サブカの陽炎の森

孤独なピエロ

第1話


サブカの陽炎の森


孤独なピエロ  玉栄茂康

プロローグ


サブカ


サブカはアビア語で無生物の広大な塩砂漠である。アラビア湾周辺の地盤が低い平坦な砂漠は浸透した海水が高温で蒸発して地表に塩が残り真っ白な大地になる。表面は風に吹き寄せられた砂に覆われ地面に見えるがその下は泥沼で落ちると助からない。

サブカにはジンの魔力で現れる陽炎の森を見た者はサブカから抜け出せずに迷い続ける伝説がある。私はサブカ沿岸に生えるマングローブを調査していた。アブダビ西部サブカの陸路を国境検問所サラに向かって砂ぼこりの道を4輪駆動車で走っているとサブカに緑が微かに見えたので確認しようと車を乗り入れたがすぐ泥にはまりスタックしてしまった。漁師のスルタンは「あれはサブカの向こうにある海の陽炎だよ」と教えてくれた。「泥が深くて車は動けないからここで救援を待ちましょう」とスルタンは徒歩でサラの国境警備隊事務所に救援を頼みに向かった3時間は灼熱の太陽と蒸し暑さに汗をかきながらサブカを眺めけたが何も見えなかった。幸い予備の水と食料は積んでいたので日干しにならずにすんだが5時間後にスルタンが泥地に強い水上ブルトーザを連れて戻って車を引っ張りだしてサブカを抜け出し帰路につくことができた。サブカに見えた緑はマングローブの森だと思ったが熱さのせいでサブカに幻影を見たのかもしれないがジンの魔法に惑わされたのかな。マングローブは見れなかったがあきらめないで探そう。これが私のマングローブとの関わりの始まりでジンに騙されたのかもしれない。伝説によるとジンは砂漠を旅する旅人にオアシスを見せて砂漠に迷わせる全身黒ずくめの美女で満月の砂丘から現れ死を誘う魔女である。私は彼女と2度会っている。最初は開所したばかりのUAE水産資源開発センターの宿舎で未明の就寝中に足を引っ張られたので目が覚めたら足下に白い歯と大きな目の黒ずくめの女がニヤリ笑った。私は金縛りにあって動けなかった。その日は潜水で取水口を塞いでいる大きな岩をずらす海底での仕事だった。岩に大きな浮きを付け海側の傾斜に動かしたが上手く動かないので満身の力で押したとき腰に強烈な痛みが走り座りこみアクアラングと2キロベルトをはずして浮上した。スルタンが私を引張り揚げ宿舎に運んでくれた。ギックリ腰だから病院に行かず寝かしてくれた。市販の痛み止めを飲んで2週間日間おとなしくして業務に戻った。二度目はドバイの友人の古屋敷に宿泊した真夜中に目が覚めると足元に黒ずくめの女が私の足を掴んで笑った。叫んだが友人には聞こえてなかった。黒ずくめの女のことをカウンターパート達に話すとモハメッドは「それはブラックゴーストで死に神である私の祖母はブラックゴーストに出会った2日後に死んだ玉栄は気をつけなくてはならない」スルタンは私に不吉なことが起こるかもしれないと心配したが迷信だと笑って忘れてしまった。


UAE


アラビア半島の東北部にアブダビを首都にするアラブ首長国連邦(UAE)-北海道ぐらいの国土の地下に石油が眠る産油国である。UAEの国民は砂漠の民と思われているが真珠取りで有名なアラビア湾の漁民である。彼らは古くから真珠採りを生業にする極貧の生活をしていた。1958年石油が発見されてUAEは富裕国になった。シェイクザイード初代大統領は先進国には絶対できない富を独占しないで国民を大切にする政策を大胆に行なった偉大な人物であった。膨大な石油収入を国民生活の向上に投入した。学校と病院を建設して医療と教育{幼稚園から大學までの無償化、住居を持たない国民には土地つき住宅を供与した。砂漠で農業を希望する国民には整備された土地に井戸設置して供与し肥料も無償で与えた。全国を結ぶ高速舗装道路網の整備、発電所に淡水化工場を併設して水と電気を国民に無料で供給、通信電話局を併設して国民に無料でサービス、税金の廃止、所得税を撤廃して外国企業の移入を進めた、高齢者に生活費と年金を支給、国立銀行を設立して国民に低金利で資金を貸出して起業を育成、砂漠の緑化を推進した。警察と軍隊は各首長国の首長に統制権を与えその給料も支給した。

