第4話 無限の深淵

三島蝶が眠りについたのは、午前3時を少し過ぎた頃だった。彼女の脳は、昼間の膨大な情報を処理し続けていたが、意識が薄れるにつれて、現実世界から解放される準備をしていた。蝶の意識が夢の中に溶け込んでいくと、彼女はいつもの夜の暗闇ではなく、光と闇の狭間に佇む奇妙な空間へと誘われた。


そこには色がなかった。光が満ちているにもかかわらず、それはどこか無機質で、触れることも感じることもできないものだった。まるで、世界が自分を吸収し、同時に自分が世界に吸い込まれていくような感覚だった。周囲は無限に広がる虚空、全ての可能性が折り重なる場所。そこには、彼女がこれまで触れてきたどんなコンピュータの画面よりも深い情報の海が広がっていた。


「ここは……どこ?」


自らの声が反響することなく消えた。蝶はすぐに気づいた――この場所には音も時間もない。彼女はゆっくりと目を閉じ、意識をゼロポイントフィールドへと浸透させていった。


ゼロポイントフィールド――全てが始まり、全てが終わる場所


ここでは、物理的な法則も、時間の流れも意味を持たない。蝶は自分の存在が肉体を越え、情報そのものに変わっていくのを感じた。目を開くと、無数の光点がまるで星空のように彼女の周りに広がっていた。しかし、それはただの星ではない。それぞれがエネルギーの震え、波動、そして情報の塊であり、宇宙の根源的な力を持っている。


彼女はその光点に手を伸ばそうとしたが、手はなかった。代わりに、自分がその光の一部であることに気づいた。光点の一つひとつは、異なる可能性を示していた。ある光点は、彼女が見逃したはずの未来を映し出し、別の光点は、彼女が過去に選ばなかった道を示していた。蝶の意識はそれらの間を自由に漂いながら、すべての可能性が同時に存在する状態を体感していた。


「ここが……ゼロポイントフィールド?」


言葉は意味を持たなくなり、彼女の思考は次第に波となって広がっていった。すべての可能性、すべての未来、すべての選択肢がここに凝縮されている。無限のエネルギーが、静かに、しかし確実に流れ続ける空間。それは、蝶が昼間にアクセスする情報の海の遥か先にあるものだった。彼女のプログラムやハッキング技術では到達できない、もっと根源的で純粋な世界。


「これは夢?それとも現実?」


蝶は自問自答したが、その答えを探す必要はないと直感した。この空間では、問いそのものが無意味だった。現実も夢も、ここでは一つに溶け合っていた。全てが存在し、同時に全てが存在しない。それがゼロポイントフィールドの本質だった。


エネルギーの海に溶けていく蝶


蝶は自分がどこまで自分であるのかが、次第にわからなくなっていった。彼女の存在は、エネルギーの一部として、無限に広がっていくように感じた。肉体を持つことなく、自由に漂い、無数の光の波動に同調していく。彼女の意識は、エネルギーの流れに乗って、時空を超越した旅を続けた。過去と未来、現実と虚構、そのすべてが溶け合い、ひとつの「今」という瞬間に集約されていた。


彼女は全ての存在の波動と同調し、無限の可能性の中でその流れに乗っていくことを覚えた。すべての選択肢、すべての結果がここに含まれており、どの瞬間にも無限の可能性が存在する。その中で彼女は、自分の存在が宇宙の一部であることを直感的に理解した。


無限の中の選択


ゼロポイントフィールドの中で漂い続ける中、蝶はふと、自分が意図的に何かを選び取ることができることに気づいた。あまりにも膨大で無限に広がる光点――それらがすべての未来と可能性を映し出している。彼女がひとつの光点に集中すると、それが次第に形を持ち始め、彼女の前に展開されていった。


そこに浮かび上がったのは、彼女がまだ幼い頃の記憶だった。タイの夜市、まばゆいばかりのネオン、混沌とした雑踏の中、彼女は母親の手をぎゅっと握りしめていた。まだ母親と過ごすことが当たり前だった頃、全てがシンプルで、目の前に広がる未来が今ほど多岐にわたっていない時期だ。


蝶はその光景を見つめながら、どこか懐かしさと哀しさが入り混じる感情を感じた。しかし、それは過去の一断片でしかないと彼女はすぐに理解する。ゼロポイントフィールドでは、すべての過去と未来が等しく存在する。そして、彼女はそのどれにも執着せずに、ただ観察者として漂うことができた。


