第4話 秘密の人格
僕が小学六年生の時だ。あの日、僕とふゆかだけが夏の暑さに身をやつしながら、母親と戦っていた。
きっかけは簡単なことだった。ふゆかが母親の大切なネックレスを無くしてしまったのだ。そのネックレスは母親がふゆかにあげたもので、本来ならばそれはもうすでにふゆかのものだったのだけれど、母親はふゆかを怒鳴りつけた。
「んなんでなくすのよ。あのネックレスがどれだけ大事なものかわからないの!」
僕はふゆかを助けようと、一緒に謝った。けれど、母親の怒りは止まらなかった。今思えば、時期が悪かったのだと思う。その当時、母親は新しい職場に馴染めずいつもビールばかり飲んでいた。僕の夢の中に、バギッと缶の蓋が空けられる音が何度も登場するほどに…。
「どうしてみんなそうやって私の物をポンポン捨てるの!誰も私の言うことを訊いちゃくれない。あんただってそうでしょ」
矛先が僕の方に向いた。僕はうつむいて母親の怒りを受け入れるしか方法を知らなかった。けれど、ふゆかは違った。
「お兄ちゃんは違うでしょ!」
僕の隣でそう泣き叫んだ。
「あんたは黙ってなさい!大体あんた達、どれだけ私に迷惑を掛けてると思ってるの!この恩知らず共が!」
夏の暑さの中、母親の汚い罵声と、ふゆかの叫び声と、蝉たちの無関心な合唱が僕の頭に響いていた。
気がつくと、ふゆかと母親の言い争いになっていた。僕には彼女たちが何を言っているのかすら理解ができなかった。
ただ、ふゆかが危ない、と思った。
その予感は的中した。
母親は近くにあったハサミを拾うと、それをふゆかに投げつけた。
ハサミはふゆかの頬すれすれで通過していった。僕は動けなかった。ふゆかも、泣き叫ぶのを辞めていた。
一瞬だけ、世界が静かになった。
その後、僕達は庭に放り出され、お父さんが仕事から帰ってくるまで家の中に入れてもらえなかった。母親は、なにかから身を守るようにずっとハサミを片手に持っていた。
僕たちは夏の陽射しをたっぷり背中に浴びながら、じっと母親の機嫌が治るのを待っていた。嫌な時間だった。僕たちは大声を出す気力もなく、ただ母親から逃れるように身を寄せ、小さな声で無理やり微笑みながら「お母さん、あっち行ったね」「うん。私のせい……ごめんなさい」「ふゆかのせいじゃないよ」「……」「大丈夫、お兄ちゃんが居るから」「でも、お母さん怒っちゃった」「それでも、ふゆかのせいじゃないよ」「お兄ちゃん、喉乾いたよ」「我慢だ。もうちょっとで水が飲めるから」「ずっとこうなのかな?」「お父さんがもうすぐ帰ってくるから、きっとそれまでの辛抱だよ」「うん。我慢する」「ふゆかは偉いね」「私、お兄ちゃんの事好き」「ありがとう」
そんなやり取りをしていた。
けれど、僕たちはその後脱水症状を起こして、一日寝込むことになった。その日、初めて僕はこう願ったと思う。
『死にたくない』
と。
木曜日。夜、麦茶のおかわりを汲みに一階に行くと、玄関の開く音がした。嫌な予感がする。僕はすぐに冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いだ。二階に戻ろうと居間を出た時、母親とバッタリ出くわした。
「お、けんちゃん。ただいま」
「…おかえり」
母親は大量に食材の入った買い物袋を抱えていた。
僕が階段に上がろうとすると、ちょっと手伝って、と後ろから声がかかる。
無視しようにも、僕は母親に抵抗する術をもたない。
僕はコップを食卓に置くと、買い物袋から食材を取り出す母親に続き、冷凍庫や冷蔵庫、冷蔵室に食材を閉まっていく。
野菜室に人参を置いている時、母親が僕に声をかけた。
「ねぇ、最近誰かこの家に来た?」
「え?」
僕は手を止め、棚にパスタを仕舞っている母親を見た。
「お客さんとか来てたのかなって」
「さぁ、来てないよ」
僕は野菜室を閉める。
「そっかぁ。ならいいんだけど」
「うん」
僕は立ち上がると、それじゃあ、と言ってコップを持って二階に上がった。
「ありがとねぇ」と母親の声がした。
今日の母親は、機嫌の良い人格をしていた。
部屋に戻ると僕は【魔術教養基礎2】の精読に励んだ。初めは解読は難しいと思っていたが、後ろに単語集がついておりそれを見ながら読み進めれば、文法自体は理解しているためある程度は解読できたも同然だった。
しかし、この【魔術教養基礎2】は面白い。特に今読んでいる第二章には、魂の存在を認め、多次元世界を前提とした上での異世界召喚の方法が書かれている。
異世界召喚は【憑依媒体】と【魔術師の魔力量】と【空間の歪み】の三点に成功確率が大きく影響されるようで、特に【空間の歪み】を用意することが難しいのだそうだ。
