第18話 送別
リシュリュー伯爵からの書簡は、領都ユトレヒトの東門へと到来した騎士――兜からしておそらくはラクリマ傭兵団の団員が、門の前に置いていったとのことだった。
書簡を介して伯爵が伝えてきたのは、一連の襲撃が自分の指示であることの表明と、フルーネフェルト男爵家当主ステファンとの、領境での会談要求。
会談の結果次第では、こちらはこれ以上の武力を用いることなく平和的に事態を収束させる意思がある。会談要求に応えるのであれば、明日の夜までに領境へ来るように。書簡にはそう記されていた。
一晩考える。書簡を読んだステファンはそう言い、夕食もとらず執務室に籠った。そのまま、翌朝まで部屋から出てくることはなかった。
まだ日も昇らない早朝、ステファンはノルベルトを呼んだ。側近である彼としばらく話して下がらせた後、また少しの間部屋に籠っていた父に、今度はヴィルヘルムが呼ばれた。
いつも何かしらの書類が積まれていた父の執務机は、今は奇妙なほど綺麗に片付いていた。
リシュリュー伯爵の会談要求に応え、ノルベルトと二人で伯爵のもとへ赴く。父のその決断を聞いたヴィルヘルムは、血相を変えた。
「あまりにも危険すぎます! きっと罠です! リシュリュー伯爵がまともに話し合いなどするとは思えません! 平和的な事態収束どころか、父上の身の安全さえ保障されるかどうか……」
今やただ一人の息子となったヴィルヘルムの訴えに、ステファンは頷きながら口を開く。
「もちろん分かっている。その上で赴くのだ……たとえ罠の可能性が高いとしても、話し合いでの解決など実現するとは思い難くとも、これ以上民の血を流さず全てを解決できる可能性が僅かでもあるのならば、その可能性に賭けなければならない。他にこの危機を乗り越えるための有効な手がない以上、一縷の望みをかけてリシュリュー伯爵のもとへ赴かなければならない。それが、この地の領主としての責任だ」
厳しい表情で語ったステファンは、そこで緊張を和らげるように微笑する。
「理不尽な話だと思っているのだろう。それは私も同じだ。だが、どれほど理不尽でもこれが現実なのだ。フルーネフェルト男爵家は弱く、選択肢は極めて少ない。その現実を受け止め、現実の中で今選べる最善の手を選ぶしかない」
優しげな父の声を聞きながら、ヴィルヘルムは思考を巡らせる。
父は死ぬ覚悟を固めているのだと思った。昔からの側近であるノルベルトだけを連れてリシュリュー伯爵のもとへ赴こうとしていることからも、それは明らかだった。
その父を止めるための言葉が、何も思い浮かばない。どれほど考えても、父を引き留めるだけの力を持った言葉が出てこない。
「……お願いです、行かないでください、父上」
結局、口から零れたのはそのような泣き言だった。目に涙を浮かべながら、駄々をこねる幼子のようなことしか言えなかった。
心の内にあるのは恐怖だった。幼くして母を失い、つい昨日に兄を失い、このままでは父をも失う。親兄弟の全てを失ってしまう。その恐怖に駆られて父に泣き縋りながら、そんな自分の無力さに憎しみさえ覚える。
「……ヴィルヘルム。いや、ヴィリー」
領主貴族ではなく、ただ父親の表情になりながら、ステファンは呼びかける。領主の椅子から立ち上がり、ヴィルヘルムに歩み寄る。
「私が生きて帰らなければ、お前がこのフルーネフェルト男爵家の主となる。フルーネフェルト家と臣下臣民、そして迫る危機へ対処する義務までをお前に受け継がせることになる。大変な重責を負わせることになってしまうが、せめて私の力の及ぶ限り、お前に負担を残さないようにすると約束しよう……もはや、私にはその程度のことしかしてやれない。すまない、愛する息子よ」
そう言って、ステファンはヴィルヘルムを優しく抱き締める。
それからしばらくして、執務室の扉が叩かれ、入室したのは軍装のノルベルトだった。
