第2話 八歳 夏①

 今世において最初に経験した悲劇が、母レナーテの死だった。


 質の悪い風邪を引き、そのまま肺を患い、母は神の御許へと旅立った。父は愛する伴侶の死を嘆き悲しみ、兄も、当時六歳だったヴィルヘルムも、優しい母との別れに泣いた。

 ヴィルヘルムにとって、前世も含めて初めて経験する親の死だった。自分でも驚くほどに涙が溢れた。そして、どうしようもなく寂しく、不安になった。やはり前世の二十年とは関係なく、自分の精神は身体に相応の幼子なのだと実感した。

 母の死からいくつもの日が流れ、二つの月が満ち欠けをくり返し、いくつかの季節が過ぎ、それだけの時間を経て、寂しさと不安は少しずつ癒えていった。フルーネフェルト家は夫人の死を受け入れ、乗り越え、ヴィルヘルムにとって母は肖像画と思い出の中に生きる存在となった。

 この世界では、前世以上に呆気なく人は死ぬ。それをヴィルヘルムは理解し、この人生を悔いなく生き抜く決意はより一層強いものとなった。


 そして神聖暦七二五年、八歳の夏。幼子から少年へと成長を遂げながら、ヴィルヘルムは毎日を生きている。


「おいヴィリー、稽古の時間だぞ!」


 そう言いながら屋敷の書斎に飛び込んできたのは、兄エーリクだった。

 ヴィルヘルムより三つ上、今年で十一歳になるフルーネフェルト家の継嗣は、朝から読書に耽る弟を見て呆れ顔になる。


「今日も小難しそうな本を読んで……よく飽きないもんだよなぁ」

「本は一冊ごとに違う内容が書いてありますから。どれだけ読んでも飽きることはありませんよ。僕にとっては剣術の稽古よりも面白いです」

「なんだよ、また偉そうな話し方して! 俺の方が兄貴なんだぞ!」


 年齢と比べて大人びたヴィルヘルムの言葉遣いを、エーリクはよく「偉そうな話し方」と評してくる。

 五歳の頃はまだまだ未熟だった西方イデナ語の理解も、今では大人たちと比べて遜色ない程度に深まった。読み書きの能力も向上し、根本的な知識不足で専門書が読めない場合などは別として、少なくとも読解力不足で読書を諦めるようなことはなくなった。

 そして、前世の記憶がある分、精神は別としても思考力は身体の年齢からかけ離れている。その思考を言語化する力を身につけた以上、話し方は自然と周囲から「大人びている」と評されるものになる。


「ほら、本を置け! 外に出るぞ! 急げよノルベルトに叱られるぞ!」

「待ってください、本棚に戻さないと……」

「読みかけなんだろ! どうせ稽古が終わったらまた読むんだからいいじゃんか!」

「でも、ああ、置きっぱなしだと父上に叱られるぅ」


 急かす兄に腕を引かれ、ヴィルヘルムは読みかけの本をテーブルに置き去りにし、書斎を出る。そのまま屋敷の裏口から裏庭に出ると、そこに待っていたのはフルーネフェルト家に仕える従士長ノルベルトだった。

 稽古用の木剣を地面に突き立てるようにして持ち、姿勢よく立っていた彼は、やって来た主家の子息二人を見下ろして口を開く。


「おはようございます、若様。そしてヴィルヘルム様」

「おはよう、ノルベルト!」

「……おはよぉ、ノルベルト」


 元気よく答えたエーリクとは対照的に、ヴィルヘルムは諦念混じりの顔で返事をした。頭の中の多くを占めるのは、先ほどまで読んでいた本の続きへの好奇心。

 今世で生きる世界は、前世で言うところの中世西洋のような文明文化を持つ。この社会において貴族は領地の支配者であり、同時に守護者。家と領地領民を守るために自前で武力を持ち、必要とあらば自ら剣を手に戦うことが義務とされる。

 地理的な幸運もあり、帝国の建国以来ずっと平和を保ってきたフルーネフェルト男爵領でも、その義務は変わらない。なので、継嗣でないとはいえこの家の子息であるヴィルヘルムも義務から完全には逃げられない。少なくとも、成人したときに剣も握れず、馬にも乗れないという体たらくは許されない。

 だからこそ、八歳になった今年から、基礎的な稽古を受けることを父ステファンより命じられている。

 前世では運動は不得意で、そして嫌いだった。今世でも今のところそれは変わらない。できれば剣の稽古などしたくないし、一日中ずっと部屋に籠って本を読んでいたい。が、そんな我が儘が許されるはずもなく。

