第62話 躍進準備⑤
冬の後半。伝令犬の実用化に取り組ませていた騎士ジョエルより、ユトレヒトとランツ間での伝令が可能になったと報告が上がった。
それを受けて、領主であるヴィルヘルムの立ち合いのもと、伝令実験が行われることとなった。
賢く、人懐こく、健康的な二匹のベレネ犬。その首輪に備えられた筒の中に、ヴィルヘルムは自身しか内容を知らない伝令文を入れた。
伝令犬たちは、ジョエルの指示を受けてユトレヒトの東門から出発。ランツへと続く街道を元気よく走っていった。
それが午前中のこと。順調にいけば、正午過ぎには返信を携えた伝令犬がランツから送られてくる。その予定通り、昼食を終えたヴィルヘルムたちが東門で待っていると、二匹の犬が街道を駆けてくるのが見えた。
「よーし、お前たちよくやった。偉いぞ」
門の前にたどり着き、ジョエルに撫でられながら尻尾を振る二匹の犬は、午前にユトレヒトを出発した犬とは違う個体。犬の疲労や故障を抑えるために、同じ犬に往復させるのは緊急事態でもない限り控えることになっている。結果的に、ランツの側にも自力でユトレヒトにたどり着ける伝令犬がいることの証明となっている。
「閣下、ご確認をお願いします」
犬たちの首輪から取り出された返信文をジョエルから受け取り、ヴィルヘルムはそこになされた封蝋を割り、内容を確認する。
それぞれの返信文には、ランツの代官を務める伯父ラウレンス・ファルハーレン男爵の署名と共に、それぞれ数字の列が記されていた。
二通の伝令文に、ヴィルヘルムは簡単な数式を記した。自身がその場で適当に考えた数式の答えは、数式の記された伝令文を見ない限り記すことができない。ラウレンスの署名とファルハーレン男爵家の封蝋と共に、正しい答えの記された返信が届いたら、伝令文が確かにランツへ届けられた証左となる。
「……問題ないよ。伝令犬たちは、確かに務めを果たしてくれたようだね」
文から視線を上げ、ヴィルヘルムはジョエルと犬たちに笑顔を向けた。
「ジョエル、よく頑張ってくれた。素晴らしい成果だよ」
「ユトレヒトとランツを僅か二時間ほどで繋ぐとは。軍事的にも画期的だ」
ヴィルヘルムと、上官であるエルヴィンからも称賛され、ジョエルは照れ笑いを見せた。
「ありがとうございます。これも、犬たちが利口だったからこその結果です」
そう言ってジョエルが示した犬たちも、自分の働きを褒められていることを理解しているのか、どこか誇らしげな顔をしているように見えた。
彼らもなかなか、人間に負けず劣らず表情豊かだと思いながら、ヴィルヘルムも二匹の頭を撫でてやる。
「それじゃあ、今後は騎士による伝令と並行して、伝令犬たちにも仕事を任せよう。何度かそうやって、犬たちによる伝令の実用が問題ないことを確認した上で、以降は平時の伝令を犬たちに完全に任せることにしようか」
重要な書簡などは、さすがに騎士に運ばせる必要がある。そして非常時の急報についても、第一報は足の速い犬たちに任せるとしても、確実かつ詳細な報告は人間が担うことになる。
が、それ以外の伝令――一日や二日遅れても問題のない平時の連絡については、伝令犬たちに完全に任せられる日も近い。
ヴィルヘルムの言葉に異論はないのか、エルヴィンもジョエルも頷いた。
「それとジョエル。早速だけど、今回の成果を活かして次の仕事に臨んでほしい。ユトレヒトと鉱山都市ルールモントを伝令犬による伝令網で繋いでほしいんだ。そのまま繋ぐには長すぎるから、ファルハーレン男爵領に中継地点を置こう。伯父上には許可をとってある」
「承知しました。犬を六頭ほどご用意いただければ、春のうちには伝令を成功させてご覧に入れましょう」
ジョエルは迷うことなく、自信ありげに即答する。
「任せたよ。犬の手配はエレディア商会に頼んでおく。そう時間もかからずに届けられるはずだから」
答えたヴィルヘルムは、伝令犬実用化の詳細についてはエルヴィンに任せ、あらためてジョエルに労いの言葉を語った上でその場を後にした。
・・・・・・
「――以上が、最近の帝国中央部の情勢になります」
領主執務室で報告を語ったのは、外務と情報収集を統括する従士ナイジェルだった。
「そうか……冬のうちから、随分と派手に動くものだね。宮廷貴族らしいと言えばらしいけど」
ヴィルヘルムは思わず苦笑を零しながら、呟くように言う。
