第二章

第1話 大人の恋

 Side—ましろ


 帰ろうと思った足取りは重すぎて、結局純也君の部屋の前に座りこんでいた。

 朝倉という女性がこの部屋に入ってからおよそ1時間ほどが経っただろうか。

 玄関が開き、彼女だけが外に出て来た。

「あら、あなた……」

 私の顔を見て、立ち止まった。


 来た時より、髪が乱れている気がする。

 取ってつけたみたいに艶めかしい口元が浮き上がる。


 父の寝室から出て来た時の、あの女継母の様子によく似ている。


「あなた、誰ですか?」


 思い切って訪ねてみた。


「私は、彼の友達よ。大人の関係のね。あなたは?」


「大人の関係? 私は……彼女です。純也君の彼女です」

 見栄を張った。


 女は首を傾げる。


「そう? おかしいわね。恋人はいないって言ってたけど」


「そんな話までしたの?」


「あなた、高校生よね? 遊ばれてるだけじゃない?」

 上から下まで視線を走らせてそう言った。


「違う! そんな事ない」


「悪い事は言わないわ。彼はやめた方がいい。子供には子供に相応しい相手と楽しく青春してなさい」


「あなたには関係ない!」


「あら、善意で言ってるのよ。あなたには、彼を受け止める事はできないわ。傷つくだけだから傷が浅いうちに手を引くのね」


 そう捨て台詞を吐き、カツカツとヒールを鳴らしてエレベーターに乗った。


 カッと頭に血が上る。

 何か言い返してやりたかったけれど、思考がぐちゃぐちゃで言葉が出なかった。


 再び、玄関の前に膝を抱えて座り込んだ。


 数分後。

 玄関が開き、彼が出て来た。


 ラフなTシャツにジーパン姿。


 髪は寝ぐせでぐちゃぐちゃで、口元には口紅の跡。


「まだいたのか?」


 少し鼻にかかった、寝起きみたいな声でそう訊いた。


「いけなかった?」


 彼はドアを広げてこう言った。


「入れ」


 促されるまま、部屋に上がる。


 前回来た時より、部屋は益々散らかっていて、変な匂いがした。

 その異様な匂いは、敷きっぱなしの布団からだと思った。


 あの女と何かあったのは疑いようがない。


「さっきの女の人と、寝たの?」


 彼は何も言わず全身鏡の前に立っている。

 口元の口紅に気付いたのか、「あちゃー」と言いながらティッシュで拭っている。


「ねぇ、あの女の人、恋人?」


「お前には関係ない」


「じゃあ、どうして私をここに上げたの?」


「えっと、あ、そうだ。これ」


 そう言って、何やらこちらに差し出した。


「アロンアルファ?」


「ああ、これを渡さなきゃと思って」


「もういいよ。もう済んだよ」


「え?」


 彼は不思議そうな顔でこちらを振り返った。


「あ! あ、そうか」


 目が泳いでいて、何かを隠そうとしている態度に見えた。


「もしかして、わざと?」


「え?」


「私を部屋に入れるための口実でしょ?」


「は?」


「そんなに照れなくても。私は別にいいよ。大人って好きでもない人と、そういう事できちゃったりするんでしょ。私はそういうの理解できるから。本当はイヤだけどさ。みっともなく泣いたり喚いたりする気はないよ。そういう人を好きになっちゃったんだって、割り切れる。それが大人の恋でしょ」


「お前、何言ってんの? もう帰れ」


 そう言って、ぐいっと肩口を掴んだ。

 体はいとも簡単に玄関まで押しやられて、あっという間につまみ出された。


「ちょっとー!」


「まだ何か用か?」


「もう! 今何時だと思ってる? もう9時過ぎだよ。こんな時間に、こんな非合法が服着て歩いてるような奴らが跋扈する闇夜を、こんないたいけな少女が、一人でほっつき歩いていいと思ってるの?」


「非合法が服着てって……」


 彼は、ふーんと鼻から大きく息を吐いた後

「駅まで送っていく」


 そう言って、渋々黒いシャツを羽織った。


 ふわっとソープの香りが鼻先を撫でる。


 あの夜の事を鮮明に思い出し、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。


「私んち、徒歩だよ。ここから、15分ぐらい」


「え? そうなの?」


「そうだよ。電話で、そう話したよね?」


「ああ、うん、そうだったっけ」


 なんだかがっかりした。

 私の事なんてその程度なんだ。

 話した事も覚えてない。

 そもそも、ちゃんと聞いてなかったんだろうな。


 無意識に、不機嫌な顔になる。


 そんな私の顔を、彼はちらっと一瞥して俯き、通り過ぎた。


「行くぞ」


「はーい」


 割と静かな夜だった。

 速足気味に歩く彼の背中を小走りで追いかける。

 できれば隣に並んで歩きたくて、息を切らした。


「ちょっと、待って。ハァハァ。ここ! 私んち」


「あ、そっか。じゃあ、これで」


「うん。送ってくれてありがとう」


「また、明日な」


「うん」


 なんだか穏やかな表情になった彼は、じっと私の顔を見つめている。

 じりじりと距離が縮まって。

 はぁ、と甘い息をもらした。


 と同時に。


 突然私を抱きすくめたのだ。


「え?」


「離れたくない。好きだ……愛してる……」


 耳元でそう呟きながら、荒々しくキスをした。

 唇に、頬に、耳に。

 熱い息で覆われるたび、体中が心臓になったみたいに疼きだす。

 肥大して軌道を圧迫する心臓と、溺れるようなキスのせいで、呼吸が止まりそう。


「私も、離れたくない」


 彼の腰に腕を回して、ぎゅっとしがみ着いた。

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