第8話
日本の文学には独自の”色”があって、たぶんそれぞれの文化や民族に応じた特色はどうしようもなく生じざるを得ない。はずです。
で、中途半端ですが、日本の場合は、東洋的な侘び、寂び、みやび、自然の観照、朗詠、非常に共感できる懐かしいような「和」の風情、それが文学や文藝においても根本にあると思います。
「菊と刀」や、「清貧の思想」または「陰翳礼賛」、ラフカディオハーンや、そうした表徴に象徴されうる伝統的な日本の文化、文明のエキゾチシズム、ユニークネス、文学もそれらの古来の潮流のひとつでしかありえない。
川端康成さんの「美しい日本の私」を、サイデンステッカーさんが翻訳した英文を、また和訳し直したことありますが、やはりそういう渋い和風な「嗜み」、技芸とか、様式美、そこを強調していた。
これは川端さんのノーベル賞受賞の記念論文ですが、その後に1994年、大江健三郎氏が二人目の受賞者となった。その時の記念論文は、これをもじった?「あいまいな日本の私」というものだった。
未読だったので読んでみると、原文は英語の、講演らしいが、当初より「翻訳されることを意識して翻訳体で小説を書いていた」らしい、国際派の大江氏らしく、川端康成の純日本風の”和風の美・賛歌”とは、自らの文学が別のものであるところを強調していて、もちろん時代の変遷も含意しつつ、今の状況というか日本の文学のあり方、ある可能性は、どうあったらユニークなものになるか?…いろいろと”あいまい”で、そこを両義的なまま表現した?そういう印象である。
ボクは、大江氏の著作は一部分しか知らず、が、「個人的な体験」には、感動した。
いろいろな作家の評、「われわれはこの作家の作品を読まざるを得なくされるだろう」というような、特殊な高踏的な作風が、筒井康隆氏によれば「日本最高の知性」と、目されていることも既知で、ノーベル賞の受賞は、たとえばソルジェニーツイン氏の受賞のような、「政治的な」色合いがあるのか?そういうことも多少文学に詳しければ常識かもしれない。
世界の中の日本の文学、そういう命題についての思惟が、その、大江氏にしてすら、結局「あいまい」なものであった。
そこに文学というものの深遠さ、一言ではなく、多くの文字で語られざるを得ないテーマについて、実際に無数の文字の縦横無尽、自由自在な組み合わせで、奔放に、豊饒に、余すことなく語られざるを得ない、人間の崇高な知性の本領にして、最後の砦、その意味が、かえって究極的に表れているのだ…
だから、サヨクだとかウヨクだとか、単純に割り切れない、マスゴミ的なものの対極にあるのが、文学、そして人間の人生なのだ。
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