第10話 十九歳 夏②

 屋敷への帰り道、出くわしたのはフルーネフェルト家の従士ナイジェルだった。


「おや、ヴィルヘルム様にアノーラ様! 屋敷へお帰りですか?」

「ああ、丁度ね。君はこれから発つところ?」


 ヴィルヘルムは言いながら、ナイジェルの乗る荷馬車を見る。

 一頭の荷馬に牽かせた小型の荷馬車。その荷台には、様々な品が積まれていた。


「はい、今回は南のノルデンシア公爵領や、帝国中央部まで回ってきますよ」

「そうか、なかなかの長旅だね。道中気をつけて」

「ありがとうございます。色々と情報を持ち帰りますので、楽しみにお待ちください!」


 人好きのする笑みを見せながら、ナイジェルは言った。

 従士でありながら行商人のような出で立ちでユトレヒトを発とうとしている彼は、領外での情報収集を担当している。自然と情報が入ってくるのが遅いフルーネフェルト男爵領に、帝国内の話題を届けることが彼の務めとなっている。

 行商人の姿をしているのも、各地の商人や領民と接して様々な話を聞き回るため。元は本当に行商人であった彼の一族は、いつからかフルーネフェルト家の領外での情報収集に協力するようになり、やがてそちらの方が本業に、そして行商は本業を隠すための表向きの仕事になった。

 従士であるナイジェル以外にも、これまで彼やその父が育てた数人の行商人が、商売の傍らで収集した情報を拠点であるフルーネフェルト男爵領に届けてくれている。おかげで、辺境の小貴族家ながらフルーネフェルト家は帝国の情勢を比較的早く知ることができている。

 ちなみに、当初は御用商人であったナイジェルの一族が正式に従士家となり、併せてフルーネフェルト家も領地の発展と共に大きな商会とやり取りをする必要が生じたため、領内で成長したエレディア商会が新たに御用商会となった、という歴史がある。


「それではまた一か月ほど後に!」

「うん、いってらっしゃい」

「頑張ってください、ナイジェルさん」


 去っていくナイジェルを笑顔で見送り、ヴィルヘルムとアノーラは屋敷に戻った。


・・・・・・


 フルーネフェルト劇場の新公演、昼に行われたその初演は無事に成功を収めた。この日のために領内の村々から劇場を訪れた者もおり、日中ながら百席がほぼ全て埋まった。

 そして夜の公演も、大半の席に観客が座っている。劇場主として昼にも見届けた新作舞台を、そして客席で領民や領外からの来訪者たちが演劇に見入る様を、ヴィルヘルムは二階の貴賓席から眺めていた。

 今回の新作は、ヴィルヘルムが得意とする戦記譚。そこへ、平民上がりの騎士と貴族令嬢の恋愛模様を取り入れた。結果、評判は上々。昼公演の観客たちからは好評を集め、夜公演の今も、一番の盛り上がりどころに対する客席の反応はいい。

 そして横目に父と兄の様子を窺うと、二人も楽しんでくれているようだった。

 ヴィルヘルムはアノーラと顔を見合わせて微笑み合い、椅子の背に体重を預けてくつろぎながらお茶のカップに口をつける。

 前世の中世西洋との違いとして、このイデナ大陸では一般的に緑茶が飲まれている。おそらく、大陸西部の南、比較的近い位置にある島国が茶葉の一大産地であることが影響している。前世を日本人として生きたヴィルヘルムにとっては、とても喜ばしいことだった。


 物語は盛り上がりどころを越え、終幕へ向かい、そして結末を迎える。期待通りの大きな拍手が客席から上がり、兄エーリクも派手な拍手を、そして父ステファンも力強い拍手をくれた。


