青雲の名人

nishima-t

第1話

 少女漫画的世界、というものが本当にリアルにあるならば、それはどのような疑似体験になるのだろうか。


 朝寝坊をした少女がパンを齧りながら学校に行くと、道角でイケメンの男子生徒とぶつかって突然恋に落ちるとか、普通のなんでもない女子高生がイケメンの男子生徒から急にモテ始めるとか、そういう類のことをいうのだろうか。


 昔一度だけ少女漫画雑誌を目にしたことがある。小学三年くらいだっただろうか。

 クラスの女子と男子数名が亜紀乃の家へ遊びに来た時、家が隣ということで俺も誘ってもらえた。


 マリオカートでワイワイと遊ぶことにも少しばかり疲れてしまい、ソファに座ってテレビゲームの画面をぼんやりと眺めていたときのことである。


 ふと足元に一冊の雑誌があることに気が付く。表紙に「なかよし」と書かれた分厚い本は、亜紀乃が毎月定期購読している少女漫画雑誌だった。何気に興味をそそられてパラパラとページをめくったのだが、それはテレビの中で狂ったように踊り回る車の魔法世界よりも、はるかに摩訶不思議な少女たちのラブの世界が無限に広がっているものだった。あまりにも奇想天外なその世界観にくらくらと眩暈をしてしまい、俺はすぐに雑誌を閉じ脇にどけてしまった。


 怪しげな虫を観察するような目つきで漫画を読んでいた俺の態度が気に食わなかったのか、「慎二には漫画なんてどうせ分からんやろ」と亜紀乃を始めとする女子たちから散々バカにされてしまったが、俺だって漫画くらい少しは読む。学校の図書室にあった手塚治虫の「ブラックジャック」はかなり入れ込んで読んだし、父親が全巻揃えていた昔の少年漫画、ドラゴンボールか何だったか、それもなかなか面白かった。少女漫画の露骨な恋愛描写に付いていけなかった、ただそれだけのことだ。あの世界観を俺に解せよという方がどうかしている。それとも俺の方がどうかしているのだろうか。世の中の男性の目には、あの少女漫画というものは果たしてどのように映っているのだろうか。


 そのような訳で、俺にとっては無縁のものであった「少女漫画的世界」が、高校生にもなって自分の身の上にも降りかかってくるとは、まさか夢にも思っていなかったのである。


 始業式が終わったときのことだ。転校生らしきその男子生徒が担任と一緒に教室に入ってきたとき、ただならぬ空気が彼を支点として半円を描きながら波紋の様に広がっていくのを俺は感じた。その空気は、高まりゆく心臓の鼓動であったりとか、口から零れるため息であったりとか、そういう類のものである。それは主として女子たちの間からもたらされたものであった。


「東京の上野から来ました、篠原亮といいます」


 引き締まった口元から発せられた、ややトーン高めで優しい雰囲気の声に、周囲にいる数人ほどの女子から「ほうっ」というピンク色の吐息が漏れているのを肌で感じた。長身で、茶色に染められた髪に端正な顔立ちは、人を惹きつけるのに十分すぎるほどの魅力があった。


 実を言うとささやかながら彼に関心を抱いたのは俺も同様である。

 前もって念を押すが、別に男が好きだからというわけではない。「東京の上野から来た」という彼の言葉に反応したからだ。


 上野といえば、もみじが住んでいるところである。秋生もみじ。かるたクイーンを目指す女の子。こんな偶然が他にあるだろうか。この運命ともいうべき偶然に、俺の心には「好奇心」や「動揺」などと書かれた紙きれが激しく乱れ飛ぶのを感じていた。


 しかも特筆すべきは彼の容姿である。女子の心を一瞬で鷲掴みにしてしまうほどの甘いマスクと端麗な容姿は、まるでアイドルを彷彿させるような色気があった。いや勿論、プロのアイドルの方が断然上ではあるが、美男子というのは往々にして同じようなフェロモンを醸し出すのであろうかと、妙なところに感心してしまう。


 それに彼が話す東京弁にも強く興味を惹かれた。あのイントネーションを聞くと、どうしてもテレビに出てくる芸能人が連想されてしまうのである。いや、芸能人の方が遥かに洗練されてはいるのだが。


 兎にも角にも、東京からイケメン転校生がクラスにやってくる――これが俺の人生で初めて味わうことになった「少女漫画的世界」だったのである。


 もしこれが漫画のような展開であれば、席が隣になってお互いに自己紹介をしあうところであろうが、残念ながら篠原の席は俺とは真向いの窓側の席になった。


 彼には聞きたいことがどうしてもあったから、席が離れたのは至極残念であった。もちろん質問の内容はもみじのことである。上野に住んでいたのなら知っている可能性は十分にある。もし学校が同じであれば名前くらいは知っているかもしれないのだ。


 なんとかしてもみじのことを篠原に聞いてみたいと試みるものの、彼の周りには常に人がたむろっていて近寄ることができなかった。人、というよりもほぼ女子の軍団ではあるが。チラリチラリと様子を伺いながら彼の周囲を観察し続けたが、東京から来たという物珍しさもあるのだろう、いつまでたってもその人垣が消えることがない。女子たちからの質問攻めはすさまじく、当の本人は困惑さえしているようである。いつ声を掛けようかと何度も目をやるうちに、彼とバッチリ視線が合って思わず顔を逸らしてしまったりもする。この人壁を乗り越えて声を掛けることなど俺にできようもなく、仕方がないのでしばらくは諦めることとする。

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