第18話(夏菜視点)馬鹿みたいなこと

 部屋に入った瞬間、鞄から小さなヘアミストのボトルを取り出す。思いきり床に投げ捨ててやろうかと思ったけれどやめた。物に罪はない。


「……はあ」


 鼻をつまみたくなるほど甘ったるい、バニラの匂い。

 こんな香りは苦手なのに。


「耀太の馬鹿」


 沙友里から借りたなんて嘘だ。昨日の放課後、わざわざ自分で買いに行った。匂いがちゃんと分かるように、ファミレスへ行く前に髪につけた。

 男ウケ抜群の香り、なんてくだらないネット記事を見ていた自分を思い出すだけで恥ずかしい。そんなの全然柄じゃないのに。


 神楽坂ちゃんなら、きっとこの匂いも似合うんだろうな。


 クールな子だと思っていたけれど、耀太を前にした時の神楽坂ちゃんは全くそう見えない。年下感満載の可愛い女の子だ。

 耀太が神楽坂ちゃんと付き合っていないというのは本当だろう。耀太はそんな嘘をつくタイプじゃない。

 でも、二人が友達じゃないのは確かだ。


 ガンガン! と部屋の扉を叩く音がした。


「姉ちゃん!」


 弟の声だ。悪いとは思うけれど、今は弟の相手をする気持ちにはなれない。

 寝たふりをしてやり過ごそうと思っていると、いきなり扉が開いた。返事をするまで扉を開けないよう、ちゃんと言っているのに。


「ちょっと……」


 文句を言おうとして、私は固まってしまった。

 そこに立っていたのは弟ではなく、沙友里だったから。


「私だよ、夏菜。どうせ寝てないだろうと思って勝手に開けさせてもらった。まもるくんはもう1階に下りたから」


 私がなにかを言うよりも先に、沙友里が部屋に入ってくる。背負っていたギターケースを床に置いてベッドに腰を下ろし、私の手の中にあるヘアミストのボトルをじっと見つめた。


「どうだった?」

「……別に、いつも通り」


 溜息を吐いて沙友里の隣に座る。今さら沙友里相手に見栄を張ったってしょうがない。


「本当、悔しいくらいいつも通りだったよ」


 慣れないメイクも、嫌いなバニラの匂いも、何の意味もなかった。


「これあげる。沙友里に借りたって言っちゃったし」

「え、私もこの匂い好きじゃないんだけど」

「知ってる。でも似合うでしょ、沙友里は」

「かもね」


 ボトルを受け取り、沙友里は髪にさっとヘアミストを吹きかけた。嫌いなはずの甘い匂いも、沙友里がつけるといい匂いに思えてしまう。

 沙友里は昔から変わらない。小さくてふわふわで、砂糖菓子みたいに可愛い女の子のまま。


 まあ私は、沙友里がそれだけの女の子じゃないことも、よく知ってるんだけど。


「夏菜は、こんなのが似合うような子になりたいの?」


 沙友里の手が伸びてきて、私の頬に触れた。小柄な見た目のわりに沙友里は手が大きい。ギターを始めてから、前よりも指が長くなった気がする。


「違うでしょ」


 ぽん、と沙友里は私の頭を軽く叩いた。


「男に合わせて変わるなんて馬鹿みたいなこと、夏菜には似合わないよ」


 私の目を見つめたまま沙友里が笑う。この可愛い笑顔で、沙友里はいったい今まで何人の男子たちを虜にしてきたんだろう。

 沙友里は小さい頃からずっとモテていた。年を重ねるほどにモテるようになっているのはきっと、沙友里が庇護欲を刺激する見た目をしているからだ。


 沙友里あてのラブレターを何通も預かった。

 沙友里の好きなタイプを教えてほしいと何人もの男子に頼まれた。


 その中には、私の初恋の人だっていた。


「夏菜、これ」


 スクールバックから沙友里が取り出したのは、コンビニ限定のスナック菓子だ。あまりにも辛すぎてあまり売れず、ほとんどのコンビニで取り扱いがなくなってしまった商品。


「じゃあ、また明日」


 押しつけるようにスナック菓子を渡すと、沙友里はさっさと部屋を出ていってしまった。またね、と弟たちに明るく言う声が一階から聞こえる。


 ……励ましにきてくれたんだろう、けど。

 まるで、私が失敗するって分かってたみたいだ。


「……沙友里のこと好きにならない男子なんて、いないだろうな」


 沙友里が耀太のことを好きにならなくてよかった。

 ずっとそう思っていたのに、まさかあんなに強力なライバルが出現してしまうなんて。


 どうすればいいんだろう、私は。





 朝練がないと、いつもより1時間以上遅く家を出る。隣に沙友里もいないし、なんだか落ち着かない。

 沙友里はテスト期間の今も毎日朝練があって、とっくに学校へ行っているのだ。


「……あ」


 耀太だ。後ろ姿を見ただけで、一瞬で分かってしまった。

 少しだけ色素の薄い、柔らかそうな髪の毛。中肉中背の身体。


 私が言うのもなんだけど、耀太は普通の男子だと思う。なのにどうして、私は耀太が好きなんだろう。


 初恋の人は、学校で一番足が速い男子だった。

 次に好きになった人は、サッカー部のキャプテン。


 きらきらと輝く姿に一瞬で目を奪われて、心がときめいて。

 耀太への恋とは全く違う始まり方だった。だって私は、いつ耀太を好きになったかなんて思い出せない。


「耀太!」


 名前を呼ぶと、すぐに立ち止まって耀太が振り向く。風が吹いて、髪の毛が少しだけ揺れた。


「おはよう、夏菜」


 私が隣に行くまで、耀太は進まずに待っていてくれる。

 ほとんど身長が変わらないから、私と耀太の歩幅はほぼ同じだ。まあ、足は私の方が長いけれど。

 だから目線の高さも同じ。今まで好きになった人はみんな、背が高い人ばかりだったのに。


「あ。今日は昨日と匂い違うな」

「分かる?」

「分かる。なんか、夏菜っぽい」


 分かってる。耀太に悪気なんてないことくらい。むしろ、私が好きな香りを似合うと言ってくれる優しさだってことも。


「それはどうも。それよりさ、教室についたらまた勉強教えてくれない? 昨日帰ってやってたら、また分かんないところあって」

「オッケー」


 並んで歩いていると、いきなり御坂先輩! と呼ぶ声が聞こえた。

 振り返らなくたって分かる。神楽坂ちゃんだ。

 耀太は急いで後ろを振り向いて、そして……


「神楽坂!」


 小走りで、神楽坂ちゃんのもとへ向かった。

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