だが教育の普及により漁村の若者は魚を獲る海を捨て砂漠の遊牧民はラクダと羊を捨て農業を忘れた。若者は労働を忌避しインドとパキスタン人が労働を担った。石油関係の出稼ぎ外国人、インドとパキスタン人労務者の移入で国内の人口は一挙に増加した。生活必需品と食料は輸入で間に合ったが国民の嗜好食料である魚と羊が足りなくなった。漁村は若者が都会に出て老人しか残ってない。砂漠のラクダとヤギ羊の放牧は老人ばかりで若者は便利な都会生活に馴染むと不便な砂漠生活を忌避して村に戻らない。砂漠ではこれまで計画的に残していた餌植物がラクダと家畜に無計画に食われてあまり残っておらずサウジアラビアから飼料を輸入している。

UAE農水省は若者を漁村に戻す政策として古い木造船を廃棄して最新のファイバーグラスラスボートを供与さらに船外機エンジンに漁網まで供与したが若者は戻らずインドとパキスタン人を雇用する漁民が増えた。UAEでは漁師の水揚げは均等に分配する慣習が残っているので雇われたインドパキスタン人漁師達による乱獲が始まり沿岸の魚は激減した。特に高級魚のボラ、アイゴ、ハタj、クロダイ、シマアジ、サワラの乱獲がひどく農水省は漁業規制を始めたが間に合わなかつた。農水省は放流と養殖による沿岸資源の復活を考慮して日本のJICA国際協力機構に支援を要請した。1980年私玉栄茂康(当時31才)がJICA水産専門家として農水省に派遣された。