「皆々様、ご観覧のほど誠にありがとうございました! 今宵もお楽しみいただけたこと、我ら演者一同、幸甚の至り!」


 舞台上に並んだ役者たちの前列中央で、ジェラルドが大きな身振りを交えながら堂に入った挨拶をくり広げる。


「さて、皆様もご存知のことと存じますが、今宵の舞台『騎士ルーマス英雄譚』は本日より公演の始まった新作でございました! 物語を手がけたのはもちろん、フルーネフェルト劇場の主、ヴィルヘルム・フルーネフェルト様にございます! さあさあ皆様、貴賓席にいらっしゃるヴィルヘルム様へ、どうか大きな拍手を!」


 ジェラルドが貴賓席の方を手で示して言うと、観客たちは後ろを振り返ってヴィルヘルムを見上げ、再び拍手をくれる。

 ヴィルヘルムは立ち上がり、軽く手を挙げて応える。


「拍手をどうもありがとう! そして、フルーネフェルト劇場の新作を楽しんでくれてありがとう! 皆に楽しんでもらえたことが、創作者として何よりの幸福だよ!」


 新作の初演日には、劇場の主として、そして物語の創り手としてここで少し語るのが恒例となっている。前世の自分では考えられなかったことだが、大勢の前でこうして演説をすることにもすっかり慣れた。


「まだ観ていない家族や友人に、本作の感想をどうか語ってほしい! ああ、だけど後半の内容はまだ明かさないで! 物語の展開にわくわくする楽しみを奪ったら、喧嘩になってしまうかもしれないからね! さすがにそこまでは責任を持てないよ!」


 冗談めかして言うと、観客たちからは明るい笑いが起こった。


「本作の公演は晩秋まで続く! 親しい誰かを連れて来ても、あるいは一人でじっくり楽しむために来てもいい! 二度でも三度でも観においで!……それでは皆々様!」


 ヴィルヘルムの言葉を合図に、ジェラルドたち舞台上の役者は一斉に一礼する。ヴィルヘルムも手を身体の前に掲げ、客席に頭を下げる。


「「「フルーネフェルト劇場を、どうぞこれからもご贔屓に!」」」


 声を揃えて決まり文句で締めると、また拍手が劇場内を満たした。

 顔を上げたヴィルヘルムは、万雷の拍手を浴びながら笑む。


 嗚呼、なんて楽しくて、なんて充実した人生だろう。


 前世に等しい年月をこの世界で過ごせば、現代日本に生きた記憶も遥か遠い。あの頃を忘れはしないが、縋ることもない。前世の人生は自分にとって、良き思い出になった。今では思考の言語も西方イデナ語になり、前世の記憶をたどる時以外、日本語を思い出すことも少ない。

 自分はもはや、ヴィルヘルム・フルーネフェルトという人間である。ヴィルヘルムとしてこれからも生きていく。

 このフルーネフェルト男爵領で、家族や臣下臣民たちと共に、ずっと幸福に生きていくのだ。

 ヴィルヘルムはそう信じて疑わなかった。


・・・・・・


 公演は終わった後。先に帰る父と兄を見送り、ジェラルドたちと初演の成功を祝い合ってから、ヴィルヘルムはアノーラと共に劇場を出る。

 既に日は沈み、まだ灯りがあるのは酒場や料理屋ばかり。帰路へくり出しながら、ふとアノーラが空を見上げる。


「あら、今夜は満月ね」


 言われて、ヴィルヘルムも振り返り、顔を上げる。

 劇場の屋根にはためくフルーネフェルト男爵家の紋章旗――アクイレギアの花の意匠が刻まれた旗のさらに上。満天の星空と、そこに輝く二つの大きな青い月。


「……本当だね。綺麗だ」


 今も時々、ヴィルヘルムは夜空を見上げている。そうして亡き母を思い、違う夜空を持つ前世を思い、そしてこの幸福な人生を思う。



★★★★★★★


「小説家になろう」版では、プロローグ前に帝国やフルーネフェルト領周辺の地図なども掲載しています。よろしければそちらもご覧ください。

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