第5話 初めての呼吸
期末テスト明けの土曜日。朝十時に野々原姫の自宅へと僕は向かった。持ち物は一日分の着替えと、歯ブラシやらの小道具。そして、勉強用具と野々原姫への誕生日プレゼント。
インターフォンを押すと、野々原姫の声で「はいはーい」と声がする。僕は来たことを伝え、扉が開くのを待った。
「よく来たねぇ。いらっしゃい」
野々原姫が勢いよく扉を開けた。
「十四歳の誕生日おめでとう。姫」
「ふふふ。ありがとう。さぁ、中入って」
夏の熱気が取り払われ、冷房の効いた室内に僕は案内された。
思った以上に僕は緊張していた。
僕は野々原姫の家に泊まったことがない。これが初めてなのだ…。
野々原姫は居間のソファに僕を座らせると、お茶とスナック菓子を持ってきた。
「ありがとう。姫、僕から誕生日プレゼントがあるんだ」
僕はリュックの中から、ディズニーランドで購入したクマ型のぬいぐるみを取り出した。
「はい」
「うわぁ。すごい嬉しい」
彼女はぬいぐるみを抱きしめると、頭をよしよしと撫でた。
「ベッドに置くね」
「うん。よかった。気に入らなかったらどうしよかと思ったんだ」
「いや、ホント嬉しいよ。私、ぬいぐるみ大好きだから。ありがと」
野々原姫はふんふんとぬいぐるみを抱きながら僕のとなりに座った。そして、コホン、と姿勢を正した。
「賢治くん。私達は今から二時間勉強した後、昼食を取り、その後一時間ゲームをします」
「ゲーム?」
「そう。恋愛ゲーム」
「何、それ?」
「それは勉強した後のお楽しみ」
「それにしても、誕生日なんだから勉強なんてせずにゆっくりすればいいのに」
「いいの。賢治くんが居るだけで、それがハッピーなことなんだから。それに、忘れてないよね?」
「え、何が?」
「む、何がって。今日から正式に私達は恋人なんですよー!」
「あ、うん。わかってるよ。大丈夫、ちゃんと守るよ」
「全く。わかってるならいいのよ」
野々原姫はローテーブルに置いていた問題集を寄せて、ページを開き始める。
僕もそれに習って、出された宿題を解き始めた。
僕たちにとって、勉強という行為は食事と同じくらい身近なものであり、当たり前のことだった。そして、その行いを通して仲が深められるのも僕らの利点でもある。
二時間はすぐに経った。
時計の針が十二時を超えた頃、野々原姫が立ち上がり、「そろそろお昼にするね」と言った。
「お昼?姫が作ってくれるの?」
「うん。そうめんをね。昼はしょぼいけど、夜は買い出しに行ってパーティーだよ」
「そりゃあいいね。楽しみだ!」
「というわけで、賢治くんはそのままゆっくりしてて」
「うん」
僕は言われた通り席に着いて、麦茶を飲む。おかわりを伝えたら、すぐに冷たい麦茶を注いでくれた。菓子をつまみ、麦茶をぐびっと喉に通す。
それから僕はソファにもたれかけ、一息ついた。
そしてふと、こんな言葉が漏れてしまう。
「ああ…すごい平和だなぁ」
「そう?」
キッチンから野々原が言う。
「うん。すごい平和だよ」
「よくわからないけど、いいね。賢治くん今すごいいい顔してる。可愛い」
野々原姫は笑顔を作る。
今だって思う。彼女は可愛い女の子だ。性格も悪いわけじゃない。広い家で暮らしていて、僕の…僕の友達で…そして、恋人で…。
「やっぱりいいな。もうこの家にすんじゃいたいくらい」
「住みたい?」
「無理でしょ」
「だね。でも、今日はお泊まりですよ賢治くん」
野々原姫はふふん、と楽しそうに鼻を鳴らした。
「うん。最高に気分がいいよ」
今日一日は、母親とも、ミチヨさんとも、お父さんとも会わなくて済むのだ。居るのは、野々原姫だけ…。なんて最高だろう。
普遍的な日常ほど僕が望むものはない。
現状が永遠に維持された時、僕はものすごい幸福を得るのだろう。
「やっぱり、ほしいなぁ」
「ん?何がほしいの?」
気がつくと、野々原姫が食卓にそうめんが入ったお皿を置いていた。鋭い目つきが僕を見ている。
「いや、なんでもないよ」
「誕生日の時に買ってあげるよ」
「買えないものだから」
「なにそれ?気になるなぁ」