UAE水産資源開発センター


UAEでは水産養殖と放流いう概念は皆無であった。漁民と農水省の役人達は魚は海で自然に増えたものを獲るもので囲いで飼う必要はないと考えていたが農水省のラガバニ大臣とムタワ次官補は将来のために魚養殖と放流の重要性を唱えていた。玉栄は大臣から指名された3人の新人(UAE大学第一期卒業生アブドララザーク、モハメッドザロウに、アハメッドジャナフィのカウンターパート達とUAE北部の漁村に簡易水槽を持ち込んでアイゴ、ボラ、クロダイ、エビなどの養成試験を開始した。少し遅れて採用された地元の漁師出身のスルタン・ラシッドは海を熟知しており生態調査で大きな戦力になった。水槽での養成試験は好成績を収め、見物客も多く大臣も視察に訪れ盛況であった。1983年、大臣の熱意によりUAE政府はUAE水産資源開発センター建設に日本円換算で100億円の予算をつけた。農水省から依頼された私はセンター建設予定地を7首長国の中からの石油資源のない漁業国ウムアルカイエン首長国に決めた。ウムアルカイエンのシェクラシド首長に報告と挨拶に行くと首長は大変喜んでセンター敷地として沿岸部の5キロメートル四方とアクセス道路を供与してくれた。建設資金はUAE政府が拠出して日本政府の負担はセンター設計と日本のコンサル会社から出向する施工監督者と我々水産専門家の派遣費用だけだった。カウターパート達と生態調査をしながら養殖試験をしていた私は大臣からセンターの建設責任者に指名されたので戸惑ってしまった。センター建設はドバイの5つの大きな建設会社の入札で選定されるはずだったたがUAEで初めての建設のため各社とも用心して入札が進まなかった。JICAより派遣された施工管理監督が小建設会社を選定したのでカウンターパート達と私は選定に異義を唱えてが入札の遅れを理由に無視された。工事着工前にJICAの基本詳細設計と建設業者の作成した工事計画書を比検討する作業に入ったが監督は問題ないと受領した。私とカウンターパート達で工事計画書を精査するとポンプの取水口に連結する海からの導水トンネル工事が欠如していることが判明したので重大なミスだと指摘して基本設計どうりにするよう命令した。業者はこれから設計を変更してトンネル工事をするには時間がかかり入札金も変更しなければならないと抗弁したが私は許さなかった。監督は「地面の下で見えないから良いじゃないか」としたが私は同意せずに「詳細設計どうりしないのは手抜きとみなし政府に報告する」監督「君のクレームで工事が遅れているとJIGAに報告するよ」。玉栄「構いません私は詳細設計どうりに工事を進める責任があります」工事の欠陥は多數あったが監督は見逃していた。設置したばかりの緊急用大型発電機の故障、ポンプの取付部品が粗悪品のため錆びて水漏れがひどく計画している水量を送水できない。養殖池と稚魚養成コンクリートタンクに傾斜がなく水はけがスムーズにできない。海水のろ過システムには大きな欠陥があった。インドネシから輸入したろ過材の小石が安い低級品にすり替わっていたのである。水族館はすでに作動しており今から取り替えることはできない。手抜き工事と不良部品の返却とその交換に手間取り工事は予定より遅れたが妥協はしなかった。英語が苦手な私はイギリス人現場監督の提出してくる進捗状況の定期報告書と物品納入・受領書類はイギリス人特有の下手な字の建設用語で書かれているので辞書に乗ってない単語が多く苦慮した。書類に私のサインがないと政府の金融監査部は工事一部金の前払いを拒否したので業者も焦っていた。工事が進むにつれて取り付け部品の不具合で緊急用発電機とポンプに問題が出てきた。発電機の故障とポンプの水漏れは致命的欠陥だった。JICAの作成した基本設計に記載されていた上質の日本製部品がイタリア性の安い粗悪品異にすりかわいたのである。私は欠陥リストを作成して政府と業者の合同会議でこの問題を提起して部品を基本設計どうり交換して取り付けて正常運転ができなければこれから提出される書類は受領せずサインもしないと宣告した。監督は「ICAは貴方玉栄のクレームのせいで工事が遅れ我々の派遣期間が伸びていることを不快に思ってつているから適当にサインして工事をスムーズに終えて帰国したほうがJICAは満足する」と説得されたが拒否し「このUAE水産資源開発センターはUAEで初めての水産研究所で日本人の威信にかけて完成させねばならない。私は大臣から信頼されて任されたので妥協しないで工事を監視します」。一人の政府高官は「玉栄を排除しなければ問題は解決しないだろう」と声高に言ったので次官から怒られた。ムタワ次官補「君が玉栄の代わりに監督してセンターを完成できるかね」数日後JICAと日本大使館から玉栄の帰国要請が農水省に届いたが次官と大臣は水産資源開発センターの工事中に責任者玉栄を帰国させることはできないと拒否した。JICAは派遣した施工管理監督の怠慢による詳細設計施工管理の不備が私の厳しい指摘で露見してUAE農水省から非難されることを恐れたのである。

建設業者の手抜きを摘発し続けたため対立と恐喝で苦労させられたがカウンターパート達と次官の協力で工事は進み少し遅れたが予定した5年後の1985にUAE水産資源開発センターは完成した。センターの開所式には大臣とUAE大統領シェイクザイードが出席する予定だったがJICA責任者と日本大使の出席はなかった。大統領は急性腎臓病のため欠席されたが後日夫人がセンターを見学に来られた。開設初年度には建設の合間に養殖したアイゴ、ボラ、ハタ、エビを大統領および7首長国の首長と大臣に献上して驚きと同時に喜ばれた。マスコミが大きく取り上げたおかげでセンターには多くの見学者が訪れた。JICAは任期務満了を理由に私の帰国要請を農水省に通達したが大臣はセンターのメンテナンスとカウンターパートへの技術移転が途中であることを理由に要請を拒否した。私は引き続き養殖験を行なった。生態調査が進むにつれアラビア湾の高温高塩分海水の厳しい自然に適応している植物と動物達に驚かされた。海水温45℃のモ場に生息する海産メダカは雨季には内陸の岩砂漠の水溜まりにカエルと棲息していた。夏期の高水温のモ場には膨大なアコヤ貝の稚貝が定着しそれを食うクロダイとフエフキダイの稚魚と若魚が現れた。私はモ場で棲息している大量のアコヤ貝の有効利用を考えJICAに真珠養殖を提案したが農林省の規程で真珠養殖技術は海外に出せないと拒否された。高温高海水塩分のアラビア湾に棲息しているマングローブとモ場に棲息する動物との生態的関係については未知の部分が多いが日本の研究者には興味を持たれなかった。問題の多いアラビアまで行き調査研究する必要はないという考えであった。

