第17話 行き詰まり

 屋敷に戻って自室に入ると、ようやく涙が出てきた。ヴィルヘルムはアノーラに抱き締められながら、彼女と一緒に泣いた。

 涙も枯れた頃、ステファンが会議室に呼んでいると、家令のヘルガが伝えに来た。彼女も泣いたのか、目元が少し腫れていた。

 アノーラと共に会議室に入ると、ステファンは既に席についていた。これから臣下たちも集うからか、継嗣を失った悲しみを見せることなく、いつもと変わらない表情を作っていた。しかしその顔は、この僅か一時間ほどで随分と老いたようにも見えた。

 間もなく、ノルベルトとナイジェルが会議室に入ってくる。少し遅れてヘルガがやってくると、全員の前にお茶を置き、部屋の隅に控えた。

 エルヴィンはノルベルトに代わって騎士や徴集兵たちの指揮を一時とっているため、話し合いには顔を見せない。ハルカとカルメンも来なかった。ハルカは会議に参加できる精神状態ではなく、カルメンもまだ回復していないのだろうと、ヴィルヘルムは思った。


「リシュリュー伯爵家が我が領への侵攻準備をしているとなれば、スレナ村を占拠したラクリマ傭兵団や、ノエレ村で蛮行に及んだ敵集団はその先遣隊と見るべきだろうな」


 机上で腕を組みながら、ステファンは重い声で言う。


「でも、どうしてリシュリュー伯爵家が……そんなことをすれば、ルーデンベルク侯爵家が黙っていないと伯爵も分かっているはずです。リシュリュー伯爵領の規模では、ルーデンベルク侯爵領とは勝負にもならないでしょうに」


 当惑を隠しきれない声で、ヴィルヘルムは言った。

 領地運営に難儀しているリシュリュー伯爵家は、爵位のわりには有する領地が狭く、抱える領民も少なく、伯爵領の人口はせいぜい二万ほど。一方で、その東に位置するルーデンベルク侯爵領の人口はおよそ三十万とも言われている。そしてフルーネフェルト男爵家は、傍流とはいえルーデンベルク侯爵家の親類の嫁ぎ先であることが公表されている。

 この状況でフルーネフェルト男爵領に手を出せば、侯爵家との対立に繋がるのは必至。十五倍の人口差でまともに戦えば、常識的に考えてリシュリュー伯爵に勝ち目はない。

 リシュリュー伯爵はこれから帝国で巻き起こる動乱に自ら参戦せずとも、ルーデンベルク侯爵家の傘下に加わっていれば、そのまま侯爵家が新たに興す国の貴族として平穏に新たな時代を迎えられたはずだった。なのにどうして、同じく侯爵家の興す国の貴族となるはずだったフルーネフェルト家に侵攻し、侯爵家と敵対する道を選ぶのか。ヴィルヘルムには理解できなかった。

 フルーネフェルト劇場が完成した当初、他の周辺貴族領の領主たちをそうしたように、リシュリュー伯爵も招待した。彼は応じてくれた。ユトレヒトを訪れ、劇場で公演を観て、面白かったと言ってくれた。

 その彼が何故、と思わずにはいられない。未だに信じられない気持ちだった。


「何か勝算があって野心的な行動に出たのか、あるいはただの愚か者か……襲撃の背景やリシュリュー伯爵の内心は、今は想像するしかない。まずは迫りくる危機そのものを見なければ」


 そう言って、ステファンはノルベルトに視線を向けた。それだけで主の意図を察し、ノルベルトは頷いて口を開く。


「リシュリュー伯爵家の軍勢を迎え撃つ場合、問題となるのはやはり戦力差です。伯爵家が兵の徴集を開始したばかりということであれば、進軍してくるまで多少の猶予は残されているでしょうが……敵兵力は伯爵領軍に加え、徴集兵や傭兵を合わせて千に迫ることも考えられます」


 千の軍勢を想像したヴィルヘルムは、思わず息を呑む。ステファンは眉根を寄せ、ナイジェルは狼狽えて目を泳がせる。会議室の隅に控えるヘルガも、怯えを顔に表す。

 アノーラが不安げに吐息を零しながら、会議机の下でヴィルヘルムの手を握る。

 女性や子供や老人を含めて人口三千のフルーネフェルト男爵領に、千の兵力を率いる侵略者が到来すれば、とても太刀打ちできない。ひとたまりもない。


「一方でこちらの兵力は、見習いを動員したとしても騎士が残り十三人。閣下とヴィルヘルム様を加えても十五人。そして徴集兵が現時点で二百人。限界まで動員すればあと百人ほどは増やせるでしょう。まともな戦力となるかは分かりませんが……」


