いや、もみじとの関係は特にないはずなのだが、そうは思うものの、ふいに蘇ってきた感情に呼応するかのように、心臓が激しく脈打ちはじめた。


「……いや、ただのかるた友達や」


 懸命に感情を押し殺そうとするものの、わがままな心臓はそれに抗うかのようにさらに動きを強め、それに応じて顔が上気して汗がジワリとでてくるのが分かった。変にまごつく俺の様子に篠原の目にはいくつかの疑問が生じているようだったが、有難いことにそれ以上のことを俺に聞いてはこなかった。なんとか上手く誤魔化せたか。誤魔化せたよな? 助かった。


「……まあ、また何か思い出したら八重園に伝えるよ」そう言って一枚の名刺を鞄から取り出す。「これ、俺のバイト先。もしなんか聞きたいことがあったら連絡して」


 白い小さな紙には ”Jardin d’iris” との文字が印字されていた。最近郊外にできたばかりのカフェ店だった。


 なぜバイト先が連絡先になるのだろうと不思議な思いに捕らわれ、その紙に吸い込まれるように目を離せなかった。再び顔を上げると、篠原はすでに足早く自転車小屋の方へと消えていた。

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