第32話 いざ、山へ
山の麓に立って、大きく深呼吸する。空気が淀んでいると感じるのは気のせいだろうか。
「……山にくるのも、久しぶりだな」
田舎で暮らしていた頃は、毎日山へ行っていた。動物と話すことができる小鈴にとっては、山は人里よりもずっと楽だ。
半妖だ、なんて騒がれる心配がないのだから。
「うん。たぶん、大丈夫」
水は持ってきたし、食料も少しだけ持ってきた。山には川もあるし、この季節なら食べられる木の実くらいはあるだろう。
なにより、それほど長居するつもりはない。
「必ず通天犀を見つけて、角を持って帰ってみせる」
それで全てが解決するかは分からない。でも、小鈴にできることは通天犀を探すことだけだ。
「よし」
頷いて小鈴が山へ足を踏み入れようとした、その瞬間。
「小鈴!」
驚くほど大きな叫び声に、小鈴は思わず耳を塞いだ。半妖の彼女は、普通の人間より嗅覚も聴覚も優れている。
そのため、大きい音は苦手なのだ。
って、今はそんなことはどうでもよくて。
「飛龍様!?」
慌てて振り向くと、こちらへ駆けてくる飛龍がいた。いつも城で見かける派手な服装ではなく、動きやすそうな服を着ている。
長い髪は邪魔にならないように結い上げ、腰には大きな剣を帯びていた。
「なにがあったんです、こんなところに……!?」
「それは俺の台詞だ、馬鹿狐!」
「ばっ……えっ!?」
馬鹿狐、なんて飛龍に言われたのは初めてだ。
「お前、瞭寧山に一人で行こうとしたのか!?」
「え? あ、はい。でもその、私、山には慣れてるんですよ? そもそも昔は山で暮らしていましたし、田舎で生活をしていた時も山にはよくいっていて」
「そういうことじゃない。瞭寧山がどんな山か知ってるのか?」
「霊力が強くて……妖もたくさんいる山、ですよね?」
小鈴が暮らしていた田舎にあった山と比べたら、危険度は高い。しかし標高も低く、山自体はたいして危なくないはずだ。
「そうじゃない。ここは、女一人でくるような場所じゃないと言ってるんだ」
「私はただの女じゃないですけど……」
「小鈴」
強い力で手首を握られ、思いきり睨みつけられる。こんなに必死な表情の飛龍を見たのは初めてだ。
「瞭寧山には誰も近寄らない。この意味が分かるか?」
「危ないところだ……っていうことですよね?」
「ここで、危ないことが行われるってことだ」
呆れたように溜息を吐き、飛龍は小鈴の手首をより強く握った。
「若い女を攫って、山に連れ込む連中がどれほどいるか分かってるのか? 恐ろしいのは、妖だけじゃないんだぞ」
「……分かってますよ。でも私、狐になれますし、他の動物にもなれます」
「男に囚われたら、動物になって逃げだすか? 縛られていたらどうする? 妖だと、その場で殺されるんじゃないか?」
呆れたように言われてしまったら、上手く反論もできない。
「……まったくお前は」
「だって」
「お前みたいな危ない奴、一人でこんなところに行かせられるか」
「……飛龍様、私を心配してきてくれたんですか?」
「……わざわざそう言わないと分からないのか?」
分からないです、と馬鹿なふりをして言ってみる。飛龍はうんざりした表情になったものの、ちゃんと小鈴の目を見て言ってくれた。
「俺を心配させるな」
「気をつけます、飛龍様」
「お前の言葉は信用できない」
わざとらしく溜息を吐くと、飛龍は小鈴の手を引いて歩き出した。
「行くぞ、小鈴。暗くならないうちに」
「えっ、飛龍様もですか!?」
「お前、俺の話を聞いてたのか?」
「はい、でも……」
瞭寧山が危険なところだ。飛龍にとってもそれは同じである。
飛龍様は、どうしてここに?
そもそも閉じ込められている飛龍様が、なんで部屋を出ることができたの?
「翠蘭殿が知らせてくれた」
「翠蘭様が?」
「ああ。どこかは分からないが、お前が危ないところに行くのが心配だ、とな」
飛龍と接触するなんて、翠蘭にとってはかなり勇気のいることだっただろう。佩芳に嫌われてしまうかも、と考えたはずだ。
それでも翠蘭は、小鈴の身を案じ、飛龍に小鈴の危機を話してくれた。
「でも、見張りはどうしたんです? ここへくるまでの間、誰にも止められなかったんですか?」
「幸いなことに、今日は見張りがいなくてな」
「え? どうして……」
「さあな。だが、おかげで助かった。慌てて外へ出たら、鳥たちが瞭寧山の方へ俺を案内するんだからな」
小鈴の手を繋いだまま、飛龍が歩き出す。
「で、瞭寧山にいったい何の用事があるんだ?」
「……通天犀という幻獣を探しにきたんです。その角は、どんな毒や病にも効くそうですから」
「それで、父上を治そうと?」
「はい」
飛龍は少しの間黙り込み、そして、眩しい笑顔で小鈴を見つめた。
「父上が意識を取り戻したら、今度こそ後継者を指名するはずだ。元々、その予定だったんだからな」
「……陛下は、誰を指名するでしょうか」
「決まっている。昔からずっとな」
わざと明るい声を出して、飛龍は歩調を速めた。人間の姿ではついていくのが少しきついが、のんびりしている暇はない。
飛龍様と協力して、絶対に通天犀の角を持って帰るんだ。
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