【空間の歪み】はすなわち力場であり、この地球にそうぽんぽんとある場所ではない。それこそ、山奥や秘境の地と呼ばれる場所を探さないといけいない。
時計を見ると、いつの間にか二時間が経っていた。それでもまだ、第二章を読み終える気配はなかった。こういう専門書となると、小説を読むよりも圧倒的に時間がかかり、頭が痛くなってくる。
僕は首を回し、肩を回した。
大きなあくびを一度すると、そのまま布団に寝転んだ。数秒が経って、歯を磨いていないことに気がついたが、眠気には勝てず僕はそのまま眠りについた。
金曜日。朝早く学校に着くと笹暮マリアが僕の席に座っていた。
「何してるの?」
「え、あ、ごめん。ちょっとこの席いいなぁって思って」
笹暮マリアは跳ねるように椅子から立ち上がると、手をすっと差し伸べて「どうぞ」と言った。朝早い時間だからいいが、これを昼放課にやられていたら注目の的だっただろう。
「まぁ、いいけど」
僕はリュックを机に置き、教科書類を取り出して机の中に仕舞っていく。マリアはそそくさと席から離れると、椅子を持ってきて机の隣に置いた。
「今日もお願いします」
「うん。今日は何?」
「今日は英語です」
「いいよ。ちょっと待って」
僕はリュックを机の横にかけると、英語のワークを取り出した。
「それで、どこからわからないの?」
「えっとねぇ、ここからなんだけど…」
笹暮マリアとの勉強は、これで五日連続となっていた。今では放課すべてを彼女の勉強に当てている。
「ねぇ、賢治くん」
「何?」
「賢治くんってさ、二組の野々原さんと付き合ってるの?」
「…うん。付き合ってるよ」
「…そっかぁ」
「どうして?」
「ううん。そうなんじゃないかなって、思ってたから訊いてみただけ」
「そう」
「……」
「……」
「ねぇ、野々原さんの、何処がいいの?」
「そうだね」
「……」
「……」
「……」
「心を許せるとこ、かな」
「心を許せるとこって?」
「付き合いが長いということだよ」
「なんか、ずるいね」
「…そうだね」
「……」
「……」
チャイムが鳴った。
放課後、恒例の勉強会で野々原姫に笹暮マリアのことを聞かれた。
「ねぇ、まさか浮気とかしてないよね」
いつになく、彼女の語彙が強かった。
「してないよ」
「それじゃあ、どうして笹暮さんのこと言ってくれなかったの?」
「別に勉強を教えているだけだよ。それ以上の関係性は何も無い」
「ほんとに?」
「うん。ほんと」
僕は水筒のお茶を一口飲んだ。
「もうこれ以上、私以外の女の子と喋らないで」
野々原姫はドンッ、と机に両手を置いて、体を前に倒した。
「いいね?」
阿修羅のように迫力があった。
僕は若干後ろに体を倒す。
「それは難しいな。けど、もう笹暮さんとは話さないようにするよ」
「そう。そうして…笹暮さん可愛いんだから…」
野々原姫の体制が元に戻った。
「確か、来週の土曜日だったよね、誕生日」
僕は野々原姫の機嫌を取るように、そう口にした。
「ふぅん。そういうことはちゃんと覚えてくれたんだね」
「そりゃあね」
「それじゃあ、私の家に泊まりに来てよ」
「え?」
「土日。いいでしょ?」
「急だね。その…親御さんは?」
「いないわ。二人共旅行」
「え、なんで?誕生日なんでしょ?」
「そんなことはどうでもいいの!来るでしょ?」
「えっと、それってつまり…」
「そう。私と賢治くんだけ」
僕の脳裏に様々な想像が噴水のように湧き出てきた。
思考が加速する。
「えっと…」
「何?」
「泊まって、何するの?」
「勉強するのよ」
「まぁ、そうだよね」
「どうかな?」
「わかった。行くよ」
「え?やったぁ」
「何時がいいかな?」
「えっとぉ…それじゃあ当日朝から来て!あ、お金とかもちゃんと持ってきてよ。修学旅行に行くみたいな感じに」
「わかったよ。うん。いいね、楽しみだ」
僕は本気でそう口にした。
「うふふ。やったぁ!」
野々原姫はその日一番の笑顔を見せた。
僕は可愛いと素直に思った。
翌日の土曜日。僕とふゆか、ミチヨさんとお父さんでの四人で朝早くからディズニーランドへと向かった。僕はその時のことについてはあまり深く語りたくはない。ただ、ふゆかが楽しそうにアトラクションに乗ったり、ショッピングをしているので僕としては満足な結果だった。
ちなみに、ディズニーランドで買ったものはお父さんが一時没収した。母親に見つかることを避けるためだった。
月曜日。いつも通り期末テストが到来した。
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