後日大臣から呼ばれセンタ建設の労を労われたが次の任務を伝えられた。

これまで誰もやったことのないアブダビサブカの水産有効利用の調査をしてくれと依頼されたので困難とは思わず気軽に引き受けた。


サブカ


 サブカでの調査は困難をきわめた。サブカの泥地に阻まれて4輪駆動車すら入れず海にたどりつけない。遠い昔旅人たちが通ったと思われるしっかりした固い飛び地を探しながら調査した。4駆車がぬかるみにはまり灼熱のサブカで何度も立ち往生した。最初の数日間の調査でサブカの有効利用など絶望的だと思った。サブカは海底まで泥砂漠漠が続き熱いばかりでなく海底には海藻も見られず生物には過酷な環境でこんな所で人間の管理する養殖などできるはずはないと思った。諦めずに数日間の調査でマングローブがまばらに生えた泥沼を見つけた。沼は満潮時に海になるので陸から見えなかったはずだ。沼の底は芝生みたいな海草ウミジグサが繁茂しており不気味だったが踏み込むと腰まで沈み底なし沼ではないかと焦ったが海草に支えられて深く沈まなかった。海草の上で手製の地引網を引いてみた。ぬかるみの中で網を引くのは骨が折れた。網をなんとか引き上げると、網の中に沢山の稚魚と稚エビが飛び跳ねていた。これだと思った。サブカでの水産資源を増やすにはこの入江と同じようにサブカにマングローブを植林して緑を増やせばよいはずだ。 マングローブの植林は多數の研究者が論文を発表しているがサブカでのマングローブ植林については皆無である。水産の人間がマングローブの研究をするなんて周囲からは余計なことをすると見られた。未知の分野だから陸上の森林生態ではなく海洋生態系の視野てマングローブを見ることができた。高塩分土壌では植物は育たないことは常識だと思われているがそれを覆すことがアラビア湾のマングローブにはあった。


マングローブの研究


UAEには河川がなく海水の塩分が異常に高いため熱帯雨林の汽水域に分布するマングローブはサブカでは植林しても活着できない。(沖縄の西表島には汽水【海水と河川の真水の混合水】に棲息するマングローブが自生している)。アラビア湾のマングローブは適応進化と言うべき高塩分耐性を持つ種でサブカの高塩分海水でも生息できるマングローブである。このマングローブは他のマングローブと同様に種子のときに発芽生長するので半胎生種子と呼ばれる種子を真夏に結実させる。私は植林の基本は種子だと考え種子の特性その生態、保存方法、植栽の深さ、塩分耐性、最適な地盤の高さ、育苗方法などについて調査と観察を行ない種子の播種前処理方法などを科学的に解明した。それに加えて種子が手に入る夏場にUAE沿岸の異なる場所に播種して生長を観察した。この研究報告を日本水産学会誌に投稿したが水産ではないと拒否されたが(義弟木下泉の紹介で)京都大学の中原教授海洋研究室の支援で日本生態学会誌に投稿して6篇が受理されて掲載された。この6篇で京都大学より農学博士を授与された。