「僕がほしいのは世界平和だよ」
僕は適当に答えた。
「おお…大きい願いだね。でも、賢治くんならできそうだねっ」
「むちゃを言うなよ」
「…そうかなぁ」
「そうだよ」
僕は立ち上がり、食卓の席に着いた。前に、野ノ原姫が座っている。
「それじゃあ」
「うん」
「「いただきます」」
食事を終えて小休憩を挟むと、野々原姫が急に「それでは恋愛ゲームを行います」と自信たっぷりに宣言した。
パチパチパチ。
僕は拍手をする。
「どんなゲームなの?」
「ふっふっふ。まずはこれを見て!」
野々原姫はそう言って、何処からともなくトランプのようなカードをローテーブルに置いた。それを半分に分け、赤と青の束が二つ横並びにする。
「これは何?」
「これはね、恋愛シチュエーションゲームって言うの。ほら、赤と青に札が分かれてるでしょ」
「うん」
「赤は場所、青はシチュエーション。二人それぞれが、青と赤のカードをめくって、示された状況を即興で演じるってゲーム。恋人同士だけができる素晴らしいゲームなのですよ」
「中々あくどいゲームを持ってるんだね…」
「これで賢治くんの内面を暴こうと思ってね」
野々原姫は悪代官のような笑みを浮かべた。
僕は久しぶりに笑えてきた。
「ああ、いいじゃない。やってやる」
「よっしゃぁ。では、まず一回目」
野々原姫が赤のカードをめくった。
ひらり。
「えっと、体育倉庫。おー、なんだかベタだね」
ベタなんだろうか?
「体育倉庫か…次は僕だね」
僕が青い札を一枚めくる。
ひらり。
「えっと…あなた達二人は肝試しに訪れた帰りです。彼女は幽霊に取り憑かれたようで、錯乱した行動を取っています。彼氏は彼女をなだめ、正気に戻してください」
「よっしゃ。やりますか」
「え?」
「えーん。ここから出して!私は幽霊なんかじゃないよぉ」
野々原姫は壁を叩くふりをする。
「えっと…姫?」
「ああ、賢治くん。どうしようどうしよう。大変なことになっちゃった。私達体育倉庫に閉じ込められちゃった」
ちらり、と野々原姫はこちらの様子を伺っている。ノリノリじゃねーか。
「そうだね。まずは本当に閉じ込められたのかを確認しよう」
「うう。賢治くん。私達これからどうなるんだろう…。あ、今なんか幽霊の聞こえた。なになに、ここから出たければ一日賢治くんといちゃいちゃしろって。えー、しょうがないなー。賢治くん、ハグ」
「どういうシチュエーションだ!」
「だって、幽霊がそういうんだもん」
野々原姫が上目遣いで媚びてくる。
何だこのゲーム。実践者の妄想に頼りすぎだろ。ゴールも設定されてないし。ガバガバじゃねーか。
だが、現在進行系で野々原姫が両手を前に広げた姿勢で僕にゆっくりと近づいてきている。
「ああもう、しょうがないなー」
僕は野々原姫に近づいて、その体を優しく包容してやった。
昔、妹にしてやったように…。
「うおっ」
「な、何だよ」
「いや、すごい積極的だなって…」
「…姫だからしてるんだからな。他はしない」
「え…そう。ひひひっ。照れるねぇ」
「お前だってその目つきと言葉が合ってないじゃんか」
「うう。それは生まれつきー」
僕らはそれから二十秒は抱き合っていた。
それが、僕らの信頼の証のように。
「そろそろいいだろ」
僕からゆっくりと離れる。
「そ、そうだね。じゃあ、次のを引こう」
「体育倉庫からの脱出はどうなるんだよ」
「もういちゃいちゃしたからいいの。ほら、私は混乱から開放されて幽霊も成仏して、体育倉庫からは無事脱出しました!めでたしめでたし」
「なんかすごい好都合だね…まぁ、いいけど」
「しゃっ」
こうして二時間ほど僕たちはこのガバガバ恋愛シチュエーションゲームに励んだ。他にもトランプをしたり、公園でバスケをしたりした。
その後、恋人らしく一時間ほど買い出しに出かけ、夕刻の食卓にはチキンとケーキとピザが揃った。二人で食べるにはだいぶ多い量になったけれど、僕たちはゆっくりと会話をしながらそれらをすっかり平らげてしまった。
夜、ローテーブルで残った宿題を片付けていると、野々原姫から声がかかった。
