第7話


 連綿として、人間の歴史とともに”文学”があったということには、なんらかの意味があるのであって、文藝、文学、詩作や戯曲、あるいは演劇、そういうものは、人類と切っても切れないものなのだろう。


 レーゾンデトル、とよく使う言葉だが?最初のほうで”言語藝術”と、文学や文藝を定義しましたが、そもそもコミュニケーションの手段として発祥した”言語”language が、発展して、洗練され、複雑化していった結果、余沢、余徳、遊びとして言語の形式のほうに着目してそれをアレンジする”言葉遊び”とか、”うた”ができてきた…これが文藝の萌芽、濫觴だったのだろう。その時には、ただ面白いだけで、意義とか目的までは問われず、また曖昧で、存在しなかった。と思う。


 つまり文学の起源は、最初は言葉を工夫して”うまいことを言う”のが自己目的で、たとえば和歌のように、それにより異性の気を惹くとか、そのあたりの技術がだんだんに洗練されて、いろいろな尾鰭がついていった…ちょうどスポーツとかと似たような発展をしていったのではないか?


 音楽や絵画、はまあ純粋芸術と言えるものかしれんですが、言語藝術である文学、文藝は、誰にでもすぐできて、で、親しみやすくて、わかりやすく面白くもあった。


 ホモ・ルーデンスとか、遊びをせんとて生まれけむ、なんていう言葉もあるように、人類が進化するとともに、ゲーム、娯楽、暇潰レジャーし、そういうものは不可欠なアイテムになってきたのだろう。脳味噌が大きくなって、いろいろな悩みとか増えたりしても、複雑になって人間の生活やら精神生活はどんどん豊饒になってきて、多彩に百花繚乱、ルネッサンス、そうなってきて、まあまさに”文藝復興ルネッサンス”という、それが近代というもの夜明けだったんだと思う。


 で、ロマンチックラブとか、恋愛至上主義が高らかに謳われて、かのゲーテのようなロマン派詩人の全盛時代が訪れた。文学はそういう時代の花形の藝術…まさに美と愛と夢の華やかな嚆矢、そうしてその象徴が「薔薇ならば、花開かん」と言ったそのゲーテの薔薇のイメージだったのだ…


 かなり生半可なまま書き飛ばしたが、つまりこういう”言葉で楽しむ、遊ぶ、夢を見る”それこそが文藝の本義、文学のレーゾンデトルだと思うわけです。





 

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