第2話 優しい人間
「おやすみなさい、小鈴」
いつもと変わらない挨拶に、今日だけは泣きそうになる。だけど、林杏にこれ以上心配をかけるわけにはいかない。
「おやすみなさい、おばあちゃん」
明るい声で返事をし、ゆっくりと目を閉じる。いつもならすぐに眠れるのに、今日はなかなか睡魔が襲ってきてくれない。
飛龍様が、精神病? それって、本当なのかな。
病気だとしても、どうして幽閉されているの?
不安で胸が騒ぐ。小鈴、笑顔で名前を呼んでくれた飛龍を思い出すと苦しい。
一時でも早く、あの人の傍に行きたい。
◆
小鈴が飛龍と出会ったのは、10年前のことだ。
当時、小鈴は7歳、飛龍は14歳。
忘れられない、大切な記憶である。
◆
どうしよう、どうしよう、どうしよう!?
必死に足を動かしているつもりなのに、身体が重くて動かない。矢が刺さった左足から、どんどん血が溢れてくる。
意識も薄くなっていく。しかし、ここで倒れたら、間違いなく死んでしまう。
こんなところになんて、くるんじゃなかった。
どれだけいじめられても、虐げられても、山奥にいればよかった。そうしたら、こんな目に遭うことはなかっただろうに。
生まれた時から、小鈴は一人ぼっちだった。
両親の顔は知らない。生きているのか、死んでいるのかさえも分からない。
ただ一つ分かるのは、どちらかが人間で、どちらかが妖狐だった、ということだけ。
半妖の私には、山の中に居場所なんてなかった。
だから、変化して、人間の姿になって、人間と暮らしたいと思った。
「でも私、人でもないんだもん……」
変化の術は完璧じゃなくて、山を下りる途中で、本来の半妖姿に戻ってしまった。
そして、化け物だ! と狩りにきていた人間たちに追われることになったのだ。
このまま、死んじゃうのかな。
もう動かないし、すぐそこまで、足音が聞こえるし。
やっぱり私って、どこにも居場所がないんだ。
諦めかけた小鈴が目を閉じようとした、その時。
馬蹄が轟いて、目の前に白馬がやってきた。
「大丈夫か!?」
馬上から焦ったような声が聞こえる。そして、一人の少年が軽やかに下りてきた。
艶やかな黒髪、夜空を固めて作ったみたいな、深い色の瞳。この世のものかと疑うほど美しい少年が、小鈴をじっと見つめている。
「足を……。全くあいつらは、馬鹿なことを」
軽く舌打ちし、少年は小鈴に近づいてきた。
「もう安心していい。ああ、そうだ。人間の言葉は分かるか?」
「はっ、はい……」
「よかった」
微笑んで、少年は小鈴の足元にしゃがんだ。血が出ている部分を見て顔を顰める。
そして躊躇いなく、高そうな袍の袖を破った。
「とりあえず止血だ」
袖で小鈴の傷を縛り、そのまま少年は小鈴を肩に抱えた。そして、再び馬上に戻る。
そうしているうちに、小鈴を追いかけてきていた男たちがやってきた。
「飛龍様! 化け物ですよ!」
「なにをなさっているのですか。今すぐ化け物から離れてください!」
顔を青くして、男たちが口々に叫ぶ。しかし、飛龍様と呼ばれた少年は呆れたように溜息を吐くだけだ。
「どこからどう見ても、幼い子供だ。お前たちは子供を殺すのか?」
「飛龍様! そいつは化け物です。耳と尻尾が見えないのですか!?」
「見えている。だが、お前たちはこいつに話しかけたか? ちゃんと言葉を理解しているぞ。なあ」
肩から下ろされ、膝の上にのせられる。目が合って、はい、と慌てて返事をした。
「わ、私、人間の言葉、分かります……しゃ、小鈴といいます」
「ほらみろ」
得意げな顔をし、飛龍は男たちを見た。
「ですが、飛龍様……」
「仮にこいつが化け物だとして、化け物の子だ。化け物の子を殺してなんになる? 化け物の親に恨まれるだけだろう」
「……それは」
「だが、化け物に優しくすれば、どうなる? 親だって、俺たち人間に感謝するだろうさ」
男たちは黙って飛龍を見つめている。飛龍は満足そうに笑うと、再び小鈴に視線を戻した。
「怖い思いをさせて悪かったな。もう、大丈夫だ」
そっと小鈴の頭を撫で、飛龍が穏やかに笑う。
「城へ戻るぞ! この子も連れて帰る」
私、ここにいていいの?
半妖なのに、連れて行ってもらえるの?
聞きたいことも、知りたいこともたくさんある。でもだんだんと意識を保っていられなくなって、気づけば、小鈴は深い眠りに落ちていた。
◆
「……こ。ここは?」
目を開けると、真っ白な天井があった。慌てて身体を起こそうとしても、足が痛んで、上半身しか動かせない。
「気づいたか」
「……ふ、飛龍様」
「俺の名前を覚えたのか? 賢い奴だな」
唇の端だけを上げて笑い、飛龍は小鈴の頭をまた撫でた。
「足の怪我は治療しておいた。数日もすれば、元に戻る」
「あ、ありがとう、ございます」
誰かに親切にしてもらったのは、生まれて初めてかもしれない。山奥で暮らしている間も、人間に化けられる、という特技があるおかげで追い出されなかっただけだから。
「それより、悪かったな。俺の部下が面倒をかけた」
「……部下?」
「ああ。俺はこの国の第二皇子でな」
「第二皇子……」
って、なんなんだろう。
人間の社会のことは、まだ分からないことだらけだ。
「怪我が治るまで、ここにいればいい」
もう一度小鈴の頭を撫でると、飛龍は立ち上がった。
「仕事が終われば戻る。それまで、おとなしくしていろ」
飛龍が出ていくと、部屋に一人ぼっちになった。でも、全然寂しくない。だってまた、飛龍の手の感触が鮮やかに残っているから。
「……飛龍様」
名前を呼ぶだけで、胸の奥が温かくなる。こんな気持ちになるのは初めてだ。
どこにも居場所なんてないと思った。
妖も、動物も人間も、誰も中途半端な私は受け入れてくれないと思っていた。
でも、違うのかもしれない。
「優しい人間って、ちゃんといるんだ」
お転婆狐の後宮勤め〜半妖少女は囚われの皇子を救い出す~ 八星 こはく @kohaku__08
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