第22話 答え

 屋敷の外に出たヴィルヘルムは、夜の風を浴びながら空を眺める。

 フルーネフェルト男爵領でこれほどの惨劇が起こっても、夜空は何も変わらない。いつもと同じように、星々と二つの青い月が美しく輝いている。

 この世界の夜空は、自分にとって特別な意味を持つ。ここが前世とは異なる世界であり、これが新たな人生であることを、この夜空こそが思い知らせてくれる。

 そして、この夜空は亡き母との思い出でもある。今はもう、母との思い出の日々は、あの星々や二つの月のように遠い。

 父と兄も、母のいる場所へ旅立った。

 夜空を見上げ、静かに流れる涙の温かさを頬に感じながら、ヴィルヘルムは考える。この数日で頭の中に散らばっていた思案の欠片を、ひとつの思考へと組み立てていく。


 兄エーリクは、フルーネフェルト男爵領の次期領主に相応しい人間だった。勇敢で、民を守る使命感に溢れていた。しかし、その勇敢さと使命感を現実の力に変える術を持たなかったために、無惨に死んだ。

 父ステファンは、善良な領主だった。先祖より受け継いだフルーネフェルト男爵領を、そこで暮らす民を、慈悲深く思慮深く治めていた。しかし、家と領地が弱小であるが故に、父はそれらを守るために生涯苦労し、それでも力が足りずに殺された。

 兄と父の命を奪った暴虐が、いずれこの地へやってくる。一族が守ってきた家と領地も、臣下臣民の平穏な暮らしも、彼らの命と尊厳も、自分が今世で実現した夢も、暴虐に曝される。

 ただ平和に、この第二の人生を謳歌したい。その願いは、今まさに迫りくる理不尽と無慈悲によって踏み躙られようとしている。


 何故そうなるのか。応えは明白。弱いからだ。フルーネフェルト男爵領が弱いからだ。これまで享受してきた平和を、己の手で守り維持するだけの力を、自分たちが持たないからだ。

 平和に幸せに暮らしていたいとどれほど願っても、世界はそれを許してはくれない。これまで続いた平和がこれからも続くという、薄弱な根拠の上に乗った楽観をどれほど己に言い聞かせても、世界はそう優しくあってはくれない。どんな崇高な信念も、優しい心も、力の前には簡単に蹂躙されてしまうのだ。

 自分が生まれ変わったここは、そういう世界なのだ。

 いや、この世界に限った話ではない。かつて生きた前世もそうだった。真の平和など歴史上でただの一度も実現したことはなく、現代になってもいつもどこかで戦争が起こっていて、誰かの生活や命が理不尽に奪われていた。

 結局のところ、人は生きている限り、戦いから完全に逃れることはできない。力がなければ守りたいものを守れず、欲しいものを得られない。


 平和は無償ではないのだ。ただ待っていれば与えられるものではないのだ。


 前世と今世、二つの歴史を学んだ自分はそのことを誰よりもよく知っていたはずなのに。新たに得た平和な人生があまりにも楽しくて心地よくて、今日までそれを忘れていた。いざ自分が人間の残酷さと力の恐ろしさに曝されるまで、目を逸らして忘れていたのだ。

 もう二度と忘れない。平和の脆さと楽観の愚かさを。自ら掴んだものでもない平和の上で胡坐をかき、楽観に溺れ、その果てに何を失ったのかを。決して忘れない。忘れてなるものか。

 平和が欲しい。安寧が欲しい。それらを誰からも脅かされないだけの力がほしい。

 ならば、自分たちも力を持つしかない。貴族が土地と民を治めるこの世界では、すなわちこの地の為政者である自分こそが力を持つしかない。

 母が愛し、父と兄が守ろうとしたフルーネフェルト男爵領のため。フルーネフェルト男爵家に仕え尽くしてくれる臣下たちのため。フルーネフェルト男爵家に縋る以外に生きる術を持たない民のため。そして、愛する伴侶と、いずれこの家に生まれるであろう我が子のため。実現させた己の夢を守りながら平和に暮らしたい自分自身のため。

