第13話
山口瞳さんは、「偏奇館主人」という号を、名乗っていて、変わり者を自称していて、小さいころは「冷血動物」という綽名だったらしい。が、書くものからは人情家で世事にも通じていたような印象で、随筆とか読むと「今年の正月の客は100人だった。鯨の潮吹きになる人もいなくてよかった」とか書いていて、大変な社交家みたいでもあった。らしい。
「偏奇」な、「傾奇者」?そういう人物が文学者にはやはり多いという傾向はあるような?…だとしたらなぜだろうか。
天下の奇書、とか言われる類いの書物はままあって、そういうのばかりを嗜好する人もいる。ビブリオマニア、というのとまた別だろうが、好き者ほど?だんだんヘンタイチックになるみたいに、愛書癖が嵩じていくと、マニアックになって、稀覯で、マイノリティな趣味のほうに興味が移っていくとか、だからだいたい読書自体が”オタッキー”という流行語にもあるような範疇の行為というのはまあ常識の範疇と思う。
もちろん”健全な読書”というのもあり、自己啓発本とか医療や科学の本、こういうのもボクは好きで、健康法の本とかは特に明快で読みやすいので、ヘンな?読書の毒消しになったりする気もします。
科学的な本、論理があって、極力わかりやすく知識を伝達するのが主眼の書物とは、もちろん文学的な本は趣きを異にしていると思う。科学者と純文学の作家では、風貌や話し方、文体、発想や語彙、いろいろと異質であろうし、接点はあっても、話しはかみ合いにくいのが普通と思う。
人間は柔軟で、数学の時間の次に国語で詩の鑑賞をしたりしても、別に違和感なく処理できるし、複雑な時代だからこそアタマの柔らかさは大事で、そういう学校時代に進路と適性を見つけて、ソクラテスが言った「汝自身を知れ」という究極の箴言の実践の訓練をするのである。まあ、オフコース、生半可だが?
「文学書」を読む趣味というのも、まあ自然に発現して、生来の性向を、助長強化していって、で、だんだんに狷介で孤独な人物に、ますますなっていく…そういうことは普通にお決まりのコースで?たぶんどうしようもない不可避な必然…ありふれた言葉だが「運命」というものだろう。文学というものがこの世にあるからいけない…そういえば、それだけのことなのだ。
だが、ルネサンスを「文芸復興」と呼ぶように、文学は一つの福音でもあるのだ。ありうる。人間性のすばらしさを謳い、愛と美と夢を称揚する…ジュネの「泥棒日記」ですら、読む分には、素晴らしい人間賛歌に思える。」
英語のことわざには、「Peaple are freaks 」というのがあります。人間はみんな片輪。おおげさにいうと、それだから人間。
だから、もっともリアルに人間的な芸術である文学では、偏奇で、かたわな人ほどに深い文学をなしうる…逆説的だが、そこが文学が文学たる所以なのではないか。
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