第5話

 個人的な読書歴については、過去にも何度かいろんなエッセイで書いてきましたが、全く偏頗極まりなくて、遅まきながら、最近、「基本的な教養や素養を身につけるためのっ効率的な読書術」とか、そういう本無いかな?と探したりする。


 「東大教授の薦める本30冊」だったか、前に岩波新書のを持っていて、ちょっと試し読みしたらいい感じだったですが、結局これも積読。


 かなりアカデミックな内容だったが、むしろもうちょっと読む本の水準を高めたい感じなので、学生に人気のあるらしい新進気鋭の学者のいろんな名前があって、そこも貴重なニュースソースな感じだった。


 だから頭が3,40年前の?今とはずれている過去の流行とかそのあたりで思考停止していて?新しい考え方でアプデしたいというのか、かなり心身のリハビリを持続してきて、ようやく最近読書意欲もふたたびわいてきたのです。


 「読書しないと」という強迫観念は昔からあって?読書の効用を最近は言いにくい感じか知らんが?ちゃんとした人たちはちゃんとたくさんいろいろな本を読んで心の糧にしているというのは万古不易の真実だと思う。


 また、「観念の呪縛」というのか、生半可に読んだ本の内容が、固定観念みたいになって、自縄自縛?その発想とかが自由な思考の敷衍やら演繹というか、とらわれ、みたいになっている場合がある。これは言葉ワードへのこだわりというのか、ユングの「連想記憶」という本にあったような、コンプレックスのある単語への反応が遅れる、そういう個々の細かい事例にもあって、で、あえて「いいにくい言葉」を言語化、発語するのが解放になるという現象を、割と最近発見して、自己流のセラピーに利用したりしている。


 一冊何か読んだ本のすべて信じ込むのなら読まないほうがマシ、と、それは論語だったかにもあった教えだが、若いころはちょっと読みかじった本の内容を鵜吞みにして?それでなんだか精神が偏ってしまったり、そういう幼稚なことも多々あった。


 出来上がってしまっている偏見の”毒消し”に、別の本の見方を知る、それで、視点が相対化多角化されて、より理解やらが深まるということはありそうだ。


 わりと通暁している分野に「精神分析」というのがあるが、これでも鼻祖はフロイト。弟子や亜流にはユング、アドラー、ライヒ、アンナ・フロイト、フロム、土井健郎その他

多くの人がいて、それぞれに趣きを異にしている。


 そういう様々な、個々人それぞれの思想の分化とか、その背景の人生史の投影、そういう多くの事例を現実に知悉していくことで、いかにして一人の人間が一つの思想というものを確立するに至るかという、そういう道筋とメカニズムを理解しうる。


 だから、そういう現実にたくさんの書籍を、苦労して一字一字理解していくという、そういう作業を長年積み重ねていく結果に、教養というものの、萌芽であっても、木の年輪のように?だんだん形成されていくというのはあると思う。学問に王道なし、というのはこれもたぶん万古不易の真理ではないか…



<続く>

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