 自分が、フルーネフェルト家が、庇護下の臣下臣民が、誰からも理不尽に踏みにじられないだけの力を手に入れるしかないのだ。

 そのために、フルーネフェルト男爵領をもっと強く――いや、違う。それだけでは足りない。


 国を作ろう。大切なもの全てを、守り抜けるほど強い国を作ろう。

 答えを得たときには、涙は止まっていた。


・・・・・・


 屋敷の中に戻ったヴィルヘルムは、それぞれ休息をとっていた皆を広間に集めた。


「僕は父と兄の遺志を受け継ぐ。フルーネフェルト家の新たな当主としてこの地を守り、臣下臣民を守る。そのためにまずは、迫りくる脅威を打ち破る。その先に立ちはだかる困難も全て乗り越える……そして、国を作る」


 アノーラを、そして広間に集う全員を見回しながら、ヴィルヘルムは言う。


「誰かの庇護に縋り、これでもう大丈夫なはずだと自分に言い聞かせて楽観に依っても、力がなければ何も守れない。そう思い知らされた。大切な家族や臣下臣民の、取り返しのつかない犠牲と引き換えに知ってしまった。だからもう、他者に命運を委ね、都合のいい楽観に逃げたりはしない。僕の庇護下の者たちに、同じ悲劇が起こることを許しはしない」


 語りながら、ヴィルヘルムは自身の手を見つめる。今はまだ力を持たない手を、強く握る。


「フルーネフェルト家を、そして臣下臣民を、己の力で守る。そのために僕は、僕自身が治める国を作りたい。フルーネフェルトの名のもとに、アクイレギアの旗の下に、僕の庇護下の全てを守り抜けるほど強い国を築き上げたい」


 目の前の危機にどう対処するのかではなく、その危機を乗り越えた先にどのような未来を築くつもりなのかを、今あえて語る。それこそが、皆に希望を抱かせるために、必要なことであると信じながら。


「僕一人では成し得ないだろう。君たちの助けが必要だ。だからどうか、これから僕に力を貸してほしい。君たちの忠誠と尽力に、僕も命を懸けて応えると誓う」


 再び皆の方を向き、ヴィルヘルムは呼びかけた。

 返される表情を見て、視線を受けて、自分の語った未来に皆が希望を見出だしてくれたのだと分かった。


「……ヴィリー。ヴィルヘルム・フルーネフェルト閣下」


 まず答えたのは、アノーラだった。彼女はどこか恍惚とした瞳でヴィルヘルムを見つめていた。


「全ての臣下臣民が救われる、素晴らしいお考えだと思います。あなたは偉大な人。あなたならどんな困難も乗り越えて、偉業を成し遂げられると確信しています。あなたの行く道が私の行く道です。どうか傍で支えさせてください」


 そう言って、アノーラは一礼する。清楚で、上品で、それでいてただならぬ迫力を内包した礼だった。


「閣下」


 次に口を開いたのは、表情を引き締めたエルヴィンだった。


「父ノルベルトは、閣下の父君に忠誠を捧げました。私も父の遺志を受け継ぎ、フルーネフェルト家に、その当主となられた閣下に絶対の忠誠を誓います。私は閣下の剣となり、そして盾となります。どうか我が命をお使いください」


 決意を語ったエルヴィンは、剣を抜いて床に立て、片膝をつき、騎士としての覚悟を示した。


「……私の」


 エルヴィンに続いて言ったのは、ハルカだった。


「私の姉の無念が晴らされるなら、姉たちの死がよりよい未来を築くための糧になるなら、それに勝る救いはありません。閣下の御信念を実現するために、私の持つ能力の全てを捧げます。なのでどうか、どうか……」


 普段の温厚な彼女とは別人のように力をこめた声で、ハルカは語りながら一礼した。


「閣下。私の一族は、一介の行商人からフルーネフェルト家の従士にしていただきました。軽い決意でフルーネフェルト家への忠誠を誓ったわけではありません。忠誠心では皆に負けないつもりです……悲劇ばかりが重なって、先が暗くなっていく中で、閣下のお言葉にまた明るい未来を見せていただきました。閣下が国を作ると仰るなら、私も全力でお手伝いします」

「私は何も変わりません。家令としてフルーネフェルト家に尽くすのが人生の喜びです。私のような年寄りでは大したお力にはなれないでしょうが、せめて閣下のお帰りになるお屋敷はこれからも私が守りますので、どうかご心配ありませんよう」