 戦力として自分も数えられたことで、ヴィルヘルムは自分も戦う可能性があるのだと実感し――背筋が冷える感覚を覚えた。

 当然だ。自分も戦闘や騎乗の訓練を受けた。あれはこういうときのための訓練なのだ。本当にリシュリュー伯爵家の軍勢が到来し、迎え撃つことになれば、自分も戦わないわけにはいかない。フルーネフェルト男爵家の子息で、今は継嗣なのだから。

 絶望的な戦場に立ち、そこで兄のように死体となり果てる自分を想像し、思わずアノーラの手を強く握り返す。

 ヴィルヘルムの絶望など知るはずもなく、ノルベルトは話を進める。


「領都以外からの兵力徴集は、今のままでは難しいかと。東のスレナ村の方は未だ動きがありませんが、西のノエレ村を襲った敵集団は領都から視認できる辺りまで近づき、うろついているようです。兵力徴集のために伝令を送ろうにも、その敵集団に狩られる可能性が極めて高いでしょう」

「ということは、スレナ村を占領したラクリマ傭兵団の役目は橋頭堡の確保で、ノエレ村を襲った連中の役目は、領都と他の村の連絡を絶つことか。だからといって村民の虐殺に及んだ理由は分からないが……西の敵集団を排除しようにも、危険な賭けとなるか」


 ステファンの考察に、ノルベルトも首肯を示す。


「東への備えも必要なため、全軍を出すわけにはまいりません。半数の百五十人程度で戦いを挑むとして、仮に西の敵集団がラクリマ傭兵団と同じ数十人規模だったとしても、こちらにとっては恐ろしい強敵でしょう。徴集した領民たちはノエレ村の村民たちの遺体を目の当たりにしたため、士気は絶望的なまでに落ちています。領都防衛にのみ臨ませるという当初の約束を反故にして領外への出撃に動員した場合、敵集団が迫ってきただけで壊走することも考えられます。奇襲などを受けて乱戦になれば、烏合の衆となって壊滅するかもしれません」


 徴集兵の士気は戦況に大きく左右される。敵集団はおそらく数で劣るとはいえ、戦闘力で遥かに勝る残虐な連中。待ち伏せでもされて襲われれば、無理やり野戦に臨まされている徴集兵がまともに戦えるはずもない。一方的になぶり殺しにされるのは目に見えている。


「エーリク様と騎士四人が戦死したことで、残る騎士たちは復讐への意気込みを見せていますが、騎士だけでは多勢に無勢です。ノエレ村の惨事と同じ結果になる可能性が高いかと」

「であれば、今領都にある戦力で戦うしかないが……数倍の軍勢を相手に、士気の落ちきった徴集兵を主力として戦うというのは、容易なことではないな」

「父上、ルーデンベルク侯爵家に助けを求めるのはどうでしょうか? 侯爵家が援軍を送ってくれるよりも、既に侵攻準備を始めているリシュリュー伯爵の軍勢が迫ってくる方が早いでしょうが、それでも援軍が来るとなれば徴集兵の士気も回復するかもしれません」


 助けが来るという希望を領民たちに抱かせ、持久戦に臨めばあるいは。そう思いながらヴィルヘルムが発言すると、ステファンは思案の表情を見せた後、無念そうに首を横に振る。


「ユトレヒトの城壁はさして高くない。籠城戦には耐えられないだろう。そもそも、ルーデンベルク侯爵家はおそらく、すぐには援軍を送ってはくれまい」

「でも、フルーネフェルト男爵家は、侯爵家と……」

「ああ、私の長子であるエーリクと、侯爵閣下の姪であるカルラ嬢は婚約していた。あくまで婚約だ。カルラ嬢はまだフルーネフェルト男爵家に婿入りしておらず、この地にいるわけでもない」


