第1話 五歳 秋
イデナ大陸西部で覇権を握り、およそ一千万の人口を有する大国、ロベリア帝国。
広大な帝国領土の東部、北寄りの一角に、フルーネフェルト男爵領はあった。
人口は三千。農業以外にこれといった産業もない、平凡で平和な田舎の小領。
その支配者であるフルーネフェルト男爵家、その当代当主の次男として、彼は第二の人生を送っている。
新たに得た名はヴィルヘルム。神聖暦七二二年の今は、まだ五歳の幼子だった。
「なんだヴィリー、まだ起きていたのか?」
初秋。ある日の夜。男爵家の屋敷の居間で書物を眺めていたヴィルヘルムは、後ろから声をかけられて振り返る。
「……父上」
呆れ交じりの微笑でこちらを見下ろしているのは、当代フルーネフェルト男爵ステファン。ヴィルヘルムの父だった。
「またその本を読んでいるのか。これで何回目だ?」
「だって、面白いんです」
父に答えながら、ヴィルヘルムは読んでいた物語本に視線を向ける。
帝国の歴史上の偉人たちについて平易な文章で短くまとめたこの物語本は、確かに面白い読み物ではあるが、読むのが数回目ともなれば内容はすっかり覚えてしまっている。
それでもくり返し読んでいるのは、この屋敷にある書物のうち、今のヴィルヘルムに理解できる数少ないうちの一冊がこの物語本であるため。
生まれたての赤ん坊の頃から前世の記憶と共に自我があったヴィルヘルムは、大人たちの会話に耳を傾けながら積極的に言葉を覚え、昨年からは両親にせがんで文字の読み書きも習い始めたが、この五年では未だ成人並みに話したり読んだりすることはできない。
単純に、言葉に触れた時間がまだ足りない。幼子の身体は前世の感覚からすれば恐ろしいほどに体力がなく、やたらと睡眠を欲する上に、集中力もそう長く保ってはくれない。
なので現時点のヴィルヘルムは、大人たちから見れば平均的な五歳児よりも遥かに聡明な才児であるようだが、それでも当人としては未だ物足りない能力しか持たない。脳内で思考をめぐらせるときも、この国の公用語である西方イデナ語よりも、前世の母語である日本語に頼る部分がまだまだ大きい。
「読書は結構なことだが、お前はまだ小さいのだから、たくさん眠って身体を成長させることも大切な仕事だぞ。本は明日でも明後日でも読めるのだから、今日はもう寝なさい」
「ほらヴィリー、だからお父様に叱られると言ったでしょう? お部屋に行きましょうね」
ステファンに続いて、居間のソファで編み物をしていた母レナーテも呼びかけてくる。立ち上がった彼女はヴィルヘルムを優しく抱き上げると、部屋の隅から進み出たメイドに「今日は私が連れていくわ」と伝え、そのままヴィルヘルムを寝室に運ぶ。
「母上。寝る前に少しだけ、一目だけでいいから、お空が見たいです」
レナーテの腕の中で、ヴィルヘルムは言った。
前世と合わせると既に二十五年を生きていることになるが、今世で幼子として五年も過ごすうちに、精神も相応に若返ったらしい。母に抱かれていると温かい安心感に包まれ、言葉づかいは自然と幼いものになる。
「分かったわ、一目だけね」
レナーテは頷き、寝室の窓を開けてくれた。
秋の匂いを帯びた風が室内に流れ込む。この時期になると、夜には随分と涼しくなる。
ヴィルヘルムは母の腕から身を乗り出すようにして、夜空に見入る。
「あなたは読書と同じくらい、夜空を眺めるのが好きね、ヴィリー」
「はい。夜のお空は大好きです。心がすいこまれるみたいです」
「まあ、詩的な言葉づかいだこと。将来は作家かしら」
クスクスと笑う母の声を聴きながら、ヴィルヘルムは紫の瞳に天の輝きを映す。
初めてこの夜空を見たのは赤ん坊の頃。珍しく寝つけず、いつまでもぐずり続けるヴィルヘルムを抱え、母は庭に出た。そのとき、ヴィルヘルムはこの人生で初めて夜空を見上げた。
以来、時おりこの夜空を眺めたくなり、その度に母に頼んでいる。
現代日本の夜とは比較にならないほど、鮮やかに多彩に瞬く星々。
そして、星の海の中に浮かぶ、青みがかった二つの大きな月。
この空を眺めていると、ここは前世で生きた世界ではないのだと実感できる。
異世界への生まれ変わり。前世では古典的な童話から、現代の娯楽作品まで、様々な創作物の中で描かれてきた奇跡。その奇跡が自分の身に起こったのだと思い知らされる。
「さあ、今度こそ眠る時間よ」
少しの間夜空を見上げて満足したヴィルヘルムは、レナーテの手でベッドに寝かされ、毛布をかけられる。
「おやすみなさい、私の愛しいヴィルヘルム」
額に優しくキスをして、レナーテは寝室を出ていった。
「……」
目を閉じて眠りにつくまでの静かな時間。ヴィルヘルムはとりとめもない思考をめぐらせる。
この世界で、ヴィルヘルムという人間として過ごしたこれまでの五年間。最初は決して楽しいばかりではなかった。
生まれ変わりなどという異常事態が自分の身に起こったことで、大きな戸惑いを覚えた。これが現実なのか、あるいは夢なのか分からなかった。ここが異世界だと知ってからは、戸惑いはより大きくなった。
赤ん坊用のベッドの中で、あまりにも生きている手応えのある日々を過ごしながら、これは現実なのだとようやく受け入れ、そして今度は悲しみに襲われた。
生まれ育った懐かしい故郷に、日本に帰りたい。家族に会いたい。前世の自分に戻り、またあの人生を生きたい。
とめどなく溢れる感情を、赤ん坊の身体に相応の幼い精神では抑えきれず、毎日のように泣き喚いた。幸いにも、泣くことは赤ん坊の仕事であるため、今世の家族から不審がられることはなかったが。
そんな悲しみの波も、日が経つほどに小さくなっていった。
それは家族の愛があったからこそ。当初は他人としか思えなかった今世の家族たちは、親兄弟として自分に愛情を注いでくれる。父も、母も、フルーネフェルト男爵家の継嗣である兄も、皆が自分を愛し可愛がってくれる。家族として慈しまれるうちに、自分も彼らを家族だと感じるようになった。
ここが自分の新たな家であり、フルーネフェルト男爵領が自分の新たな故郷であり、これが自分の新たな人生である。家族の愛に支えられ、そう受け入れられるようになった。
自分の身に起こったのが前世の姿のまま異世界に降り立つ転移ではなく、別人として生まれ変わる転生であったことも、今世を受容する助けとなった。
前世の最期の瞬間を、自分は覚えている。現代日本人としての自分はあの日、確かに死んだ。だからこそあの人生に戻ることは叶わない。悲しみが幾分か癒えた心は、その現実を受け入れることができるようになった。
現実を受け入れてからは、前を向いてこの世界と、この人生と向き合えるようになった。前世では不慮の死を遂げ、そして新たな人生を得たからこそ、今世を生き抜こうと思えるようになった。この人生での夢を見つけ、この人生なりの幸福を掴みたいと思うようになった。
幸い、前世の中世西洋に似た文明や社会制度を持つこの世界において、自分は弱小とはいえ貴族の生まれ。何をするにしても、ある程度は自由が利く立場だろう。
ヴィルヘルムはこれからの人生を、楽しみだと思っている。将来に思いを馳せ、想像を巡らせ、夢を膨らませ――そして、いつの間にかすやすやと眠っていた。
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