第2話 ぴあの、ヴォルナールと出会う

「はあッ、はあッ、はあッ、はあッ、はあッ」


 息を切らせながら走り続けるぴあのの後頭部を何かがチッと掠めた。振り返らずに目だけ横にずらすと視界の端を緑色の植物の蔓が鞭のようにしなって横切る。


(植物が……動いて追いかけてきてる!! 危なかった……もし髪が長いままだったら引っ張られて倒れてたかも……!!)


 ぴあのは普段から移動は徒歩か自転車、遠出なら電車だった。そして数少ない趣味は歌を歌うことだったので肺活量もある。だから異変を感じてから今まで走り続けることができていた。


(でももうそろそろきつすぎる……! 肺が爆発しちゃいそう……! 脇腹も足も痛い……!! どこまで逃げたらいいのかわからないし、そもそも私、自分がどこに向かってるのかもわからない……!!)


 訳の分からない場所に突然放り出されて、ぴあのはもう限界だった。体が感じている辛さを一度自覚してしまったら次々に辛いという気持ちが沸き上がってくる。走ることに集中できなくなった彼女はとうとう躓いてその場に倒れ込んでしまった。


「はあッ、はあッ、はあッ、はあッ、あ、ああ、なにこれ……嫌……たすけてッ……!」


 自分の弾む息と動かない足を恨みながら、ぴあのは追跡者の姿を目の当たりにした。それは植物の蔓を人型の支柱に這わせて作り上げたようなおぞましい怪物だった。頭に大きな赤い花が咲いているのがへたくそに人間の真似をしているようで殊更気持ちが悪かった。


『しゅる、しゅる、しゅる、しゅう』


 声とも音とも知れない醜怪な響きは笑い声にも聞こえた。疲労と恐怖でガクガクと震える足腰に力を入れるぴあのだが、もう立ち上がることはできなかった。


『しゅるるるるる!!!!!』


 おぞましい怪植物は鋭い音を立てると、鞭のようにしなる触手を倒れたぴあのに向けて放つ。それは彼女の手足に巻き付いてその自由を奪った。


「嫌!! いやなの!! 離して!! 嫌ああああああッッ!!!!!!」


 ぴあのが思い切り大声を出すと、耳があるのかもわからないが怪植物は怯んだようで触手の力を緩めた。植物も驚いたようだが、ぴあの自身も自分の声があまりに大きく、そして他者にここまで強く嫌悪と否定を叫んだことがなかったので、自分にそんなことができたのに驚いていた。一瞬呆けたが、すぐにチャンスだと気が付いて触手を振り払い、彼女は叫び続けた。


「嫌!! あっちに行って!!! 嫌い!! 誰か助けて!! 助けに来て!! いやあ!!! いやああああああッッ!!」


 誰でもいい。誰か助けてほしい。ここがどこなのかもわからないし、誰もいないかもしれないけど。それでも誰かがこの声に気付いてくれる一縷の望みを胸に、ぴあのは叫び続けた。しかし、疲れ果てた彼女はもう限界をとうに越えている。水も飲めずに走り続けた直後の喉はカラカラで、すぐに息が切れてきてしまった。


「はあ……はあ……はあ……はあ……っぐ……」


 尻もちの状態でへたり込んだままずるずると足を動かして遠ざかろうとあがくぴあのの手足に再び触手が伸びる。もう彼女は叫ぶことができなかった。

 首に巻き付いて頭を固定され、今度こそ身動きが取れなくなってしまう。震えながら小声で「いや……いや……」とつぶやくぴあのの耳から、とても細い触手がぴゅるると入って来た。そしてぞっとするほど奥まで入り込むずるずるという感触を覚えたのと同時に、哀れな獲物は身じろぎすらできなくなった。


(いや……こわい……なにこれ……)


 目を見開いて涙をこぼす事しかできないぴあのの衣服を怪植物が我が物顔で剥いでいくというのに、無力な彼女になすすべはない。


(なんで脱がすの……ひょっとして汚されちゃう……? それとも……)


 食べられちゃう?


