第9話 十九歳 夏①
神聖暦七三六年の夏。クローバーを用いた農法がいよいよ領内全域に普及したこともあり、フルーネフェルト男爵領の麦の収穫量は史上最高を記録した。
主産業である農業が年々発展を遂げていることに加え、春先には次期領主エーリクとルーデンベルク侯爵家の近縁の令嬢カルラが正式に婚約したと発表されたこともあり、フルーネフェルト家の中にも領民たちの間にも明るい空気が満ちている。
フルーネフェルト家の一員としてそれらの多幸感を享受しながら、十九歳になったヴィルヘルム自身も幸福な日々を送っている。
昨年の晩秋に結婚したアノーラとの夫婦仲は、良好そのもの。屋敷に与えられている二人の私室で共に寝起きし、今まで以上に寄り添い合って仲睦まじく日々を過ごしている。臣下や領民たちからは理想的な夫婦として羨まれ、父ステファンからは半ば呆れ交じりに見守られ、兄エーリクからはからかわれつつ可愛がられている。
伴侶を持つ身となってからも、父と兄の領地運営を支えつつ、フルーネフェルト劇場の運営に励み、忙しくも楽しく暮らす。そんな毎日を送りながら、ヴィルヘルムはこの日、いつものように家族で朝食の時間を迎えていた。
「ヴィリー。確か今日は、新作の上演が始まる日なんだろう?」
パンをちぎりながら尋ねたのは、兄エーリクだった。今年二十二歳になる彼は、次期領主として多くを学び、もういつでも跡を継がせられると父ステファンから評価されている。実際、既に齢五十を超えたステファンは、十年以内にはエーリクに家督を譲るつもりであるという。
「はい。だから朝食の後は、朝市に出向いて領民たちに宣伝して回らないといけないんです。アノーラも一緒に」
「そうか、いつものことながら宣伝熱心だな。付き合わされるアノーラも大変だ」
「あら、私は好きでヴィリーを手伝っているんですから、大変だなんて思いませんよ?」
澄まし顔で言ったアノーラに、エーリクは「それは悪かった」と苦笑交じりに返した。
元より屋敷に出入りすることが多く、皆から可愛がられていたアノーラは、今ではすっかり家族の一員として馴染んでいる。
「演劇は最初が肝心なんです。初演の客入りが、その後の客入りにも影響するのはこれまでの記録を見ても明らかです。僕は劇場主ですから、できるだけの宣伝をしないと」
「地道な努力を惜しまないのは感心なことだ。私には劇場の運営はよく分からないが、積み重ねが大切であるのは何事も同じだろう」
「さすがです、父上! まさしく仰る通り、創作の世界も地道な努力こそが最も重要なんです」
父から褒められて、ヴィルヘルムは上機嫌に言葉を重ねる。その横顔を見ながら、アノーラが小さく笑みを零す。
「せっかくの新作だ、夜の公演を観劇させてもらおう。父上も一緒にどうですか?」
「そうだな、今日は夜に予定もない。行くとするか。文化芸術に疎い私の目から見ても、ヴィリーの書く物語はなかなか面白いからな」
「ありがとうございます。それじゃあ、夜の公演で席を用意しておきますね」
兄と父が初日から観劇に来てくれることに、喜びを覚えながらヴィルヘルムは言った。
・・・・・・
朝食が終わるとすぐに、ヴィルヘルムはアノーラと自室に戻った。
なるべく早い時間の方が、朝市により多くの民が集まっている。そこで宣伝をするのが最も効果が高い。だからこそ、二人は手早く身支度を整え、そのまま市街地へ出かける。
「それではヴィルヘルム様、アノーラ様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
アノーラの身支度を手伝い、そのまま屋敷の玄関までヴィルヘルムたちに付き添いがら、家令のヘルガが言った。齢六十を超えて老人となった彼女は、まだまだ元気に家令の仕事を日々こなしている。
「ありがとう。少し遅くなるけど、昼食は食べに帰るよ」
「かしこまりました。では、用意してお待ちしておりますね」
昔と変わらず優しい笑顔を見せるヘルガに見送られ、ヴィルヘルムとアノーラは市場に向かう。
週に二度、領都ユトレヒトの中央広場で午前中に開かれる朝市は、フルーネフェルト男爵領内で最も多く民が集まる場。領都の住民はもちろん、領内各地の村からも領民たちが商品を売りにきたり、逆に買い物にきたりする。数は少ないが、領外からの来訪者もいる。
「あっ、ヴィルヘルム様! アノーラ様も!」
「おはようございます! ヴィルヘルム様!」
「今日もご夫婦で仲がよろしいですね!」
ヴィルヘルムたちが広場に入ると、すぐに気づいた領民たちが集まってくる。
