第3話
ファミレスのキッチンで働きだしてからもうすぐ一年が経つ。
元々調理師になりたかった俺は、専門学校を卒業すると同時に資格を得てからは、学校の知り合いの伝手もあって、まあまあ有名な都内のイタリアンレストランで修行を積むことになる。
一流の食材に囲まれ、一流の店で、一流のスタッフと一流の食事を提供する。
そんな華やかな世界を思い描いていた俺はしかし、三ヶ月後にはその憧れの厨房から姿を消した。
端的に理由を述べるなら、『厳しかったから逃げた』ということでしかない。
実に恥ずかしい。
徹底的に基礎を学ばせるタイプのイタリアンシェフ兼オーナーは、ひたすら俺に仕込みをやらせた。
握力がなくなるまで包丁を握り野菜を刻み、何千回もフライパンを振ったあとの腕はボールペンすら重く感じるほどにまで疲労していた。
そして、極めつけは、先輩シェフからのお叱りの言葉だ。
今どきパワハラ認定されてしまう言動は避けるのが暗黙のルールになりつつあると思い込んでいた俺は、正直シェフの世界を舐めていた。
適当にやろうだなんて思ってもいなかったし、手を抜いたつもりもない。でも、彼ら先輩シェフにはそんなことは関係ない。
「使えねーな」「タラタラやってんじゃねーよ」ならまだいい。
「お前さ、もうその包丁で指切り落とせば」「お前が自殺する時は俺の包丁貸してやるからな」、そんな冗談ともつかない発言を日々浴びせられ、熱湯をかけられたこともあったし、普通に殴られることもあった。
結果、俺は逃げた。
退職願いどころか、退職の意思すら伝えずに、どころか電話がきても全て無視していた。
社会人にあるまじき行為というか、もう人間として最低だと自分を責めたけど、でももう限界だった。
そして、俺は引きこもる。
自宅に。そして、自分の殻に。
働くことが怖くなって、それから五年間はニート生活をして過ごす。
両親は何も言わなかった。叱責も同情もなく、憐れみもしなかったし、励ますこともなかった。
そのせいで社会復帰が遅くなったとも言えるし、逆に、そのお陰で社会復帰できたとも言える。
かくして俺が人生二度目の就業先に選んだのは、ファミレスの厨房スタッフだった。
基本的にはボイルやレンチンで、それを盛り付けて客に提供する。
本格イタリアンを提供していた前の店の奴らが見たら鼻で笑うだろう。
しかし俺は、別に恥ずかしいとも思わなかったし、それを不味いとも思わなかった。
チェーン店で同じ味を提供するのであれば、レトルトになってしまうのは当然とも言えるし、なにより、このハンバーグやグラタンだって、その道のプロが時間をかけて作り上げた立派な『料理』なのだから、厨房での調理の手間がないことだけで、なにも劣ることなどないと思っている。
だが、俺はどこか虚無感に覆われてもいいた。
なんというか、どうでもいいとか考えながら、無心で仕事をしていたんだ。
チェーンのファミレスなので、当然味にアレンジもできないし、「美味しかった」という言葉を貰っても、それは俺に対しての称賛ではなく、商品開発部かどこかの人に対しての言葉だと感じていた。
そう、やりがいを感じなかったのだ。
毎日毎日、高校生くらいの少年少女と共に、調理と呼んでいいのか分からない厨房業務に明け暮れていた。
なんのために、調理師の免許を取ったんだっけ。
俺、なにがしたかったんだっけ。
そして俺は、仕事自体に興味を失い、ただ安定した給料を得るためだけにそこで働いている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます