第3話 不吉な話題

 月曜日。テスト一週間前ということで、この日から四十五分の短縮授業となる。直射日光の当たる窓際でノートを開いていると、一人の影が近づいてきた。

 顔を上げると、学年のマドンナ笹暮マリアだった。

「あの、賢治くん。数学でわからないところあるんだけど、教えてもらっていいかな?」

 僕は聞かれて、数秒間黙ってしまった。

 その美しい容姿に目を惹かれてしまう。

 パッチリとした二重のまぶた。輪郭のはっきりとした童顔。小さな唇と鼻先。切りそ終えた前髪に天使のようなソプラノの声が合わされば男子は誰だってイチコロだろう。

 そう――僕だって野々原姫という免疫がなければころりとやられるところだった。

「いいけど。他の人は居ないの?」

「え、あ、えっとね、賢治くんがいいの。賢治くん、ほら、いつも数学満点じゃない?だから教えてもらおうと思って」

「そうなんだ。いいよ。ここでやる?」 

 彼女は数友とペンを持って来ていた。

「あ、うん。ありがと。えっと、椅子は…」

 彼女はあたりを見渡した後、自分の椅子を持ってきて横に置いた。

 その動きで、クラスメイトたちの視線が僕の方に集まっていく。

 笹暮マリアは数友を開くと、手で髪をかきあげた。

「えっと、ここからわからなくて」

「どれどれ…」

 数友を挟んで、僕と笹暮マリアの顔が近づく。

 甘い匂いが鼻腔をかすめた。

 僕は少しだけ、ドキドキした。

 笹暮マリアの質問に合わせ、式の解き方を説明する。

 笹暮マリアはその説明を熱心に聞きこんでいく。

 数分間顔を合わして説明するだけで、変な汗が出てきた。

 顔を上げる。

 笹暮マリアと目があった。

 心臓の鼓動が一気に跳ねる。

 僕はつい目線をそらす。

「あ…一つ訊いていい?」

 笹暮マリアが、一息間を置いてからそう言った。

「何?」

 僕はゆっくりと視線を笹暮マリアに戻す。僕は彼女の奥にある窓を見つめた。

「えっと、その…なんて言ったらいいんだろ…」

 彼女は囁くような声を出した。

「あの…」

 彼女は声を張って、すぐにうつむいた。

「ごめんね。やっぱり、大丈夫」

「そう…」

 僕は笹暮マリアをみないで頷く。

「もうすぐチャイムが鳴るね。今日はありがと。またお願いしていい?」

 彼女は席を立つと、椅子を持ちながらそう言った。

「いいよ。別に」

「ありがとう。それじゃあ」

「うん」

 

 僕はその日、友人の中西雄大に何度も笹暮マリアとの関係を問いただされた。だが、僕は全てにおいて、なにもない、を突き通した。

 野々原姫と笹暮マリアどちらを選ぶか、という問いもされたが、それに対しては即答で野々原姫を選んだ。

 中西雄大は笑って「お前が羨ましいぜ」と答えた。

 

 野々原姫に今日のことは言わなかった。日課となった二人だけの勉強会を終えると、僕は帰宅した。

 玄関にミチヨさんの靴があった。彼女はここ数日、六時半から七時半までの僅かな間だけ、家に滞在するようになった。母親がパートで五時に家を出、十時に帰宅するというルーティーンがあるから、そうしているのだそうだ。父さんの帰宅も、それに伴い早まっていた。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 ミチヨさんが食卓に座っていた。

