第9話

「読書」というものを始めたころには、もちろん自分の、小説、物語、文学、そういうものに対する理解、捉え方は純粋で、素朴で、まっすぐで曇りがない、変な偏見やバイアスがかかっていない、それゆえ至極真っ当なものだったと思う。


 ごく幼いころには、童話や絵本の類にまず触れ始めて、その頃に「文学」とかそういう観念は自分の中にまだなくて、いろんなほかのおもちゃの一つとして、「本」があった。


 で、たぶん、「本」とか活字にかかわるいろんな事象が、ボクには相性が良くて、それは早熟で利発な子供には当然かもしれない。知の世界、そういうものの萌芽が活字、読書で、潜在的な奥深さとか無限に豊饒なイマジネーションの宝庫、汲めども尽きせぬ知識の泉、そういうワクワクするようなものに、本やら活字というものがボクの幼い主観には映ったのだ…たぶん、運命的に。


 ホリエモンという人も、幼少期に百科事典を読破していたと聞く。大量の書籍に囲まれている知識人、そういうイメージは、ある典型、ユングの「老賢者」のアーキタイプ、ホモサピエンスたる所以の嚆矢、最初にボクが「文学」に描いたイメージは、たぶんそういう広大無辺な知の世界につながる多くの手がかり、端緒のひとつで、いちばんとっつきやすい体裁をなしているもの、そういう漠然とした理解だったのだろう。


 とりわけ文学、小説、物語の特徴は「大衆的」であるところで、もちろん無数のありうべきバリエーションが存するものの、エンターテインメントという側面が文学や文藝をそうあらしめているのは明白で、大衆的な「人気」とともに文学的な評価声価が高まるのは万古不易かもしれない。


 石川啄木とかも、当初流行の自然主義小説を執筆すべく苦心したらしいが、結局そっちは大成せず、短歌のみが評価されて残っている。


 もちろん「言語藝術」であるはずだが、文学に要求される大衆性、普遍性、人間性の本質に迫る真実が表現されていること?その裏付けは社会的な人気、ポピュラリティーで、却って、その二律背反な両義性、そこのところが文学というものの核心、本質かもしれない…


 曖昧な発想をそのまま書いてしまったが、「みんながいいという小説」、「じぶんのひとりよがりな小説」、があった場合に、本質的にどちらが本当の藝術、文学、ホンモノであるかということで、やっぱりケースバイケースなのかもしれない。が、時代を先取りしているという場合もあるし、刷り込まれている色んな固定観念や偏見をどんどんアップデートしつつ、そのために視野を広く持って、種々様々な文藝に触れて、貪欲に取り込んでいくのがいいのかもしれない。



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