第21話 無言の帰還

 数瞬、時間が止まったかのような静寂が場を包み、そして間もなく、今度は動揺が天幕内の空気を支配する。


「……なっ、何をしている!」


 マルセルは明らかに余裕を失った表情で叫び、その様を前にステファンは思わず笑む。

 伯爵領軍の騎士たちが慌てて動き、ノルベルトを討つ。三本の剣に胴を貫かれ、膝をつく従士長に、ステファンは顔を向ける。


「よくやった、我が忠臣」


 主人の最後の呼びかけにノルベルトは頷き、ゆっくりと天幕の床に倒れ伏し、そのまま動かなくなった。

 それを見届け、ステファンは再び前を、マルセルの方を向く。彼の焦りようを見て、してやったりと思いながら息を吐く。口の中に血の味が広がる。

 自分が死ねば、人質となることはない。息子の戦いを邪魔することはない。

 天幕に入った隣領の領主が生きて天幕を出なければ、マルセルが護衛として引き連れてきた数十人もの騎士や兵士たちは考える。自分たちの主は、フルーネフェルト男爵をこの場に誘い出して殺したのだと。彼ら全員がマルセルと親しい重臣ということはあり得ない。フルーネフェルト男爵が護衛に自分を斬らせたのだとマルセルが言ったところで、大半の者は信じない。

 そして、マルセルは彼ら全員の口を塞ぐことなどできない。噂は瞬く間にリシュリュー伯爵領内で広まる。


 交渉に赴いた父が帰還せず、姿も見えないとなれば、ヴィルヘルムも覚悟を決める。あの聡明な息子ならば、父を殺めたであろう侵略者と対峙し、正しく領主貴族の義務を果たそうとする。

 そして――ステファン自身はその可能性が決して低いものではないと思っているが――もしヴィルヘルムが勝利を成せば。一方的な侵略によって兄を、理不尽な嘘によって父を殺された息子の手には大義名分が残る。降伏したマルセルを容赦なく殺しても許されるほどの大義名分が。もはやマルセルとの共存は不可能である以上、老いた自分の命を代価として、マルセルとの禍根を永遠に断つ大義名分を息子に残してやれるのであれば悪くない。


 ただの意趣返しではない。死ぬに足る価値がここにはある。

 全ては都合のいい想像かもしれない。しかし、自家と自領のより良き未来に、そして驚くほど聡明な息子の可能性に想像を巡らせながら逝くことは、せめて許されると思いたい。


「貴様、いや、貴方は馬鹿ですか! 側近に自分を殺させるなんて!」


 先ほどまでの余裕ぶった態度が嘘のように、マルセルは動揺しながら喚き散らす。


「ああ、どう見ても致命傷! これでは私の計画が! ああもう、本当に貴方は何という…………ふ、ふふふ、ふはははははっ!」


 マルセルの嘆きは、突然笑い声に変わる。


「はははははっ! 認めましょう! してやられましたよ! 今この場においては、貴方の覚悟に私が敗けました! お見事です!」


 耳障りな大声で語りながら、マルセルは正面を守る領軍の隊長を下がらせ、ステファンの目の前まで進み出る。


「どうせこちらの護衛たち全員の口を塞ぐことはできないでしょうし、私が貴方にしてやられたと領内に知らしめるのも癪ですから、ここに約束しましょう。貴方の思惑通り、私が命じて貴方たちを殺したことにして、何ならヴィルヘルム殿にもそう伝えましょう。そして貴方に敬意を表し、貴方と護衛の騎士殿の遺体をユトレヒトに送り届けましょう。その上でヴィルヘルム殿がどう動くのか、見届けてあげましょう……ステファン・フルーネフェルト男爵! 安心して死ぬがいい!」


 マルセルは自ら抜剣し、構えたその剣先をステファンの首元へ当てる。


「……それが事実ならば感謝します。またすぐに、あの世でお会いしましょう」

「戯言を! まったく大したお方だ!」


 喉元へ向けて振り抜かれる刃が、ステファンの見た最後の光景だった。


・・・・・・


 夜、父ステファンと従士長ノルベルトは、ユトレヒトに無言の帰還を果たした。


 マルセル・リシュリュー伯爵が提示した恭順の条件を、ステファンは拒否した。新たな主に逆らった懲罰として彼と護衛を殺し、フルーネフェルト男爵である彼へのせめてもの敬意として、二人の遺体は送り届けた。そのように記された書簡が、二人の遺体と共にユトレヒトの門前へ荷馬車ごと置き去られた。

 ヴィルヘルムは自家の騎士たちに命じ、二人の遺体を速やかに回収させ、屋敷へと運ばせた。


 アノーラに寄り添われ、重臣たちに囲まれ、ヴィルヘルムは物言わぬ死体となり果てた父と、最後まで父を支えてくれた従士長と対面する。

 父は死んだのだ。二度と目を開かないステファンを見下ろしながら、その実感が静かに心の内を満たした。

 遺体の運び込まれた一室に集う皆を見回す。泣く者もいれば、沈痛な面持ちで顔を伏せる者もいれば、呆然とする者もいれば、悔しげな表情を見せる者もいる。

 ノルベルトの息子エルヴィンは、無表情で父の遺体を見下ろしていた。既に覚悟はしていたのだろう、その目に悲愴はない。代わりに、強い決意の炎が宿っている。ノルベルトの妻であるリンダは、目を瞑り、静かに夫のための祈りを捧げている。

 そしてノルベルトの娘であるアノーラは、永遠の眠りについた父を静かに見つめながら、表情を引き締めていた。伴侶であるヴィルヘルムが泣いていないので、自身も涙をこらえているのか。


 ヴィルヘルムは視線を父に戻す。

 エーリクの死を聞いても、その遺体を目の当たりにしても、父は臣下臣民が見ている前では泣かなかった。父も兄も世を去った今、自分こそがフルーネフェルト男爵家の当主であり、このフルーネフェルト男爵領の領主。であれば、皆がいる中で、自分が感情を露わにして弱い姿を見せることはできない。

 泣くのではなく、父より受け継いだ義務を果たすために何をすべきか、考えなければならない。


「……少し一人で考えたい。皆もしばらく休んでほしい」


 そう言い残し、目が合ったアノーラと頷き合い、ヴィルヘルムは部屋を去る。

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