マングローブ植林の問題点


初期の植林試験は失敗の連続であった。種子を沿岸に植えても波で流失。発芽して稚樹まで生長したのにラクダと羊に食われれたり想定外の外圧に苦しめられた。最悪なケースでは一年経過した稚樹群が港湾浚渫工事で消滅した。植林試験の数年後に苗木がスムーズに成長しないという問題が出てきた。UAEには河川がないため海水が綺麗すぎてマングローブの必要とする栄養分ないことに気がついた。肥料分をどうするか? 科学肥料の散布は赤潮誘発という海洋汚染リスクがあり実践しなかった。アル・アビヤッド島ではオーストラリアの林業専門家が矮小マングローブの成長促進に農業用化学肥料を散布してマングローブの大量枯れ死を引き起こしていた。マングローブに科学肥料を投与すると枯死させることになるので生長促進のための肥料投与はできない。河川のないアラビア湾には陸地からの栄養分が河川を経由して供給されることはない。サブカの海底は海藻すら生えてなく棲息動物もわずかな砂漠である。UAE各地に僅かに残っている天然マングローブの植生調査から共通点を見つけることにした。水深が深く棲息動物の多い入江ではマングローブの樹高は良好で海鳥も多數飛来していた。マングローブが矮小で浅い入江は棲息動物は少く海鳥の飛来も少なかった。棲息動物数とマングローブの生育狀態を比較した結果よりマングローブの栄養源は水域に生息する動物群から排出される老廃物すなわち糞であると推測された。それならばUAE水産資源開発センターのエビと魚の養殖池の廃水を利用して実験すればよいと考えた。養殖池の排水路に沿ってマングローブの種子と苗を植えてみた。


水産資源開発センターでのマングローブ植林


UAE水産資源開発センターの前面は砂浜で毎年強風で吹き寄せられた砂で養殖池が埋まりその除去に苦労していた。マングローブ植林はセンターの廃水路800mの岸に沿ってカウンターパート達、妻惠と2人の子供達で播種した。種子は10日で発芽して生長を始めた。私達は生長を始めた稚樹を被覆する海藻とプラスチックゴミの除去を3日ごとに行い5年後にはマングローブは2mまで成長して大量の種子をつけた。廃水路には海藻のシオグサが繁茂してボラ、クロダイの稚魚とイソガニ、シオマネキアアサリなどの貝類も棲息した。やがて海鳥も飛来するようになった。マングローブの後背部には塩生植物群落が定着した。マングローブ林が防砂林の役目を果たし砂の襲来を止めた。10年後にはマングローブは5mの林となり水路には多様な生物が生息した。底性動物カニとゴカイ類-魚類-鳥類の食物連鎖がみられる生態系が水路に構築されたのである。マングローブ植林が目に見える林になった。UAE水産資源開発センタ開設から13年が経過していた。その頃には教え子たちも、水産局長、水産副局長、センター所長まで昇格し、若い研究者たちも育っていた。1997年JICAはUAEがODA対象国からはずれたことを理由にUAEへの専門家派遣を停止し1999年派遣を全面的に停止した。農水省大臣と日本大使館の強い要請に

より中東効力センターが2年間だけ私の派遣を延長したが2年後にはUAU対する協力は終了してマンングローブ植林も最終目標であったサブカでの拡張試験は実施されずに終了した。このあとのマングローブ植林計画は石油戦略をターゲットにしたノルウエーの企業が玉栄方式を受け継いで開始した。


マングローブ植林の応用


マングローブ植林技術の完成のあとマニュアル化して各地の役所で植林の可能性と重要性を説いて回った。アブダビでは長年放置されていた王宮の隣接地のヘドロの泥地に沿岸から海水を導水してマングローブを植林した。誰も期待してなかったがマングローブ植林による泥地の緑化は泥地の腐植土を栄養分にしてマングローブは急速に成長して5年後に森となり種子を大量に付けた。悪臭で王宮を悩ませた泥地はマングローブにより浄化され魚類が棲息するようになり海鳥も飛来する綺麗な公園に変わった。