「私、今からお風呂に入ってくるね」
「あ、うん。わかった」
時計を見ると、時刻は二十時ピッタリ。ちょうどいいと思い、僕はシャーペンを置く。
スッと橋本よるの新作に手を伸ばした時、「別に覗きしてもいいんだよ?」と不可解な声が聞こえ、「するか馬鹿!」と僕は大声で叫ぶ羽目になった。
「ふふふ。かわいいなぁ」
野々原姫はなにげに可愛い声を残して、廊下に足音を響かせた。
僕は静かになった居間で、橋本よるの新作を読むことにした。
橋本よるの作品は、いつも刺激が多い。本作は幽霊、人の認知、認識、差別、と扱うテーマが多く、複雑で、深い。また、主人公である霊媒師の言葉がいちいち重たかった。彼はこの作品で除霊というより、説教をしている。
「人は過去に縛られ生きている、か…」
まんま僕のことだった。
「お風呂上がったよー」と声がしたので、僕はそちらに目を向ける。
ピンク色の夏用パジャマを着た野々原姫が、ひょこっと僕の前に現れた。髪を乾かしてないのか、後ろになびく黒髪が蛍光灯の光をキラリと反射していた。
「了解。じゃあ、入ってくるね」
僕は言いながら、リュックの中から明日の着替えと洗濯物を入れる袋を取り出した。僕はパジャマを使用する人間ではなく、明日着る服をそのままパジャマとして使う人間である。これなら、多くの手間が省けてよろしい。シャンプーとリンスの置き場や蛇口の使い方なんかはすでに教えてもらっていたし、何か風呂場で問題が起きることも無いだろう。
荷物を抱え脱衣所に入った時、「ねぇ」と後ろから声がかかった。
「な、なに?」
僕は驚いて振り返る。
「洗濯機に私のパンツとかブラジャーが入ってるから、触らないでね」
野々原姫は僕を試すようにそう言った。
なぜ下着と言わず、わざわざ固有名詞で伝えるのか。
「あ、うん。わかってるよ」
僕は無感情を装って言う。
だが、野々原姫の視線は僕から離れることはなかった。
「な、何?」
「ふぅん。それじゃあ、ごゆっくり~」
パタン、と扉が閉められる。
「まさか姫のやつ、僕が本当に下着を手に取るとでも思ってるのか?」
妹の下着を毎日のように見ている僕に、そのような趣味は失われている。
だがしかし、洗濯機は蓋が開いていた。中を覗けば、きっと彼女が言う通り下着があるのだろう…。
ただでさえ脱衣所には甘ったるい香りが充満しているというのに、どうしてこう追加攻撃をしてくるのか。僕は深呼吸をした後、機械のように服を脱ぎ、袋に詰め、風呂場へと足を踏み出した。
十分ほどの入浴後、僕が風呂から上がると野ノ原姫はソファで棒アイスを片手に僕が持ってきた小説を読んでいた。
「どう?面白い?」
「ん」野々原姫は顔を上げる。「うーん、あんまり。よくわかんないし」
「アイス、僕も食べていい?」
「いいよ。冷凍庫にあるから勝手に開けて」
「ありがとう」
僕がアイスを持って戻ると「そう言えば、私の下着は何色だった?」と野々原姫が訊いてきた。
「知らないよ。見てないから」
僕はなるべく無感情に答える。
「えっ嘘!」野々原姫は信じられないものを見る目で僕を見る。「なんで見てないの?」
「逆に見てほしかったのか!」
「ええー。絶対に見るもんだって思ってたんだけどなぁ」
野々原姫は残念と言わんばかりに顔を沈め、その後ふっとこんなことを言った。
「じゃあ、夜は一緒に寝よ」
「え?」
「いいじゃん」
野々原姫は立ち上がると、甘ったるい表情のまま僕に近づいてきた。
「ダメ」
「いいじゃん」
「こら、ハグしようとしない」
「さっきしたじゃん」
「今はダメ」
「昔ちゅーもしたじゃん」
「…あれは気の迷いで」
「昔、私の裸見たじゃん」
「……」
それでも、流石にそのようなことをしでかすわけにはいけないので、僕は強く硬い意志を持ってその提案を断り、居間のソファで眠ることを確約した。
二十三時が経過した時、一通の着信が入った。
『お母さんが捕まった』
お父さんからだった。
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