第4話

 その日早番だったのは特別なことじゃなくて、俺は社員だからどの時間帯もやることはあるけれど、学生やラストまでやりたいというバイトが多いため、必然的に早番の数が増えている。


 九時オープンなので、出勤は八時。家を出るのは七時過ぎだ。

 あまり眠れた感じはしないけれど、まあ寝不足は慣れてるし、多少体調が悪くても問題ない程度には仕事にも慣れている。


 以前働いていたレストランでこんな眠そうな顔をしていたらぶん殴られてるだろうけど。


 特に代わり映えもしない一日の勤務は無事終了し、帰宅途中に俺はホームセンターに寄る。


 カーテンを買うために寄ったのはいいが、思ったよりも種類は多いし、カラーも豊富だったので、小一時間悩んで買ったのは、レースとセットになっている安い既製品のものだった。


 ただ、色がえんじ色というか小豆色というか、なんとも微妙なものを買ってしまったので、設置するワクワク感もだいぶ薄れてしまっている。赤系統は避けたかったのに、よりにもよってそれを選んだ理由は、ひとえにに他ならない。


 まあ、家電でだいぶ大金を使ってしまったこともあるし、ただでさえ安い給料にこれ以上打撃を与えることに躊躇ちゅうちょするのは当然でもあった。


 家に着くと、風呂も入らず早速カーテンレールに装着してみた。

 それが、意外と部屋の感じにマッチしている感じがして、予想外にいい買い物をしてしまったことに嬉しくなる。


 しかし、俺は和室の片隅を一瞥して嘆息する。

 昨日は確実に霊現象が起きた。それは間違いない。は確実に存在したんだ。


 思い出すだけで身震いしてしまうけれど、出てしまったものはしょうがない。

 今日は疲れたしさっさとシャワーを浴びて、飯食って寝よう。

 言うまでもなく、俺は目を瞑ることなくシャンプーを終わらせた。


 幸い、二日目の夜は『奴』が現れることなく良眠できた。まさかこっちの体調に気を使ってくれてるだなんてことはないだろうし、むしろ初日は慣れない一人暮らしと、七尾さんの話のせいであんな幻覚を見てしまっただけなのかもしれない。


 そんなことを考えながら705号室を出た俺は、お隣の704号室のインターホンを押す。

 ピン、ポーンとワンテンポ遅れて鳴ったあと、5秒ほどして「はーい」という声が聞こえてくる。


「あ、朝早くからすみません。隣に越してきた三木みきと申します。引っ越しのご挨拶に伺いました」

「ちょっと待ってね〜」


 声からすると六十代くらいの女性だった。うちと同じ間取りなら二部屋あるし二人暮らしなのかなとか考え出した瞬間にバン! と大きな音を立ててドアが開かれ、危うく顔面をぶつけるそうになる。


「わざわざありがとうね〜。あらら、若いね。学生さん?」

「あ、いえ、一応社会人、です」


 一応社会人って……なんか社会人のイメージはスーツを着てデスクワークをしている人とか勝手に思ってるから、調理を生業にしている人だって立派な社会人なんだろうけど、なぜか気恥ずかしく感じてしまうのは多分俺が今の仕事にきちんと向き合えていないからなんだろうな。


 そんな自己反省はお構いなしに「ところでさ」と、マダム風の女性は声をひそめる。


「あなたもう呪われた?」

「……は?」


 なんというか、人懐っこい雰囲気を持っている人だから、あけすけにプライベートなことを根掘り葉掘り訊いてきそうな感じはあるけど、出し抜けに呪われた、とはどういうことだろう。


 ……まあ、考えるまでもなく、事故物件に住んでいる俺が地縛霊にでも取り憑かれたのかという確認なんだろうけれど。


「いや……呪われたかどうかはわからないですけど、でもなんかそれっぽいのは――」

「見たの?! やっぱりいるんだねー。はー、こわこわ」


 どこか嬉しそうに身震いするジェスチャーをした後、「で、どんなだった」と好奇心に満ち溢れた目で俺に感想を問う。


「どんなというか……女の人っぽい感じでしたけど、はっきりは見えませんでした」


 その時の状況も詳しく話すと、「はえ〜」とか「おっかねー」とか、聞き手としてはなかなか上手に俺の話を引き出してくれて、たった数分しか話していないのに、もうすっかりと「気心知れたお隣さん」という空気感が出来上がっていた。