ジルク岩盤島におけるマングローブ植林


1999年アブダビで石油輸出を行っていたジャパン石油より、アブダビから100km離れた石出荷基地ジルク島におけるマングローブ植林を依頼された。ちなみに、日本の輸入する石油の約25%はアブダビから産出されており、アブダビは日本の経済にとって大変重要な首長国なのであった。ジルク島は全体が岩の島で常時ZADCO(ジャパン石油とアブダビ国営石油の合弁会社)の職員が大勢働いており少ない緑の木陰は彼等の憩い場であるか緑は貴重な飲料水を給水して維持されていた。ジャパン石油の招聘した日本人マングローブ研究者はマングローブ植林はこの岩盤の島では不可能と辞退したが私は島沿岸の岩盤を掘削して海水を導水して水路を作ればマングローブは植林できると力説した。前代未聞のマングローブ植林にアブダビブダビ環境庁長官は面白いと賛成してADNOCアブダビ石油省を説得すると約束してくれた。ジルク島の職員と機械を総動員した工事で島沿岸からを海水を導水して水路を作りマングローブ植林を行なった。魚類が皆無なので肥料分が憂慮されたがマングローブを植林した水路周辺ははかって海鳥の生息地で鳥糞が地下に残っていたらしくそれが養分となりマングローブ稚樹の成長は期待以上に早く2年目で上空より目視出来る緑の森になった。植林から数年後、マングローブはスムーズに成長して水路には魚が生息し海鳥も飛来するようになり職員達の憩いの場所になった。後年このマングローブ植林事業は国営石油の環境プロジェクトコンクールで列国の環境プロジェクト協力のン石油は中で優秀賞を獲得することになった。ジャパン石油は自社の環境プロジェクトの成果としてパンフレットに載せている


アブダビ王室の環境保護政策への各国の環境協力


アメリカのエプソン石油、イギリスのBP石油、フランスのトタール石油が石油採掘利権の契約を有利にするためにアブダビ王室が大切にしている自然保護政策へ専門家派遣と資金を付けて信頼関係を構築していた。アメリカはカジキ専門家、イギリスはジュゴン専門家、ドイツはマングローブ専門家、フランスはアオウミガメの専門家に調査資金をつけて派遣していたがジャパン石油は何もできず王室との関係も疎遠であったが事務屋職員達は環境には無知で何もできなかった。折しもジャッパン石油がジルク島での石油積み出しで石油漏れを起こして怒った漁民がアブダビ王室に提訴したためジャパン石油は窮地に追い込まれたがアブダビ環境庁が漁民との調停に乗り出して助けられた恩がアブダビ環境庁にあった。アブダビ環境庁は

アブダビ王室のシェイク・ハマダン王子(当時外務大臣)は自分の所有有するアリヤム島のサブカにマングローブを植林する計画を持っていたがマングローブ専門家が見つからず計画を止めていた。アブダビ環境庁長官はハマダン王子からサブカにマングローブを植林できる人物を探してほしいと依頼されたが見つからずにこまっていた。


サブカにおけるマングローブ植林


ジャパン石油は油田契約を有利するための駒として私をアブダビ環境庁に派遣したのである。私はサブカにおけるマングローブ植林の実践が開始できると考えジャパン石油のアブダビ環境庁への派遣を引き受けた。ジャパン石油は大學の専門家達からサブカでのマングローブ植林は不可能であると聞き私にサブカでのマングローブ植林は無理だと王子に伝えるべきとせまりもし私がハマダン王子を止めずにマングローブ植林を実行した場合は玉栄個人の責任にすると逃げた。世界で初めてのサブカでのマングローブ植林は私のこれまでの知識と経験を使えば可能であると確信して王子にマングローブ植林をやらしてくれと頼んだ。ハマダン王子は私が設計した沿岸から長さ2.4km、幅20m、水深2mの水路をサブカに掘ってくれた。水路の流れが早く播種しても流失する恐れがあり稚樹を植林することにして稚樹の養成タンクを作り沿岸海水で10万本の稚樹を養成して水路の完成を待った。水路造成の残渣土砂が干満差で流されて安定した後にマングローブ稚樹を水路の岸に沿って植林した。1年目の稚樹は流れと海風に耐えて活着したが生長が遅かった。心配したハマダン王子からマングローブの生長の遅い理由を尋ねられた、マングローブも植物だから水路の海水に溶けている肥料分を吸収するが水路の海水には養分が少ないからだと答えた。王子は化学肥料を撒けばよいと提案されたがアルアビヤット島での失敗を礼に上げて科学肥料散布は取りやめ代わりの方法を提案した。UAE水産資源開発センターで飼育しているボラとクロダイの稚魚を水路に放流すればそれらの糞が栄養分になると説明した。水路と海の間に網を張り稚魚を放流した。魚に餌は与えなかったがボラは水底の微細なモを食いクロダイはマングローブの落葉を食うヘナタリガイを食っていた。水路で魚の飼育を始めるとマングローブの成長は加速された。水路の岸にはシオマネキとイソガニが巣穴を堀り硫化水素を気化させるので腐臭はなかった。マングローブは5年後に成熟して沢山の種子をつけた。母樹から落下した種子は周辺の干潟に拡散して稚樹となりマングローブ群落を形成した。ハマダン王子はさらに大きく長い水路を掘ってマングローブ植林と魚養殖をするので協力してくれと依頼された。ジャパン石油から余計なことはするなと避難された。環境庁長官は面白いと賛成してくれたが幹部達から他のプロジェクトの運営資金が削られると猛反対されて計画は頓挫した。


