第3話 八歳 夏②

 午後の座学に関しては、アノーラと共に受けるのが常となっている。

 六歳になってから本格的な教育が始まり、現在学んでいるのは算術、歴史と地理、行儀作法、文化芸術、国教であるユーフォリア教の教義。いずれヴィルヘルムの方は、領地運営や軍学の概要なども教えられるという。

 算術に関しては、現代日本を生きたヴィルヘルムから見れば簡単と言いきってしまえる内容だった。初期の授業――一桁の四則算などは、授業を受けるのがかえって苦痛だったほど。それ以外の授業については、この世界ならではの新しい知識なので楽しく学んでいる。特に歴史と文化芸術がお気に入りだった。


 この二年半ほど教育を受けて、新たに生きる世界、新たな生を受けた国についても理解を深めつつある。

 文明の発展度合いは、前世で言うところの中世。文化的には自分の生きた日本ではなく西洋に似ている。主食は麦で、農業は鉄製農具や牛馬を用いての三圃制が主流。戦いは主に剣と槍と弓で行われ、騎士や兵士たちは金属製あるいは革製の鎧を纏う。建築は、重要施設は石造りやレンガ造りのものが多く見られ、一般的な家屋などは木造が中心。富裕層の間ではガラス窓などもある程度普及している。

 前世では西洋風のファンタジー作品などに人並み以上には触れていたヴィルヘルムだが、かといって西洋の歴史に殊更造詣が深い自信はない。この世界についても「いわゆる中世のような」という以上に詳しい感想は語ることができない。

 しかし、そんな中途半端な知識から見ても、前世の中世西洋とは多少の違いもあると分かる。

 例えば、植物紙がある程度普及している。活版印刷らしき技術も一部では使われている。識字率が一割に届くかどうかという社会なので、さすがに現代日本とは比較にならないが、それらの技術のおかげで書物はある程度作られている。弱小貴族であるフルーネフェルト男爵家の屋敷にもなかなか立派な書斎があり、ヴィルヘルムとしては幸いだった。

 他にも、布を織る技術の発展が早いのか、服飾文化などはおそらく前世の中世よりも複雑に発展している。なので人々の服装については、ヴィルヘルムの目にはいかにもファンタジーらしく見える。

 ガラスの普及にも、この世界ならではの理由がある。この世界のこの地域で一般的なガラスは、どうやら前世のガラスとは違うようで、前世にはなかった木の樹液を加工したものであるらしかった。強度は前世の板ガラスと大差ないが、触ったり叩いたりした際の感触は異なる。


 ちなみに、魔法はない。神話や創作物の類に描かれることはあるが、実際に魔法使いがいるわけでもなければ、魔力や魔法陣、魔道具のようなものがあるわけでもない。正直に言って期待していたヴィルヘルムとしては、少々残念だった。

 そして、生き物に関しても。ガラスの原料となる木のように、前世では見られなかった姿や性質の動植物は多少いるが、魔物じみた奇天烈な存在はない。竜も小鬼も、獣の頭を持つ化け物も、あくまで神話やお伽噺の中の存在であり、現実にはいない。死体が動き出して人を襲うような不思議な事象もない。


 そんな世界においてヴィルヘルムが生まれたのは、イデナ大陸でも有数の大国であるロベリア帝国。その領土は大陸西部の大半を占め、人口は一千万を超えると言われている。周辺諸国の人口が数十万からせいぜい二百万程度であることを考えると、突出した国力を持つ。

 帝都を含む帝国中央部は領土の西側に位置し、一方でこのフルーネフェルト男爵領は東部の北西寄りに位置している。帝国は皇帝家に領主貴族たちが忠誠を誓う封建制をとっており、貴族たちはそれぞれの領地の支配権を皇帝家より安堵される代わりに、皇帝の命令に応じて兵力を供出する義務を負う。


 貴族領は数十万の人口を擁する大領から数千程度の人口しか持たない小領まで、実に数百に分かれている。その中でも人口およそ三千のフルーネフェルト男爵領は、軍事的にも経済的にも最弱の部類になる。領地規模の小ささ故に、帝国貴族社会における存在感は無いに等しいが、地理にも恵まれたことで中央の政争とも国境の係争とも無縁な平和を享受してきた。