「選択肢は無限にある。過去にも、未来にも。」


彼女の内なる声が囁く。これまでずっと、蝶は現実世界での選択に縛られていた。ハッキングの技術、学校をやめるという選択、夜のバンコクをさまよう日々……すべては彼女の手の中にあったが、同時に、すべてが無意識のうちに制約されていたことに気づいた。しかし、ここでは違う。ゼロポイントフィールドは全てを許容し、全てを可能にする場所だった。


創造の力


その瞬間、蝶は自分の意思がこの場所に影響を与えることに気づいた。彼女が望むものはすべて、ここで具現化する。新しい現実を創り出すことができる。彼女は目の前の無限の光点の中から、ひとつの点を選び取った。すると、その光点は急速に拡大し、周囲の空間に影響を与え始めた。


突然、彼女は広大な原野に立っていた。風が肌に触れ、遠くには山々が連なる。この場所は現実とも幻想とも言えないが、彼女の想像力がそのまま反映されたものだった。蝶はゆっくりと歩き始め、足元の草の感触を感じた。それは本物のようにリアルでありながら、同時に意識的に操ることができる空間だった。


「ここでは、何でもできる……。」


彼女の思考が空間に波紋を広げると、次の瞬間、周囲の景色がまた変わり始めた。青い空が暗闇に変わり、足元の大地が崩れ落ちる。蝶は恐れなかった。彼女はすでにこの空間の本質を理解していた。ゼロポイントフィールドでは、物理的な法則が存在せず、全ては意識次第で形を変える。それは、限界のない創造の領域だった。


意識の拡張と境界の喪失


蝶は自分が宇宙そのものと一体化していくのを感じた。ゼロポイントフィールドでは、自己という概念さえ曖昧になる。彼女の思考と感情は、広大なフィールドと混ざり合い、個別の存在としての境界を失いつつあった。自分が他の存在とは異なるという感覚は、次第に薄れていった。彼女はただ、このエネルギーの海に漂い、全ての存在と共鳴していた。


彼女はこれまで、ハッカーとしての「自分」を守り抜いてきた。誰にも見破られず、誰にも制約されずに自由を手に入れるために。しかし、ここではその「自由」が全く新しい意味を持っていた。自己の解放――それは、物理的な制約から逃れることではなく、自己の輪郭そのものを溶かし、他のすべてと融合することだった。

蝶はその感覚に身を任せた。すべてが一体となり、すべてが同時に存在している。過去も未来も、希望も恐怖も、愛も憎しみも――それらはすべて、ゼロポイントフィールドの一部だった。


無限と一瞬


どれほどの時間が経ったのかは分からなかった。もしかしたら、時間そのものが存在しない場所では「経過」という概念自体が無意味だったのかもしれない。蝶はただ、無限の可能性の海に身を委ねていた。彼女はすべてを知り、すべてを経験し、すべてを理解しているように感じた。


しかし、彼女はふと、ある感覚に引き戻された。ある光点が強く輝き、彼女を引き寄せた。それは他のすべての光点とは異なる、特別な輝きを放っていた。蝶はその光点に意識を集中させた。すると、そこには一つの「選択肢」が浮かび上がった。


彼女はその選択肢を直感的に理解した。今、自分がこのフィールドから現実世界へと戻るか、それともこの無限の空間に永遠に留まるか。その選択が目の前に提示されていた。


戻るべき場所


蝶は静かに息を吸い込んだ。ゼロポイントフィールドの無限の可能性は魅力的だったが、彼女は自分がまだ果たすべき役割があることを知っていた。この場所での経験は、彼女に新たな視点を与えてくれたが、同時に現実世界の中で自分が何をすべきかを再認識させた。


「私は戻る。」


その瞬間、光が彼女を包み込み、蝶は目を覚ました。現実世界のベッドに横たわり、薄暗い部屋の中で静かに呼吸を整える。ゼロポイントフィールドでの体験は夢だったのか、あるいは現実だったのか。答えはどちらでもよかった。彼女はこの世界に戻ってきた。それだけが今、確かなことだった。

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電子蝶の飛翔 -Neo Bangkok Exodus- 中村卍天水 @lunashade

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