マングローブの森は海洋生態系の中心的役割を担っている


マングローブの森からモ場を経て流れる栄養は沖合に拡散してプランクトンの餌となりそのプランクトンはサンゴの餌になってサンゴ礁が造成される。夏期の高温海水のモ場に大発生するアコヤ貝の稚貝とその生育場がモ場であることはマングローブ林から流出する栄養分が関与していることは確かであるがモ場に棲息している膨大なアコヤガイを使用すれば持続的な真珠養殖が可能である。アリヤム島でのマングローブ植林が成功したあと環境庁長官マージッド:マンスールはある日アブダビ首長シェイクモハメッドから真珠養殖の可能性をたずねられた。長官はジャパン石油にアラビア湾での真珠養殖を尋ねたが無知な職員から不可能と伝えられた。それでも長官は諦められず私に相談された。私は長官にアラビア湾では古代よりアコヤ貝に真珠が入っていることは知られている生態調査で大量の真珠貝がモ場に棲息しているのでこれらの貝に日本のように核を挿入すれば真珠養殖は可能だと答えただし私には核挿入挿技術がないので日本から核を挿入できる専門家を招聘しなければならないと伝えた。長官がシェイクモハメッドに真珠養殖が可能であると伝えるとすぐに養殖に取りかかれの指示があり長官はジャパン石油に通達した。ジパン石油は玉栄が長官に余計な助言をしたと非難したうえで真珠養殖に失敗したら玉栄の責任にすると逃げたが長官の依頼でしかたなく三重県の真珠養殖業者平賀夫妻を招聘することになった。


真珠養殖

 

核挿入専門家平賀夫妻の来訪に合わせて私は部下のムサバとマクトゥン3名で大きめな天然アコヤ貝を採取してアリヤム島で私の作った屋根付き浮き生簀

で飼育したがハマダン王子は歓迎してくれた。  

平賀夫妻は採取した天然真珠貝を見て貝質は日本産に劣らないが核の挿入部の卵巣が小さいので小核挿入が安全であると決めたが無知なジャパン石油の職員は日本のように大核の挿入を主張したが平賀氏は大核を無理に挿入すれば卵巣が破裂して貝は死滅するし真珠ができても奇形になると私の支持で小核挿入をおし通した。養殖期間は日本の場合冬季の休眠期間を含む20年間所要する。長官は20年は長すぎるのでてシェィクモハメッドが待てないだろうと危惧した。冬季のないアブダビのアコヤ貝が以外に成長が早いことを考慮して5年間にした。飼育中の真珠貝にはフジツボとカイメンの被覆生物に天敵のオニサザエという肉食巻き貝が紛れ込むので清掃作業の日々で腰まで痛めた。アブダビから真珠養殖場の所在するミルファまで300キロを毎日車まで往復していたがジャパン石油の職員達は手伝いもせず私がミルファで遊んでいると非難していた。5年経過後に最高品質の真珠を作り約束どうり長官に渡してシェィクモハメッドに献上された。小粒であったがたがシェイクモハメッドは満足して我が国で初めてできた真珠であると喜ばれた。ジャパン石油は自分達を経由せずシェイクモハメッドに献上されたことで私を非難したが長官からできた真珠は私に直接渡せという命令だったと伝えた。同時期に採れたた真珠を日本の三木本真珠研究所で分析してもらったが正真正銘の天然真珠であるという結果で長官を喜ばせた。三木本真珠はジャパン石油をとおして養殖真珠は三木本の商品として売り出したいと提案してきたがシェイクモハメッドはアラビア湾でできた真珠は我がアブダビ王家の商品として国賓の土産にするので提案は拒否すると伝えた。