「おかえり、お兄ちゃん」

 ふゆかがキッチンで何かを作っていた。

「ただいま。ふゆか、何作ってるの?」

「プリン!今作り方教えてもらってるの」

「そうなんだ」

「賢治くん。ふゆかちゃんのプリン作るの上手なのよ。きっと美味しいよ」

「それは楽しみですね」

 僕は笑顔を作る。

 ミチヨさんも笑顔を作った。

「お父さんは…」

「お父さんはね、今日ちょっと遅れて帰るそうよ」

「…そうですか」

 どういうつもりだろう。

 赤の他人を、子供たちだけで対応しろと言うのか。

「あのね、二人に相談があるんだけど」

 ミチヨさんは微笑みながら、僕らの顔色を伺った。

「なんですか?」

「えっと、今度のお休みにディズニーランドに行かない?行った事が無いって言ってたから、どうかなって思って」

「え!いいの!行きたい!」

 ふゆかが歓喜に震えた声で叫んだ。

 ミチヨさんはふゆかに微笑んだ後、僕の方を見た。

 彼女は僕が一番の強敵だと認識しているようだった。

 僕はふゆかのことをじっと見つめた。ふゆかは無垢な表情で、本気の笑顔を振りまいている。よっぽど嬉しいのだろう。

「…いいですよ」

 僕は笑って答えた。

 瞬間、ミチヨさんの顔がこれまで見たこと無いほどに輝いた。

「ありがとう。絶対に連れてってあげるから。約束するね」

 彼女は小さくガッツポーズをした。

 僕はリュックを下ろしに二階に上がった。


 机の上に、宅配の荷物が置いてあった。僕はすぐに理解した。おじいちゃんからの物だ。段ボールの封を開けると、十センチほどに積まれたA4の紙束が見えた。それらはホッチキスで止められている。表紙にはゴシック体でデカデカとこう書かれていた。

【魔術教養基礎2】

 僕はこの1を持っている。

 手にとって、ページを捲る。

 わからない単語が多かった。

 すべて、この世の言語ではない何かで書かれている。

「…わかんねぇよ」

 僕は微笑みながら、愚痴を吐く。

 心臓がまるで孤独を打ち消すように高鳴っている。

 まさに、新しいおもちゃを与えられた子供の気分だった。

 僕は橋本よるの新刊とこの【魔術教養基礎2】のどちらを読むべきか迷い、橋本よるの新刊を先に読むことにした。先に買った本を読む。僕はそう決めていた。

 三十分ほど経過した頃だろう。

 ノックがした。

 意識がそちらに向かう。

「おにいちゃん。入っていい?」

「いいよ」

 扉が開く。

「おじゃまします」

 不安そうな少女が僕の前に躍り出た。

「どうしたの?」

「お兄ちゃん。あのね、私思ったんだけど…ディズニーランドにお母さんは来ないんだよね?」

「…うん。行かないだろうね」

「お母さん、どうなっちゃうの?」

「多分、離婚すると思う」

「離婚?」

「そう。意味はわかるだろ?」

「うん…でも、実感ない」

「きっと、お母さんの代わりにミチヨさんがこの家に住むだろうね…」

 僕は体の力が抜けそうになった。

 なんだろう。

 笑えてくる。

「えっと、なんでミチヨさんがこっちにくるの?」

 ふゆかは泣きそうな顔で笑顔を作っていた。

 僕以上に、わけがわからないだろう。

「そういう風になってるんだ。だからこれは、仕方のないことなんだ」

 そう、仕方のないことなんだ…。

「あのさ、それってお母さんが増えるって…事、だよね?」

「…そういうことになる」

「なんでそうなるの?」

 ふゆかの瞳から、しとしとと涙が落ちていく。

「大丈夫だから」

 僕はふゆかの肩に手を置いた。そして、精一杯の笑顔を作る。

「お母さんも大丈夫だし、ミチヨさんが来たって悪いことは起きない。大丈夫だから」

「うん…ミチヨさんは、いい人」

 嗚咽のような声だった。

「でも…」

「大丈夫だから…」

 僕はふゆかを包容してやる。

 ふゆかの鳴き声が、腹の中から聞こえてきた。

「大丈夫。お兄ちゃんが居るから」

「うん…」

 僕らはただただ子供なのだ。

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