「あの、ちょっと訊きたいんですけど、前の住人はなんて言ってましたか?」


 正直、昨日からずっと確認したかったのだ。


 隣の住人は流石に頻繁に入れ替わっていたりはしないだろう。それなら705号室だけではなく、このマンション自体が幽霊に取り憑かれているということになってしまう。


 この様子なら、今までの住人とも接点はあるだろうし、前の住人が立ち退いてからまだ一月ひとつきと経っていないのだから、記憶だって鮮明なはず。


「いやー、それがね。すぐに出てっちゃったから話してないんだよね。挨拶も来てくれなかったしさ」


 とのことらしい。しかし、「その前なら知ってるけど」という言葉を聞き、俺は食いつく。


「なんかね、やっぱ女がいるって言ってたよ。最終的にはノイローゼみたいになってたし……んであれでしょ、死んじゃったんでしょ?」


 怖いわ〜と、今度は本気で言っているようだった。

 確かに、その事故物件に住んでいる俺は恐怖心がないと言えば嘘になるけど、顔見知りの隣人が隣室で自殺したという状況もなかなかに怖い気もする。


 俺は簡単な謝意を告げてその場を辞する。


 部屋に戻った俺は、件の幽霊よりも前々入居者である自殺者がこの部屋のどこでどんな風に死んでいたのかの方が気になりだし、部屋中を見渡すが、それらしい染みやら臭いやらもないし、窓から飛び降りててくれでもしたらいいのになとか、人非人にんぴにんみたいなことを考えていた。


 そしてまた夜が来る。


 隣人に挨拶した結果、事故物件の裏付けみたいな話を聞いてしまい、気持ちは沈む一方だったが、もう引っ越してしまった以上、考えていても仕方ない。


 来るなら来やがれ。こっちはこの優良物件から退去する気なんて更々ないぞ。それなりに駅チカでこの部屋数で二万なんて破格も破格だ。


 俺の安月給ではこれ以上の物件なんて見つかるわけがない。

 むしろ、俺を格安で住まわせてくれている幽霊とやらに感謝したいくらいだ。出てきてみろ。驚くより先に「ありがとう」と告げてやる。


 そんな風に、むしろ強気になスタンスを無理から維持することによって恐怖心を打ち消そうと必死な自分が少し滑稽にも思えたけど、そうとでも思わなければやってられないんだから仕方ない。


 その日は早めに床についた。そして、暫くゴロゴロと寝返りを打っていたものの、なかなか幽霊は現れず、もしかして出ていってくれたのかもなんて楽観的なことを考えながら眠りに落ちそうになった瞬間。


 ガサガサ。


 ビニール袋が擦れ合うような音がキッチンから聞こえる。


 俺は不審に感じたけれど、既に頭は半分夢の中にあって、わざわざそれを確認する気にもならず、目を閉じたまま四分の三くらいまで夢に入り込んでしまう。しかし。


 ガサガサ。


 尚も聞こえてくる。なんだ? 早速ゴキブリでも出たのか? しかし食べ物を出しっ放しにもしていないし、残飯だって放置していない。まあ、だからこそゴキブリが食べ物を探し回ってるのかもしれないな。


 ガサガサ。

 ガサガサ。


 いい加減にしてくれ。腹が減ったなら明日なんか作ってやる。俺は眠いんだ。もうこのまま朝まで寝かせて――


 ドン!


 夢見心地だった俺は飛び跳ねるように身体を起こす。


 今度は先ほどまでの控えめな摺動音しょうどうおんとは違い、明らかな衝突音だった。


 ゴキブリが出す音にしてはでかすぎる。

 音がしたのはキッチンだった。恐らくシンクだろう。

 俺は音のした方を見つめたまま身動きができずにいた。


 いや待て。別にある得るだろう。コップが落ちたのかもしれないし、立てかけていたまな板が倒れたのかもしれない。


 高鳴る心臓を落ち着かせるための言い訳を十通りほど考えてから、俺はゆっくりと立ち上がる。


 和室からキッチンに出るには、襖戸ふすまどを開ける必要がある。正直、これを開けるのも恐怖心がないことはない。


 ドアもドアで怖さがあるが、襖はなんとなくジャパニーズホラー的な怖さを感じてしまうのだ。すーっと開けた時に目の前に幽霊がいる――そんなシーンを山程見てきた――気がするだけなのだが。


 とはいえ、この時は何もなかった。

 髪の長い女もいなければ、ゴキブリだっていなかった。


 ただ、折りたたんで冷蔵庫脇のボックスに入れておいたはずのコンビニで買ったビニール袋が何故かシンクの上に置かれていて、その脇にはシンク下の扉にしまったはずの包丁が転がっていた。


 いや……俺がしまったつもりになっていただけか?

 実は袋も包丁もそこに置きっ放しだったのか?


 なんだかここのところ気の休まることがなくて、何もかも中途半端になっていた気がするし、俺が置き忘れたのかもしれない。


 そうだ。これは気のせいだ。


 ――そういうことにしておこう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る