天然アコヤ貝が棲息しているアラビア湾のモ場の生態はよく分かってない。マングローブ林が関与していることは明白であるが調査途中で倒れてしまい解明までは至らなかった。


帰国


それから数年後年後ジャパン石油は私が長官に助言して新規プロジェクトをいくつも立ち上げ余計な仕事を増やし勝手に動いていたことを理由に私を解雇した。

私は友人達が開いてくれた送別パーティの席上で脳塞栓を発症して倒れアブダビのカリファ病院に運び込まれたた。これは私の廃除を画策していたジャパン石油にとっては好都合だった。私が帰国すればアブダビのマングローブ植林と真珠養殖の業績は自社のものとなる。ジャパン石油は私が加入していた海外医療保健の国際医療センターに連絡せず私が危険な狀態にあると妻惠を脅して旅費も支給せず自費で呼び寄せ責任を押し付けた。私が退院して帰国するまでの妻のアブダビ滞在費も自費であった。帰国後ジャパン石油からの見舞いは皆無であった。 死なずに湖国できたがサブカのジンは私に不吉な事が起こることを教えたのかもしれない。私は帰国して小倉記念病院で心臓のカテーテル手術を受けて命を救われたが前頭葉の右脳が壊死して社会復帰は絶望であると医師から宣告された。退院して小倉リハビリセンター病院でのリハビリ3年後家族の元に帰った。高齢障害者になった私は社会と家族からもキャストアウトされた。これは記憶障害で書いているので不明瞭な部分があるだろうが私自身の記録である。


砂漠の緑化


砂漠は大量の水さえあれば造林できる 。巨大な淡水化プラントを設置して水を惜しげなく撒けば砂漠の中に広大な緑を創造できることをアラビア半島の産油国は証明した。しかし年間雨量100mm以下で持続的緑化の不可能な砂漠緑化に真剣に取り組んでいる産油国の姿勢は水資源の豊富な人々には際限のない浪費としか写らないであろう。砂漠に緑を作りそれを維持するには膨大な金と資財が必要である。石油のあるつかの間だけでも緑を手に入れたいと願うアラビア人の感情は緑と水に囲まれた人々にはとうてい理解しがたいものである。 水と緑は代価を支払って手に入れる貴重なものであるという認識の上に立てば産油国の砂漠緑化を単なる浪費とは言えない。むしろ水と緑という永久資源を享受しながらその重大さを認識せず自然破壊と汚染を広げている国こそ貴重な資源を浪費して破壊している。 


サブカのマングローブ植林はモ場と沖合のサンゴ礁形成まで関与しているだけでなく背後の後背湿地帯に自然に繁茂する塩生植物群落はラクダと羊の好飼料である。形成されたモ場はジュゴンとアオウミガメの餌場で魚介類の稚魚の揺籃場である。養殖をマングローブへの栄養供給源として組み合わせれば養殖排水は浄化され続ける。マングローブは植林5年後から種子を自然落下して周辺に拡散する。種子が潮間帯に漂着して稚樹に成長すれば次世代マングローブ林の形成が始まる。種子がアフリカ沿岸まで拡散して森を作れば更に拡散して巨大な生態系が沿岸に住む人々に食料を供給するはずだ。病に倒れた私にはサブカでマングローブの生育を見守ることはできないがマングローブは自分で森を創り続けるだろう。アリヤム島のサブカはマングローブ植林により海洋生態系が構築されたことで持続的緑化は永久に継続されるだろう。サブカのマングローブの森は周辺に種子を拡散してゆっくり拡大していく。アラビア半島に拡散したマングローブの森はアフリカ沿岸まで拡散していき未来の人々はいつの日か巨大なマングローブの森の出現に驚くであろう。


マングローブの有効甲利用


マングローブの実はでんぷん質に富んだ食料になる。肥料と農薬が不要で海水だけで育つ作物として見直されるはずだ。マングローブの後背地の湿地帯に自生する塩生植物は家畜の飼料として利用されるはずだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

サブカの陽炎の森 孤独なピエロ @stamaei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る