「皆おはよう! 朝市は今日も賑わっているね。領主家の一員として嬉しいよ」
ヴィルヘルムは意識して優しげな表情を作り、やや大仰な手振りで呼びかける。
劇場主として領民と接する機会の多いヴィルヘルムは、皆から慕われている。兄エーリクが次期領主として威厳を保たなければならないため、弟の自分は意識して気さくな振る舞いを見せ、領民たちに懐かれつつ市井の声を拾い上げて父や兄に伝えている。
もちろん、全てが演技というわけではない。慕ってくれる領民たちは老若男女問わず可愛らしい存在で、彼らと触れ合う時間はヴィルヘルムにとって楽しいものだった。前世ではどちらかというと人付き合いが苦手な質だったが、今世では生まれたときから貴族家の人間として生きてきたこともあり、貴族らしい振る舞いをすることにも慣れている。
「ヴィルヘルム様、アノーラ様。俺の住んでるノエレ村でとれたトマトです。今年もよく実ってます。ぜひ一つどうぞ」
「そうか、ノエレ村のトマトは美味しいからね。今年も豊作で何よりだよ……うん、良い味だ」
「本当ね! 甘くてみずみずしくて、夏にぴったりね」
手渡されたトマトを口にして、ヴィルヘルムとアノーラは感想を語る。
ヴィルヘルムの記憶では地球の中世西洋にトマトはなかったはずだが、この世界は前世と大まかには似ていても、細かな点では違いがある。ヴィルヘルム自身が気づいていない差異も、おそらくは多々ある。そういうものだと理解し受け入れている。
「ごちそうさま。それじゃあ、代金を支払おう」
「そんな、お代なんていいですよ」
「そういうわけにはいかない。君は農民として良い仕事をして、僕はその結果を享受した。であれば、対価を支払うのは当然の敬意だよ」
そう語り、ヴィルヘルムはトマトをくれた領民に銅貨を手渡す。領民は恐縮しながらも、最後には代金を受け取ってくれた。
「さて皆、もう知っている者も多いだろうけど、今日は大切な報せがあるんだ。フルーネフェルト劇場にて、今日から新作の公演が始まる。皆のために僕が書き上げた物語、ぜひ楽しんでもらいたい!」
ヴィルヘルムが呼びかけると、領民たちから歓声が上がる。まだ観たことのない新しい物語となれば、刺激の少ないフルーネフェルト男爵領においては貴重な娯楽。だからこそ皆が盛り上がる。
「時間のある者は昼公演においで! 忙しい者は、仕事が終わってから夜公演に来るといい! 名優たちが演じる物語、皆で楽しもう!」
高らかに言ったヴィルヘルムは、その後もアノーラと共に朝市を回り、新作の公演を宣伝する。
と、広場の中央あたりに来たとき、声をかけてくる者がいた。
「朝からお元気ですね、ヴィルヘルム様。羨ましいです」
「……カルメンか! おはよう!」
振り返ったヴィルヘルムは、そこに立っていた女性――エレディア商会の商会長カルメンに答える。彼女は領内最大手の商会の経営者であると同時に、フルーネフェルト男爵家の御用商人。ヴィルヘルムも劇場作りや運営に際し、何かと協力してもらっている。
あまり朝に強い方ではないらしく、彼女はまだ少し眠そうな顔をしている。
「今日は朝市の様子を見に?」
「ええ。祖父の教えには従わないといけませんからね」
そう言って艶のある微苦笑を浮かべ、青みがかった長い髪を揺らしながら、カルメンは朝市の場を見回す。
どれほど大きな商売をするようになっても、商業の末端に誰がいるのかを忘れてはならない。時には自ら朝市などに足を運び、中小商人たちがものを売って庶民が買うその空気を感じ取らなければならない。
しがない行商人から一代でエレディア商会を作り上げ、フルーネフェルト家の御用商人になったカルメンの祖父は、息子であるカルメンの父にも、そして当時は幼かった孫のカルメンにもそう語っていたのだとヴィルヘルムは以前に聞いたことがあった。父はその教えを守り抜き、三代目の商会長となった彼女もまた守り続けているのだと。
「そうか、ご苦労さま……さっきの宣伝は聞こえていたと思うけど、よかったら君も新しい公演を見においでよ」
「もちろん行かせてもらいますよ。ヴィルヘルム様の書かれるお話は好きですから。昼の初演に足を運ばせてもらいます」
「本当に? それは嬉しいよ! きっと期待に添える出来だから、ぜひ楽しみにしてて」
そう言ってカルメンと別れたヴィルヘルムは、アノーラを連れて広場を去る。
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