(や……やだ……。もう死んだ方がいいかもってさっきまで思ってたけど……こんなとこでこんなふうに死ぬのはいや……誰か……誰か……)


 弱々しく歯をかちかちと鳴らして恐怖する彼女の素肌を嫌らしい植物の蔓が這いまわる。トキヤの雑な愛撫は気持ちよくなかったが、植物による侵略行為はそれに輪をかけて不快でおぞましい感触だった。


「うう……ううう……う……ッ」


 耳に入り込んだのと同じ細長い触手がぴあの下着の中に入り込んでくる。プライベートな場所を好き勝手される悔しさと悲しさにぴあのは絶望しそうになった。

 その時、そんな彼女の目の前で怪植物の、人であったなら顔のある部分がぐぱぁ……と開いて中から太く、まるで肉の様な質感の赤い触手が現れて彼女の下腹に伸び始めた。


(やだ……やだやだやだやだ……やだあ……)


 汚される……と半ばあきらめを含んだ恐怖の視線をぴあのはその触手から離すことができない。女の尊厳に関わる部分に突き立てられると思って固く目を閉じて衝撃に備えた彼女だったが、触手が入り込んだのはそこではなかった。


「ひゅッ……? うそッ……そこ、なんにもない……、ッ!?」


 ずるるるるッ、ぢゅぷん、と音を立てておぞましい肉色の触手が刺さり、入り込んだのは臍の下。内臓の上に張られた皮膚……なだらかな腹だったのだ。


「いやぁあああ……! きゃああああ……ッ!」


 もうだめだ、とぴあのが思ったその時。バシュッ! と何かが空を切る音がして、目の前で怪植物の肉触手が切断された!


 バシュ! バシュ!! バシュ!! とさらに続けざまにその音が鳴り、光の矢とでも呼ぶべき輝く武器が彼女を拘束する触手を順番に貫き、千切っていく!


「■■■■!!」


 日本語ではない言葉で誰かが何か言っている。その声の主は人間と同じ形の手で未だぴあのの下腹に刺さったままの肉触手の残骸を掴み、勢いよく引き抜いた。


 ずるるるるッ!!!


「んッ、ああああッ……!!!!」


 刺さった時は痛みも感じなかったのに、引き抜かれるときにぴあのが感じたのはあろうことか快感だった。痺れる身体に襲い掛かった甘い刺激に痙攣する彼女の体を誰かがそっと抱き上げる。


「■■■!!!」


 別の声が鋭く響き、光の矢でハリネズミのようになっていた怪植物に火球が飛んできて命中し、めらめらと燃え上がった。ぴあのにとってわからないことばかりだがそれを見てただ一つ、自分は助かった。という事実だけはわかった。


「あ、ありがとうございます……あ……っ」


 燃え上がり崩れ落ちる怪植物に釘付けになっていたぴあのは、ようやく誰かに助けてもらったのだからお礼を言わなければということに思い当たったので、抱きかかえてくれている相手の顔を見た。そして、その相手があまりに美しいので思わず息を呑んでしまった。


「■■■?」


 言葉はわからないが落ち着く声で話すその男の顔は薄汚れてところどころ傷跡が残ってはいたが、ぴあのが今までテレビや映画ですら見たことがないくらいの美丈夫だった。真っ白な肌。青みがかった銀色の髪、猛禽の鳥のような金色の目。そして、その耳は人間のものとは違って長く尖っていた。


(ああ……やっぱり……ここ、天国とかなのかも……)


 美しすぎる者を間近で見たことで張りつめていた精神の糸の最後の一本が切れ、ぴあのはその男の腕の中でとうとう意識を失った。


(■■……■■■)

(■■?)

(■■■)


 あれからどれくらい経ったのだろうか。誰かが話している声が聞こえて、ぴあのは泥の様な意識の底から浮上して目を覚ます。


(誰か話してる……私……そうだ。私……助かったんだ……)


 ぴあのがうっすらと目を開けるとそこはとても簡素な部屋で、横たわる自分に薄いシーツがかけられていた。それを指で撫でて、彼女は自分がベッドに寝かされている状態であることを認識した。そしてその部屋には一組の男女がいて、目覚めたぴあのに気付いたようだ。


「■■■!」

「きゃ……」


 赤毛の女が何か言いながら近づいてくる。その後ろで腕を組んで壁に寄りかかっているのは、気を失う前に自分を抱きかかえてくれていた美丈夫だ。

 戸惑うぴあのの首に、赤毛の女が手を伸ばしたので、ぴあのは反射的に身をすくめてしまう。どうやら、首に何かチョーカーのようなものをつけようとしている? びっくりはしたが危害を与えようというわけではないようなのでとりあえず大人しく向き直ると、赤毛の女は改めてぴあのの首に何かを填めた。


「もしもし? もしもし? 言葉解る?」

「あ……に、日本語……? じゃない……私が、言葉わかるように、なって……?」

「ほらね、通じた。言ったでしょ。やっぱり稀人まれびとだよ、ヴォルナール!」


 ぴあのと意思疎通ができることがわかってはしゃいだ様子の赤毛の女にヴォルナールと呼ばれた尖り耳の男は、美しい顔をしかめて頷いた。

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