様々な思惑の渦巻く世界を生きる宮廷貴族たちは、ヴィルヘルムたち領主貴族に言わせれば、狡猾で姑息で油断ならない連中。彼らの現在の動きは、そんな印象に違わないものだった。
彼らは各々が兵力を集め、金や物資を集め、他の派閥への妨害工作に動き出しているという。そうしながら、表向きは秩序の維持や皇帝家への忠誠を語り、自派閥が御輿として担ぎ上げた皇帝家関係者こそが次期皇帝であるとしてその正当性を喧伝し、他派閥の動きを非難している。
栄えある帝国軍のうち、第二軍団と第三軍団は既に瓦解。将兵のうち貴族たちはそれぞれの家の属する派閥に合流している。平民軍人の多くも、出身地の領主や代官の属する派閥に与し、あるいは提示された報酬に吸い寄せられ、各派閥の編成する軍勢のいずれかに属している。
そうして編成されつつある各派閥の私兵は、元が帝国軍であるが故に、それぞれ「真の帝国軍」を名乗りながら他派閥の軍勢を賊軍呼ばわりしているという。
また、各派閥の勢力圏では帝国軍のみならず、傭兵や各貴族家の手勢、徴集兵までが集められている。四つの派閥に分裂している帝国中央が、冬明けから武力衝突に臨むのは確実。
その前段階として、特に各派閥の要人が集う帝都においては暗殺が横行しているという。
派閥の有力貴族やその家族。有能で、他派閥から見れば後に脅威となるであろう士官や文官。派閥の後ろ盾の大商人や、大工房を有する職人。そうした者たちが次々に死んでいる。少し前など、勢力的には二番手にあたる派閥の旗頭、皇帝家の血を引く大貴族に対する暗殺未遂さえ起こったという。
過熱する対立を嫌い、貴族たちは冬の最中にもかかわらず、相次いで帝都サンセシルを脱出。皇帝家直轄領を囲む中央の各貴族領、それぞれの派閥の支配域に逃げ込んでいる。宮廷に残っているのは各派閥の中堅以下の貴族や、僅かな中立派の貴族たちのみ。彼らと平民の官僚たちの手によって、帝都の機能はかろうじて維持されている。
そんな中で面白い動きを見せているのが、亡き皇帝の盟友マクシミリアン・シュヴァリエ侯爵。
帝国軍最後の名将などと呼ばれる彼は、中央部が混乱し始めた初期のうちに、自身を慕う将兵を連れて帝都を離れていた。実力主義であり、平民出身者や下級の宮廷貴族が多い第一軍団の多くが彼に付き従っているという。シュヴァリエ侯爵の人望に惹かれたのか、最近ではここに、第二軍団や第三軍団からも一部の将兵が合流していると言われている。
そんなシュヴァリエ軍が合流したのが、帝位争いに勝つのは絶望的と見られていた、四番手の派閥。おそらくは、弱小派閥に力を貸して勝たせることで、将来的に圧倒的な発言力を手にし、政治的なしがらみをできるだけ抑えたい侯爵の狙いがあるものと見られている。
亡き皇太子のはとこにあたる公爵家嫡男を旗頭とするこの弱小派閥は、総勢で一万に届く上に精強なシュヴァリエ軍を擁したことで、軍事力に限っては他派閥を上回るほどに勢いづいている。
こうなると、中央の帝位争いにどの派閥が勝つのか、ますます分からなくなってくる。混乱の長期化も必至とみられる。
「それで、アプラウエ子爵領の方は?」
「地図はこのように、裏道などを調べ、さらに細部を詰めました。行商を通じて地元民にも聞き込みをしているので、村の見逃しはないはずです」
主の問いに答えながら、ナイジェルは地図を広げる。
そこに記されているのは、アプラウエ子爵領の北部。ランツと子爵領の領都を繋ぐ街道と、その周辺に点在する村の位置関係、それぞれのおおよその距離だった。
かつてはリシュリュー伯爵領だったアプラウエ子爵領北部については、古いものだがある程度詳細な地図があった。それをもとに、ナイジェルの部下に現在の変化を調べさせ、新たに増えた道や新興の村などを追記した上で完成したのがこの地図だった。
「ご苦労さま。これでヴァーツラフたちもかなり動きやすくなるよ……子爵家に動きはある?」
「冬明けに向けて、兵を徴集する準備が進んでいるようです。物資の集積などは、この冬のうちにある程度完了するものと予想されます。動きがあればすぐに報告いたします」
「頼んだよ……いよいよだね」
ヴィルヘルムは薄く笑んだ。
冬もいよいよ終盤。この地図の完成をもって、こちらの戦いの準備はほとんど完了している。
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