 酷薄な現実を、ステファンは容赦なく語った。


「カルラ嬢が既に嫁いでこの地におり、フルーネフェルト男爵家が正式にルーデンベルク侯爵家の姻戚となっていれば、侯爵閣下も急ぎ援軍を送ってくださっただろう。だがそうではない以上、侯爵閣下が急ぎ軍を動かす理由はない。準備を整えてからリシュリュー伯爵領に攻め入り、勝利を成せば、姪の嫁ぎ先を襲撃されたことへの報復には足る。報復を果たせば、ルーデンベルク侯爵家の面子も保たれる」


 父が語る言葉を聞きながら、その理屈にヴィルヘルムは絶句する。絶句しながらも、その理屈は正しいと認めざるを得ず、自分が貴族としていかに甘く考えていたかを思い知る。

 フルーネフェルト男爵家は、当代ルーデンベルク侯爵ジルヴィアの姪であるカルラを次期領主の伴侶に迎えることで、侯爵家の庇護を得ようとしていた。悪い言い方をすれば、カルラを人質として抱え、姻戚という侯爵家の無視しづらい立場を作ることで、侯爵家に助けてもらう保証を得ようとしていた。

 しかし、現時点ではあくまで婚約関係。その関係も、ルーデンベルク侯爵家からすれば「フルーネフェルト男爵家の望みを叶えてやる」かたちで結ばれたもの。侯爵家に姻戚関係を結ぶことを頼み込んでいた小貴族が、姻戚となる前に侯爵家の責任の及ばない理由で突如消滅したとしても、急ぎ助けに動かなかった侯爵家が薄情と見なされるわけではない。

 すなわち、エーリクが死に、たとえこのままフルーネフェルト男爵家が攻め滅ぼされようとも、ルーデンベルク侯爵家の面子が直ちに潰れるわけではない。侯爵家からすれば、わざわざフルーネフェルト男爵家の危機を救う必要はない。舐めた真似をしたリシュリュー伯爵家に後で反撃し、勝利を成せばそれで事足りる。

 となれば、軍事行動を急ぐ必要はない。下手に急いで動けば、貴重な常備戦力たる領軍を準備不足のまま敵地に送り出すこととなり、その領軍部隊が思わぬ損害を被る可能性もある。来年以降の動乱を乗り越えるために温存すべき領軍の無意味な消耗を、侯爵家が許容するはずがない。

 それよりも、予定通り冬明けまで準備を重ねた上で、多少損耗しても惜しくない徴集兵を中心に十分な戦力を揃え、リシュリュー伯爵家を打ち破る方がいい。それで十分に報復は成され、侯爵家の面子は保たれる。


 これは義理人情ではなく、あくまでも貴族の面子の問題。ルーデンベルク侯爵ジルヴィアが義憤に駆られ、仁義を果たすために損耗を厭わず領軍を送ってくれるようなことはあり得ない。

 よく考えれば分かることなのに、自分がそのような美しい物語を期待したことに、ヴィルヘルムは苛立ちさえ覚える。


「……ではせめて、傭兵を雇い集めて戦力の増強を……いえ、それも難しいでしょうね」


 苦し紛れの発案を、ヴィルヘルムは自ら否定して取り消す。ステファンも無言で頷く。

 フルーネフェルト男爵家は傭兵への伝手などほとんど持っていない。例えば今からナイジェルなどを領外に送り出し、傭兵集めをさせても、リシュリュー伯爵家の軍勢が襲来するまでにまとまった数の補助戦力を揃えることは極めて難しい。

 そもそも、どう見ても敗北濃厚な弱小貴族家に、わざわざ雇われようとする傭兵はおそらく少ない。下手をすれば報酬だけ取られて逃げられる。

 ヴィルヘルムが口を閉ざすと、そのまま息苦しい沈黙が会議室を満たす。この窮地を切り抜ける妙案など、誰もそう簡単に思いつきはしない。

 今ここで顔を突き合わせて時間を浪費しても、事態は好転しないだろう。おそらくは誰もが同じ考えを抱き、一時解散を告げるためにかステファンが口を開こうとした、そのとき。

 室内に駆け込んできたエルヴィンが、ステファンとノルベルトの方を向いて硬い表情で言う。


「会議中に失礼します……リシュリュー伯爵家より書簡が届きました」


 その報告に、ヴィルヘルムとアノーラ、ナイジェル、ヘルガが驚きを顔に表した。ステファンとノルベルトは表情を動かさなかった。

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