 続いてナイジェルが、そしてヘルガが、それぞれ信念を語って礼をする。


「……商人もまた人間です。根を張った地や関わる人々への愛着もあれば、築き上げたものを守らんとする矜持もあります。それらこそが大成する上で最も肝要だと、私は祖父や父から教わりました。フルーネフェルト家と共に、エレディア商会も躍進していく所存です」


 淡々と述べて、カルメンは慇懃に一礼した。


「私どもは閣下より安住の地と活躍の場を賜った身。それらを守るためならば、如何なる貢献も惜しみません。フルーネフェルト劇場の全ての役者が同じ覚悟のはずです」


 ヴィルヘルムが当主となったことで新たに要人として呼ばれているジェラルドが、美しい所作で礼をしてみせた。

 この場に立ち会っている他の者たち――騎士や官僚、屋敷の使用人、ユーフォリア教の司祭も、次々に首を垂れる。皆がヴィルヘルムに忠誠を示す。この数日の絶望を共有しているからこそ、ヴィルヘルムの語る野望を、皆が希望と見なしていた。


「ありがとう。君たちの言葉も、君たちが示してくれた忠誠も、決して忘れない。僕はフルーネフェルト家の当主として、必ずや君たちを守るだけの力を手に入れ、君たちに平和をもたらす……まずは明日、死者たちの葬儀を行う。そして策を練り、戦いに備え、リシュリュー伯爵を倒す」


 冷静な声で、しかしそこに確かな覚悟を込めながら、ヴィルヘルムは言った。


・・・・・・


 明日の葬儀に向けて実務面を話し合い、夕食を終えてベッドに入ったときには、既に深夜になっていた。

 静かな高揚を抱えながら、果たして眠れるだろうか、とヴィルヘルムは考える。明日からは戦いに向けて動き出す。無理にでも眠って、できるだけ体力を回復させなければならない。

 目を閉じて心を鎮めようとしていると――隣で横になったアノーラに、そっと抱き寄せられる。


「……ねえ、ヴィリー」


 彼女の胸に抱かれながら、耳元で囁かれる。

 ヴィリー。今ではもうアノーラ以外に呼ぶ者のいなくなった愛称。


「今日、あなたの人生は変わってしまった。今までの楽しい平穏が戻ってくることは、もう二度とないかもしれない……あなたの背負う重責や、あなたの抱える苦悩を、きっと伴侶の私でさえ、分かち合ってあげることはできない。だからせめて、あなたに伝えておきたいの」


 語りながら、ヴィルヘルムを抱くアノーラの手に、より一層力が込められる。


「この先あなたが何をしても、私はあなたを受け入れる。あなたが目的を達成するためにどんな手段を選んでも、失敗して無意味な犠牲を出しても、たとえ道半ばで挫けても、何も成し遂げられずに終わっても。それで臣下臣民の全員があなたを責めても、失望しても、糾弾しても。私だけは全てを許して、あなたの味方であり続ける。たとえあなたと一緒に死ぬことになるとしても、最後まであなたと一緒にいて、決して離れない」


 アノーラの言葉を聞きながら、ヴィルヘルムも彼女の背中に手を回し、彼女を抱き締める。


「それくらいのことしか、私はしてあげられない。こんな約束をしても、あなたの重責や苦悩は何も変わらないかもしれないけれど……」

「……そんなことはないよ。絶対にそんなことはない」


 伴侶の腕の中で、ヴィルヘルムは答えながら、自然と微笑が零れた。

 絶対の保証などあり得ない世界で、自分は決意した。必ず成し遂げると。

 だからこそ、アノーラのくれる約束は、他の何よりも大きな安らぎをくれた。何があっても彼女だけは味方であり続け、最後まで傍にいてくれる。そう思うことで、どれほどの重責を負っても、どれほどの苦悩を抱えても、挑み続けられると思えた。

 自身も父を失いながら、壮絶な決意を抱いてそれを気丈に語る彼女の、強さと偉大さを今あらためて思い知った。


「ありがとう、アノーラ。君がいるから、僕はこの先も歩んでいける。君を愛してる」

「私も、あなたを心から愛してる。これからもずっと」


 最愛の女性の体温を感じながら、ヴィルヘルムはこれ以上ない安堵に包まれ、そうしていつの間にか眠っていた。

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