「閣下。出発の準備が整いました」
「……そうか、ご苦労」
側近に答えたステファンは、領主執務室を見回し、そして部屋を出る。
「若様」
父の後に続こうとしたヴィルヘルムは、ノルベルトに呼び止められた。
若様。つい昨日まで兄のものだった呼称に戸惑いを覚えつつも、立ち止まって彼の方を向く。
「どうか、娘のことをお願い申し上げます」
「……分かった」
もしステファンが生きて帰らなければ、すなわち護衛を担うノルベルトも生還はできない。臣下であり、同時に義父でもあるノルベルトに、ヴィルヘルムはせめてしっかりと頷いた。
・・・・・・
朝陽の下、領都ユトレヒトの東門より、ステファンとノルベルトは発とうとしていた。ステファンは貴族としての正装を纏い、ノルベルトは護衛を務める騎士として鎧を纏っている。
見送るのは、ヴィルヘルムとアノーラ。そしてエルヴィンをはじめ、フルーネフェルト男爵家の臣下のほぼ全員。昨日の会議では不在だったハルカも、今は顔に疲れを見せながらも気丈に立っている。
カルメンやユーフォリア教の司祭、その他、領主が絶望的な交渉に赴くことを聞きつけた平民たちも大勢が集まっている。
「……簡単に死ぬつもりはないが、あえて言っておこう。これまで私に尽くしてくれて感謝する。私に何かあれば、以降はヴィルヘルムを支えてやってくれ」
主の言葉に、臣下たちと、カルメンや司祭をはじめ平民の有力者たちは、それぞれ異なる表情で頷いた。決意に表情を引き締める者もいれば、悲しげな顔の者もいた。
彼らに頷き返し、ステファンはアノーラに顔を向ける。
「重い言葉となってしまうかもしれないが、どうか息子のことを頼む」
言われたアノーラは、悲壮な覚悟を顔に浮かべ、一礼する。
「重くなどございません。全身全霊で夫を支え、フルーネフェルト男爵家と臣下臣民のために貢献してまいります。どうかご安心ください」
「……ありがとう。我が息子は素晴らしい伴侶を持った」
優しく微笑んだステファンは、次いでヴィルヘルムの方を向く。
「ヴィルヘルム。後のことは任せたぞ」
父の言葉に、その言葉が意味する責任の重さに、ヴィルヘルムは血の気が引く心地を覚えながら――それでも、不安や恐怖を押さえ込んで頷く。
もしも、これが父との今生の別れとしたら。弱く頼りない姿を最後として、父の記憶に残りたくはなかった。
「お任せください。この家とこの地の全てを、私が守り抜きます」
今この瞬間だけしか保てない虚勢だとしても、それでも今この瞬間だけは、ヴィルヘルムは堂々と言いきった。
ステファンは少し驚いたように片眉を上げると、満足げに笑い、そして馬に乗る。
ノルベルトがそれに続き、彼は見送りに来ている妻と、息子エルヴィンと、そして娘であるアノーラと、それぞれ一瞬だけ視線を交わした。言葉は交わさなかった。この場に来るまでに、既に私的な別れは済ませているのだろう。ヴィルヘルムとステファンが、領主執務室でただ親子として最後の会話をしたように。
「……では、行ってくる。皆、見送りご苦労だった」
いつもと変わらない声色で言い残し、ステファンはノルベルトと共に発っていった。
父の姿が見えなくなるまで、ヴィルヘルムはその背を見送り続けた。
・・・・・・
「……すまないな、ノルベルト」
遠ざかる領都をもはや振り返ることはせず、前を向いたまま、ステファンは言った。
「謝罪など不要です。私は自らの意思でお供しているのですから」
子供の頃は兄弟のように育ち、成人してからは忠実な側近として仕え続けてくれた従士長の返答に、ステファンは小さく笑む。
「道中、昔話でもして時間を潰すか」
「はい、閣下」
馬上で揺られながら、二人は敵地の只中へ進んでいく。
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