 稽古の指導は騎士たちが交代で務めてくれるが、最も多く指導に立つのがこのノルベルト。代々側近としてフルーネフェルト男爵家に仕える従士で、従士長と筆頭騎士の役割を任されている。齢五十近く、この世界においては既に初老と呼ぶべき年齢ではあるが、背筋の伸びた佇まいも、そして剣の腕も、老いを感じさせることはない。

 主家の子息に対して敬意を欠くことはなく、無意味に乱暴になることもないが、しかし指導は手加減なく厳しい。なのでヴィルヘルムから見れば「怖い先生」だった。


「ではお二人とも、まずは素振りから始めましょう。エーリク様は二百回。ヴィルヘルム様は五十回。常々申し上げておりますが、ただ回数をこなすだけになりませんよう」


 厳格な表情を保つノルベルトに指示されるまま、ヴィルヘルムはエーリクと共に木剣をとる。兄のものより一回り軽い木剣を手に、黙々と素振りに臨む。


・・・・・・


 素振りを終えた後は走り込み。そして基本的な型をなぞる。自身に課された一連の稽古を終えたヴィルヘルムは、汗だくになりながら裏庭の隅に座り込んだ。

 まだ成長の途上にあるヴィルヘルムの稽古は、体力をつけ、剣を振る動きを身体に覚えさせるためのもの。身体を壊すような無茶をさせず理に適った稽古をさせてくれることはありがたいが、それはそれとして疲れるものは疲れる。

 弟よりも複雑な型稽古を行い、それを終えた後はノルベルトとの打ち合いに臨むことになるエーリクを横目に、ヴィルヘルムは汗を拭いて呼吸を整える。


「お疲れさまでした、ヴィルヘルム様」


 そのとき。横から声をかけられ、水の入った木製のカップを差し出される。


「……ありがとう、アノーラ」


 振り返ったヴィルヘルムは、笑顔で水を差しだしてくれた少女に礼を言い、受け取った水をこくこくと喉に流し込む。前世で暮らした現代日本と比べれば遥かに涼しく湿度も低いとはいえ、それでも夏は夏。太陽の下で動き続けて火照っていた身体には、井戸からくみ上げたばかりの水は冷たく、そして甘く染み入る。


「はあっ、美味しい」


 カップから口を離して満足げな顔をすると、隣でそれを見ていた少女は微笑を浮かべる。

 アノーラ。ノルベルトの娘で、ヴィルヘルムとは同い年。五歳を過ぎた頃からよく一緒に過ごすようになった幼馴染だった。彼女は大抵、ヴィルヘルムの稽古が終わる頃にこうして裏庭へやってくる。


「ふふふっ。ヴィルヘルム様、今日も可愛いですね」

「……そう? ありがと」


 微笑でこちらを向いたまま言うアノーラに、ヴィルヘルムは照れることもなく返す。こうして褒められるのも、うっとりした表情で顔を眺められるのも、ヴィルヘルムにとってはいつものことだった。

 今世の自分は中性的な顔立ちで、輝くような金髪と珍しい紫の瞳も相まって、自分で言うのも妙だが天使のように可愛らしい。アノーラがいたく気に入るのも理解できる。彼女も艶のある黒髪と大きな黒い瞳が印象的な美少女なので、二人で一緒にいる様はさぞ画になることだろう。


「今日も暑い中大変でしたね」

「そうだねぇ。でも、これも大事な勉強のひとつだから。仕方ないよ」


 答えるヴィルヘルムの隣に、アノーラも座る。稽古で疲れ果てたヴィルヘルムが回復するまで、二人でエーリクの稽古を眺める。

 丁度ヴィルヘルムが十分な休息を終えた頃に、アノーラがまた口を開く。


「……今日も、座学の時間まで読書をしますか?」

「うん。読みかけの本が丁度面白いところだから。一緒に書斎に行こう」


 午前は剣術の稽古。午後は座学。ヴィルヘルムはエーリクよりも早く稽古が終わるので、必然的に座学が始まるまで、しばらくの自由時間を得る。前世と違って家事などは全て使用人たちがやってくれるので、貴族の子であるヴィルヘルムには今のところ勉強以外の義務はない。

 ここ最近は、アノーラも一緒に書斎で自由時間を過ごすのが、定番の流れになっている。

 空になったカップをアノーラに渡し、稽古用の木剣を裏庭の隅の棚に戻したヴィルヘルムは、エーリクの稽古を監督していたノルベルトに歩み寄る。


「ノルベルト、僕は屋敷の中に戻ってるね。木剣はちゃんと片付けたよ」

「承知しました。本日もお疲れさまでございました」


 ノルベルトは頷くと、ヴィルヘルムに寄り添うアノーラの方を向く。


「お屋敷の中では礼儀正しくな」

「はい、お父様……ではヴィルヘルム様、行きましょう」


 アノーラに手を引かれるようにして、ヴィルヘルムは屋敷の中に入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る