第10話


 物心つくかつかないかの頃には、父がたまたま買ってあった「日本文学全集」というものが、家にあって、他に読む本もあまりない感じで、そればかり読んでいたものだ。


 新潮社の発行で、主として近代以降、明治から昭和の中期、それくらいの有名作家が網羅されている。二葉亭四迷とか樋口一葉、漱石、鷗外、そのあたりから、北杜夫、安部公房とかが一番最近というラインナップでした。


 これはまあ、基本的な自分の「大人の読書」の濫觴として、自分の中では大きな体験でした。家に他にあんまり難しい本がないので、繰り返し同じ本を読んだりする。で、理屈抜きにセンスやら語彙が身について、影響を受けてきたな?と思う。


 太宰治とか谷崎潤一郎、志賀直哉、武者小路実篤、そういう人気のある作家の巻が、やはり面白くて、熟読した感じです。人気がある作家というのはだから目配りがいいというかものの見方が普遍的で、より幅広いものの見方、捉え方ができて、なおかつ文章表現力が高くて的確なのかな?と思う。ポピュラリティーは、読みやすさもあるし、?が、精神の闊達さとかやっぱり、天性の真実的な文才もあるかと思う。


 思い付きをいい加減に書いたが、これは一口に言いにくい、難解なこととも思います。例えば、埴谷雄高という人と、赤川次郎さんを、一律に論じにくいのと同じく、

ハリーポッターが売れるからと言ってノーベル賞にはならないような?そういう文学の難しさを論じるのは若輩のボクには手に余ることです。


 その後、成人してから東京に行ったついでに、「世界文学全集」を買った。

 30巻くらいで、中国の古典とか、千夜一夜物語もあり、ディケンズ、デュマ、ユゴー、モーム、ゾラ、O・ヘンリー、バルザック、ヘミングウェイ…かなりの名作が逐一揃っていて、だいぶん熱心に読んだので、読書体験において”中興の祖”というのは明らかに変ですが?そういうエポックメイキングな全集になりました。


 で、その頃からちょっと精神が不安定になって、ひきこもっていて、読書もあまりできない暗い空白があったが、少し回復してきて図書館に通いだしたころに、図書館だから全集の類は豊富にあって、いろいろ借りて読み漁った。


 こういう、それなりに文学との不即不離の交流?を長年続けて来て、文学部もなんとか卒業はして、で、読書体験を総括すると、「読んだら読んだだけのことはあり、しかしやはり悪書の影響も怖い」というような感想です。


 色々読んだもので、ボクという不完全だが一人の人間の骨格ができていて、なおかつそれはほかの全部の体験を凌駕するくらい強い影響になっていて、その影響が善悪両方にいまだに根強くある…今昔の読書にあまり相違がなく?何度も読んだ本の発想、表現方法、知識、のあれこれがことあるごとに日常の場面で意識に上ってきて、それはもう一種の運命で、どうしようもないことだなあ、とか思うことが多いです。


 なぜそういう特定の本を繰り返し読んだのか?とか、思い返すと、それは自分の中のどこか偏った、歪んだ部分の反映だったりもします。


 それは要するに、…蟹は甲羅に似せて穴を掘る、とか割れ鍋に綴じ蓋、とかそういう諺と同様の現象なのかな?とか思います。


 マルセルプルーストを読んではいないけど、誰かが「結局かの20世紀最大の小説のテーマは、「人は自分の殻を破れない」ということだった」とか…

 コルク張りの部屋で呻吟した結果、そういう結論に至った…「文学」という営為の本質を極めてポエティックに表現している逸話のような気もする。

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