 領主貴族の他にも、領地を持たず皇帝家や大貴族家に官僚や軍人として仕える貴族たちもおり、そうした者たちを含めれば貴族家の数は五百を超えるという。当主の家族まで含めれば実に数千人の貴族が存在することになるが、それでも帝国全体から見れば、ごく僅かの特権階級。

 自家の領内において、領主貴族は絶対的な権力を持っている。徴税も、兵の徴集も、罪人に対する裁判も、全て領主の一存で決まる。その気になればどのような独裁も叶う。尤も、あまり圧政を敷けば経済や治安の悪化、最悪の場合は民の反乱などに繋がりかねないので、多くの貴族は常識的な領地運営を行っているが。


 前世の記憶があるヴィルヘルムとしては、当初はこの明確な身分制に少なからぬ抵抗を抱いた。しかし、現代日本のような民主主義や法治主義など実現しようもないこの世界の現状を理解し、今では身分差のある社会に適応している。父ステファンから貴族の権利と共に義務を説かれ、彼が善政を敷く様を見ながら育ったことも、ヴィルヘルムが身分制に慣れる大きな助けとなった。

 体系的で幅広い教育を受けられることも、貴族やその臣下をはじめ、一部の社会階層の子女のみが得られる特権のひとつ。ヴィルヘルムは日々、この特権を享受して多くを学んでいる。


 この日の座学も何事もなく終了し、アノーラも帰宅し、夕食も終わった後。就寝前の余暇時間を書斎で過ごしたヴィルヘルムは、夜遅くなる前に読書を切り上げ、自室へ向かう。

 その途中、二階の廊下の窓から夜空を見上げる。今日は雲もほとんどなく、澄んだ空に星々と二つの月が輝いている。

 足を止めて夜空を眺めていると、静かに階段を上がる音が聞こえて振り返る。丁度二階に上がってきたのは、フルーネフェルト家の従士ヘルガだった。彼女は昨年より、家政の一切を取り仕切る家令に任命されている。


「あら、お邪魔をしてしまいましたか?」


 ヴィルヘルムが夜空を眺めていたことに気づいたのか、ヘルガは申し訳なさそうに言う。ヴィルヘルムは笑顔を作り、首を横に振る。


「いや、大丈夫だよ。気にしないで」

「そうですか……お母様を思い出しておられたのですか?」


 ヘルガはヴィルヘルムに歩み寄り、優しく尋ねてくる。

 幼くして母を亡くした主家の末子を気遣ってか、彼女は何かと世話を焼いてくれる。今世では生まれる前に祖父母――ステファンの両親が世を去っているので、ヴィルヘルムにとってはヘルガが祖母のような存在だった。


「まあ、そんなところだよ」


 ヴィルヘルムは微笑を作って頷き、再び夜空を見上げる。その隣で、ヘルガも二つの青い月に視線を向ける。

 時おりヴィルヘルムが夜空を見上げるのは、母の腕に抱かれながら星や月を眺めた幼少期を思い出したいからだと周囲には思われている。もちろんそれもあるが、ヴィルヘルムとしては別の理由も大きい。

 自分が異世界に生きているという実感を得るため。そして、あの夜空とは違う夜空――銀色の月がひとつだけ浮かぶ前世の夜空を知っていることを思い出すため。そのためにこそ、ヴィルヘルムは今もよく夜空を眺めている。

 新たな人生で歳月を重ねる中で、前世の記憶は少しずつ曖昧になっていく。知識面は意外と忘れないものだが、家族の顔や日常生活、故郷の街並みなどの個人的な記憶は次第に薄れていく。なのでヴィルヘルムは、今世の夜空を見上げることで前世に思いを馳せている。


「……そろそろ部屋に戻るよ。おやすみ」

「左様ですか。それでは、おやすみなさいませ」


 ヘルガから慇懃に一礼されながら、ヴィルヘルムは自室に戻った。

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